空っぽの愛に押し潰される

Yuki@召喚獣

からっぽ

 ざぁざぁと雨が降りしきる音が窓越しに聞こえる。パイプ製の安い錆びたベッドは、俺が軽く腰掛けるだけでぎぃぎぃと不快な軋みを上げた。

 十畳程度の部屋にキッチンの付いた1Kのアパートは、キッチンは小綺麗に片付けられているのに十畳の部屋の床には物が散らばっていた。


 壁には流行りのアイドルのポスターと、近所のインテリアショップで買ってきた壁掛けのデジタル時計。部屋のインテリアなんて何も考えずに好きなものを買って置いてきた部屋は、統一性もなく雑多なものが適当に配置されていて無駄に生活感を感じさせた。

 煙草を吸おうとして手を伸ばしかけて、そういえばしばらく前に禁煙してから煙草もライターも買ってなかったなと思い直す。どうやら自分で思うよりも混乱しているのかもしれなかった。


 心を落ち着けるために近くに落ちていたテレビのリモコンを手に取る。電源を点けて適当な番組を流した。

 売れっ子の芸人がひな壇で爪痕を残そうと一生懸命しゃべる。司会者がそれをいじって、出演者が馬鹿みたいに笑う。金のないテレビ局が動画サイトの擦り切れるほどに使い古された動画を流して、無様なアテレコをあてている。


 ふと自分の手が震えていることに気付いた。心臓はいつも通りで変わりはないけど、その代わりに手が小刻みに震えることでバランスをとっているようだった。

 そんな震える手でスマホを持ったものだから、上手いこと操作できずにロック解除をしたところで手から滑り落ちてしまった。


 固いものが床に当たる硬質な音が響いた後、びちゃりと液体に飛び込んだような音が響いた。俺の足に生暖かい液体が跳ねてきて、そういえば血ってあったかいんだよな、なんてどうでもいいことを思ったりもした。

 スマホを拾うために腰を上げようとして、なんだかそれも面倒くさくなって結局止めてしまった。


 まあ、なんだ。これから先のことを考えなければいけないけど、今はそこまでの気力がわかない。大事なものを自分の手で壊したつもりだったけど、なんだかそれも違う気がした。

 大事だと思っていたんじゃなくて、大事だと思いたがっていたというか。本質的には何とも思ってなかったくせに、何とか思っているように自分を騙していたというか。


 頭をすっきりさせるために酸素を取り入れようと思って、鼻から息を吸い込む。鼻腔いっぱいに錆びた鉄のような匂いが広がってむせこんでしまった。

 換気でもするかどうか。頭の片隅にそんなのんきなことを考えるスペースを確保しながら、俺は目の前に転がるに目を落とした。


 果物ナイフが背に突き立って、うつ伏せに倒れている。今もまだ背中から血が流れていて、ナイフが刺さったままなのにどうして血が流れているんだろうと思って、そういえば刺さってる場所以外にも刺した場所があったな、なんて一人で納得した。


「はぁ……」


 芸能人の笑い声と、降りしきる雨の音が響き渡る。

 俺は重い腰を今度こそ上げて、血の海に沈んでいたスマホを拾い上げた。






 小さい頃母親が死んだ。俺が物心ついてすぐの話だった。だからなんだって話なんだけど、俺には母親と過ごした記憶っていうものがほとんどなくて、俺が覚えてる母親といえば保育園の送り迎えをしてくれた姿と、病院のベッドの上で白い布を顔にかけられている姿くらいのものだった。

 父親に関しては、俺はどうこう思うことはあまりない。世間的に見れば最低なやつだったことは間違いないし、俺も他人に父親の説明をするとしたら最低なやつだったって言うだろう。


 子育てなんかハナからする気はなかったみたいだし、飯も作らないし家事だって何一つやりはしない。家にいることの方が珍しくて、家にいない間は仕事してるかパチンコしてるかのどっちかだ。

 家に食べ物も何もなくてお金もなくてひもじい思いをしていた時に、父親が遊んでいるパチ屋まで父親を捜しに行った挙句、見つかった父親にパチ屋の外に放り出されて放置されたこともある。パチンコに負けた腹いせに殴られたりだとか。


 好きか嫌いかで言えば間違いなく嫌いな人間だったけど、ある意味では感謝もしていたりする。俺に無関心だけど進路に関するお金にだけはケチをつけなかったから、俺は進路に関して悩んだことはなかった。俺がどこに行きたいと言っても「そうか」の一言で済ませるし、金が無いから公立に行けとか、奨学金を借りろとか、そういったことは一切言わなかった。


 おかげで俺は進学に関しては特に苦労することはなかった。俺が勉強さえしていれば好きなところに入れたからだ。

 だから自分のいける範囲で自分の希望通りの進路に進むことができた。ただまあ、それ以外に関してはネグレクトの最低な人間だったのは間違いないから、人に言う時は最低な人間だったっていうけど。


 俺が大学に入った頃、それまでの何がどうたたったのかは知らないけど、父親はあっさりと死んでしまった。

 何故か大学の学費分だけきっちりとお金が残されていて、それ以外は持ち家も何もなかったから少しだけ苦労したものだ。


 ようやく一人暮らしのアパートを借りて諸々の葬儀や手続きなんかを終わらせて一息つく頃には大学も夏休み前まで進んでて、俺は完全に出遅れてて今更大学で出来上がっているコミュニティに入るなんてできなかった。

 ただまあ、別にコミュニティに入れなかったことが何か不都合があったかっていうと別にそうでもなくて、元々人と関わることが得意じゃなかった分むしろ気を使わなくてよかったかもしれないなんて思うほどだった。


 落ち着いた頃にすぐに入った夏休みでは、ほとんどの時間をバイトをして過ごした。学費分しか父親の残した遺産はなかったから、それ以外の生活費は自分で稼ぐ必要があった。

 特に連絡が取り合えるような親戚もいなかったから、俺は一人で生きていく必要がある。それは今も変わってないし、当時もそのつもりだった。


 夏休みが終わってまた大学に通い始めてから、俺に関わってくる人間がいた。

 俺はその人間がその当時も嫌いで、今も嫌いだった。父親なんかどうでもいいけど、その人間だけは本当に人として無理だった。


 別にその人間がいけ好かないやつだったとか、頭のおかしいやつだったとか、悪意を持って人に接してくるとか、そういう人間だったわけじゃない。むしろ逆だ。全くの逆だった。

 悪意がなくて、人のことを考えていて、性善説で生きているような人間だ。正直に言って反吐が出る。


 俺は別に性悪説の信奉者じゃないし、人間が全員悪意を持って生きていると思っているわけでもない。でも全員に善性があるかどうかは疑問が残るところだし、たとえそうだったとしても自覚のない悪意を振りまくことだってある。

 神楽坂かぐらざかというこの人間が善性の塊だったとしても、俺にとって神楽坂の振る舞いは無自覚な悪意に取りつかれているようにしか見えなかった。


「一人でいると寂しくないか?」


 そんな、昔からの創作物なんかで使い古されていそうなセリフで持って俺に話しかけてきた神楽坂は、大学生活のスタートが遅れて一人で過ごしていた俺を憐れんでいたのだろう。

 俺がなんとも思っていなくて誰にも頼ることなく、もちろん助けなんか求めてもいなかったにもかかわらず話しかけてきた神楽坂は、まるでそうすることがとてもいいことだとでも喧伝するように俺をコミュニティーの輪に入れてきた。


 俺はそのことがとても迷惑だったし、俺だけじゃなくて元々コミュニティーにいた人間だって口には出さなくても迷惑だっただろう。現に目はそう物語っていたし、俺を歓迎する口ぶりの人間はほとんどいなかった。

 そんなコミュニティーにいるのは苦痛でしかないのは誰でも共通していることで、このことに関しては俺がディベートで必死に相手に訴えかけたりしなくても理解してもらえることだと思う。


 つまるところコミュニティーに入れられたところで俺は全く嬉しくもなかったし助かってもいなかった。そしてコミュニティー側も俺と意見が一致していたこともあり、俺は最初に神楽坂に無理やり連れられて以降はコミュニティーに参加することはなかった。

 普通の人間ならここで俺をコミュニティーに参加させることを止めると思うのだが、神楽坂という人間は何故かそうはしなかった。


 いや、正確には俺を無理やりコミュニティーに連れていくことはやめた。けれども自分を通じて俺とコミュニティーのつながりを維持しようと俺に関わり続けた。

 正直に言って俺はこの時点で神楽坂のことを相当面倒な人間だと思っていて、そのことについても隠さずに態度に言葉にと出していた。それなのに神楽坂は俺のことを友人だと言い回り、俺とかかわりを持ち続けた。


 何かしらの創作物ならこういう関係から徐々に俺がほだされて、最終的には親友のような立ち位置になったのかもしれない。でも俺はそうはいかなかった。

 理由なんて決まっている。さっきも言ったが、神楽坂には無自覚な悪意がある。俺に対してはそれが顕著だ。


 俺の過去の事情を聞きたがり、俺の生活に踏み込んでくる。もちろんそういう神楽坂の行動が心の救いになるやつはこの世界にいることだろう。本心をさらけ出して助けを求めて、救済を待ち望んでいる人間がいることだって理解しているつもりだ。だからこそ世の中には児童養護施設みたいなものもあるし、福祉施設みたい安良もある。そういう苦しんでいる人間を救う主人公が出る物語の構造だって人気があるだろう。

 だけどそれが万人に当てはまるわけじゃないのも俺は知っている。というかまさに俺がそれで、俺の過去の事情なんかは別に他人に話してどうにかなるものでもないし、そもそもすでに父親も死んで各種手続きもすべて終わって完全に過去のことになっている。どこから俺のことを聞いたのかは知らないが、俺は別に父親から虐待されていたことで心に傷なんて負っていないし、全部終わって過去のことになっていることに対して今更他人に何かを言うことだって全く望んじゃいない。


 俺が一人で平気なのは確かに家庭事情があったかもしれないが、それも過ぎればただの俺の個性に過ぎない。虐待されていたから人と関わるのが怖いとか、そんなことは全くなくてただ単に一人の方が居心地が良くて生きていきやすいだけだ。

 それなのに神楽坂という人間は俺の話を信用せず、世の中に溢れている「こうあるべきだ」「こうにちがいない」というなんというか、助ける側の人間のエゴみたいな論理で動いて俺に関わってくるのだ。


 こんな人間に対して、俺が行為を抱く方が難しいのは理解してもらえると思う。誰だってパーソナルスペースは大事であって、人によってそのスペースが狭い人と広い人がいる。神楽坂はそこが極端に広くて、俺はそこが普通の人間よりもよっぽど大きい。

 こんな簡単なこと人と触れ合う機会があれば幼稚園児だって感覚でわかるはずだ。神楽坂がそこをわかっていなかったのか、それともわかったうえで踏み込んできていたのか。俺は神楽坂の感情とか考えとか境遇とか交友関係とか、そういったものに一切興味がなかったからわからないけど。


 そんな「自称俺の友人」である神楽坂に付きまとわれながら大学一年二年と過ごして、大学三年になった頃。

 俺の人生に一人の女が入り込んできた。


 大学の授業の一環で他校に足を運んだ時にその女はいたのだ。清潔感があって、はかなげで、どこか守ってあげたくなるような可憐な雰囲気で。艶のある黒髪で、ペンより重いものなんて持ったことがなさそうなその細くて綺麗な指が特徴だった。

 お嬢様が通うような女子大学で、そんなところに通っているからその女も例に漏れず結構なお嬢様で。


 小野寺葵おのでらあおいという人間が、その日から俺の人生に浸透するかのように入り込んできた。

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