燈火
月戸 夜
燈火
『――続いてのニュースです。昨夜未明、市内で住宅火災があり、原因は放火とみられています。現場に――』
自分に関係のないニュースが流れ始めたため、テレビを消す。
先ほどのニュース番組の天気予報では、もうそろそろ梅雨が終わるとのことだった。この梅雨の雨に先ほどの火事の炎は抗うのか、などと理屈にもならない推測をしていた。
梅雨が明けたら暑い夏がやってくる。最近の夏はどうも気温が高くて嫌になる。まぁ気温が高くなろうとも、会社に行くことに変わりはない。
自分以外の誰もいない部屋に鍵をかけて、いつもと変わらない道で、いつもと変わらない駅で、いつもと変わらない電車で、いつもと変わらない会社に行き、いつもと変わらない仕事をする。
今日も特に何事もなく仕事を終え、帰路につく。同僚たちは飲みに行くらしいが、透明人間と化している僕は、誘われもしなかった。でも、それが日常だ。誘われても行く気はないが、誘わないのもいかがなものかと思う。そんなことを思いながら暗くなった帰り道を歩いていく。
満月が照らす夜、月に見つからないようにと人気のない路地の奥に、人影があった。
ライターの火花がパチッと弾け、小さな炎が浮かぶ。
僕は声をかけられなかった。ただ、立ち止まり、見ることしかできなかった。
炎は一瞬、僕のほうを見るように靡いた。
「あ、」
思わず、声が出てしまった。
男は振り返り、僕の存在に気が付くと、慌てて暗闇に逃げていった。火はつかなかった。
まだそこに熱が残っている気がして僕はその場に立ち尽くし、瞼の裏に焼き付いた小さな炎の影を見ていた。
家に帰ってからもしばらく、あの炎のことを考えていた。
もし、あの男が火をつけていたら、どうなっていただろうか。ゆっくりとライターをごみ袋に近づけると、火が燃え移る。プラスチックは溶け、炎は袋を破って中身を蝕み、炎が呼吸を始める。
ごみ袋の中身が燃えるゴミであれば、紙などが入っているはずだ。そうすれば、さらに勢いを増して大きな炎となっていく。次第に近くの建物にまで炎が及び、やがては誰かの肌にまで及ぶかもしれない。
もちろん、それはただの想像に過ぎない。けれど、瞼の裏では炎が燃え広がっていた。
翌朝もいつもと変わらず、会社へと向かう。すると珍しいことに昼休憩の時に隣の机の女性に声をかけられた。
「???さん、なんか変わりましたか?いつもより表情が明るい気がします!」
「そうですか、」
そういうとその女性はにこにこしながら休憩室に入っていた。
一緒に昼ご飯を食べる相手もいないため、デスクに向かって黙々と食事をしていると、休憩室での会話が聞こえてきた。
「お前、???に惚れてんの」
「えー、なんでー?」
「さっき話しかけてたじゃん」
「いやいや、なわけないでしょ、でもなんか変わったなって思って」
「ふーん、なんも変わんねぇだろ。いつもと変わらずしけた面してるし。やめとけよ、あんなつまんねぇ男」
確かに、僕はつまらない男なのかもしれないと思いながらも、不思議と気持ちは落ちなかった。なんだか、心の炎に風が吹いた感じがした。少しずつ炎は僕を食らっていく。
家に着くと早速、帰りに買ってきたライターを取り出す。ごみ箱からくしゃくしゃのメモ用紙を拾い上げた。ライターを当てると、端から黒く縮み、やがて灰に変わる。灰になるのは一瞬なのに、燃えている間だけは何かを主張しているようだった。その様を見ているだけで不思議と心が落ち着く。次も次もと燃やしているうちに家の紙は大体燃やしてしまっていた。
虚無感と向かい合うようにダイニングの椅子に座っているとふと、思いついた。冷蔵庫を開けると、豚肉の切れ端があった。そこにライターを近づけると、油がゆっくり溶けて、じゅうと音を立てた。紙が灰になるのとは違う。肉は縮み、表面が黒く焦げ、独特の匂いを放った。それは、台所で漂ういつもの匂いとは少し違う生々しい匂いだった。焦げた豚肉は、ただの食品ではなく、かつて生きていたものの断片に思えた。
ここ三日間は帰りにルーズリーフを買い、家に着くとすぐに紙や肉を燃やしては眺めていた。けれど、心が渇いてきていた。僕が求めているのは、もっと大きな炎だ。
月がまだか細い夜、ライターを持って家を発つ。自分の中の炎に出会ったあの日の路地裏に行く。誰も取りに来ないごみ袋がいくつも積まれていた。ごみは燃やされるためにあるんだ。
ライターをかざすと、袋の端からあっけなく炎が広がっていく。プラスチックが溶け、煙が黒く昇る。炎は、袋の山を蝕みながら大きく呼吸をしていた。赤く、熱く、大きくなっていく。あの日、想像していた通りだった。その光を見ていると、小さな紙切れや肉片、ごみなんぞでは物足りなくなっている自分に気づいた。
僕が欲しいのは――もっともっと大きな炎だ。
この僕の渇きを満たせるのは、もう。
そう思ったときには、足はすでに動いていた。
市内の外れのただの一軒家に来ていた。
窓から中へと侵入し火をつける。
紙は灰になった。肉は縮み、焦げた。ごみ袋は呼吸を始めた。そして――人間の肉は。
毎晩、月が昇ると、家を出た。今日も人に火をつける。
「あぁ、なんて美しい。」
思わず声が出るほどに美しかった。皮膚がぱちぱちと音を立て、脂が弾け飛ぶ。甘い匂いが鼻を満たし、思考を蕩けさせた。炎と一緒になって人間も踊っていた。叫び声とともに狂おしく。
炎は誰をも平等に抱き、誰をも差別しない。人間も、紙も、肉も、ただ赤に蝕まれ、溶けていく。
その瞬間だけ、僕は世界の中心となる。
『――続いてのニュースです。今夜も市内で放火がありました。――』
テレビを消さず、この薄暗い街を赤く染めに行く。
無人の部屋には、アナウンサーの声だけが残されていた。
あとがき
数ある作品の中から「燈火」を見つけて下さり、本当にありがとうございます。この奇跡を大変喜ばしく思います。
あなたの日々をこれからも彩れますように。
燈火 月戸 夜 @Tukito_Yoru
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます