望月麦は、パンで心を温める。
星灯 ほのか
プロローグ
月見坂は、都心から電車で少し離れた、静かな住宅街。古い石畳の坂を下りた裏通りに、『月麦堂(つきむぎどう)』という小さなパン屋がある。
店の外観は、控えめだが温かい。濃い茶色の木製看板が静かに掛かっており、
上部が緩やかな半月型に削られた看板には、落ち着いた墨文字で
「月麦堂」と彫られていた。
窓ガラス越しからは、朝早くから小麦の甘い香りと、酵母の優しい匂いが漂っている。
店主の望月 麦(もちづき むぎ)は、いつも口数が少ない。
年齢は三十代後半、華奢な体に白いエプロンが馴染んでいるが、
その雰囲気は、まるで春の陽だまりのようにあたたかく、ふんわりとしている。
朝五時。麦が仕込みを始めるキッチンに立つと、生地に触れるその手つきは
驚くほど繊細だ。
麦の作るパンは、見た目は地味だが、すべてが驚くほどしっとりと柔らかい。
北海道産の小麦を使い、時間をかけてじっくり発酵させる。
どのパンも、口に入れるとバターや卵のホッとするような甘さが広がり、
まるで人肌のような温かさで心を包み込む。
七時を過ぎ、製造補助の陽太と販売担当の葵が、ほぼ同時にキッチンに現れた。
「麦さん、おはようございます! 今日も最高にいい天気で、最高にいいパン日和ですね!」
陽太は麦とは正反対に、朝からエンジン全開で声が大きく、
そのおかげで早朝の重い空気が一掃される。
彼は勢いよく作業に取り掛かろうとするが、麦が生地の微妙な温度を調整している最中、大きな音を立てて小麦粉の袋を落としそうになる。麦は動じないが、
製造工程にはヒヤリとする瞬間が頻繁にある。
葵は、陽太の元気な挨拶を微笑ましく見つつ、まずは麦と陽太の二人へ向かって
優しく微笑んだ。
「麦さん、陽太くん、おはようございます。今日も一日、よろしくお願いしますね」
そして、陽太に向かってそっと付け加えた。
「陽太くん、今日も元気いっぱいだけど、まだ朝の七時。この辺りは寝ている人もいるから気を付けてね」
陽太は「す、すみません!」と頭をかき、葵は笑顔のまま棚の整理を始める。
この、陽太の活発さを葵がさりげなくカバーする連携のおかげで、麦はパン作りの一番大切な工程に専念できていた。
そして午前九時、開店準備が整った。
麦は、店頭に並んだパンの焼き色を確かめ、陽太と葵の方を向いた。
「葵さん、陽太くん。今日も、無理せず、元気にいきましょう」
麦の優しい声に、陽太と葵は顔を見合わせ、明るく答えた。
「「はい!」」
麦は、彼女たちの返事に小さく頷き、彼女たちのテキパキとした動きを見守る。
麦の仕事は、ただパンを焼くことではない。 彼女は、レジに並ぶ客や、パンを選んでいる客の様子を、常に見つめている。その日の天気や、客の歩き方、服の皺一つから、
「その人の心の飢え」が、麦には手に取るようにわかってしまうのだ。
そして、麦は確信する。
人は皆、外側を焦がしたり、形を歪ませたりしながら生きている。だが、どんなに傷ついた人にも、必ず心の真ん中に、温かくて守るべき『安心できる場所』がある。
自分の役割は、客がその「安心できる場所」に気づけるよう、そっと手を貸すことだ。
彼女が、客に渡すパンに添える小さな白いメモ。それは、特別なパンと共に、客の心の硬い鎧を解くための、麦からの最初で最後の一言だった。
今日もまた、麦はパンをオーブンに入れる。香ばしい匂いが立ち込め、静かな月麦堂に活力が満ちる。
「望月麦は、パンで心を温める。」
そうして、月見坂の『月麦堂』の一日が始まるのだった。
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