第三話 ハレのち雨、時々曇り

 ――




 ――ぁぉぃ! あおい!




 「…葵! 早く起きなさい!」



 「……んぇ?…なに、お母さん?…ちょっと、痛いんだけど?」



 バシバシという音と鈍い衝撃によって、私は目を覚ました。


 ……何だろう?


 重たい瞼を持ち上げると、そこには眉を顰めて見るからに不機嫌な様子のお母さんがいた。


 窓の外はまだ薄暗く、完全に日は昇っていない。つまり、寝坊して怒られているわけではなさそうだ。じゃあ、何? 何かあったの?



 「ふぁ〜…んっ、で、何お母さん?まだちょっと眠いんだけど…二度寝していい…?」



 布団の中でモゾモゾと動きながら文句を言うが、お母さんはすぐに真剣な表情を浮かべながら言葉を続けた。



 「寝惚けてないで早く起きなさい!」



 掛け布団が勢いよく剥ぎ取られ、冷たい空気が全身を撫でる。お母さんの口調の強さに驚いて飛び起きると、お母さんは今度は打って変わって優しい口調で言葉を続けた。



 「もしかしたら……もしかしたらだけど、日和が生贄に捧げられてしまうかもしれないの……」



 「えっ…?それってどういう……」



 「詳しい話は後で話すわ。いいから早く着替えなさい、できたら村の集会所に行くわよ。もう勝也くんは一足先に行っちゃったから」



 それだけ言うとお母さんは部屋を出ていってしまった。


 扉を閉めた、ピシャンとした音によって私の頭にあったボヤけが抜け、やっと昨日のことを思い出す。


 日中の何ということのない日常と勝也との祭りデート。勝也に『好きだ』と告白され、二度もキスをしたこと。そして、最後に私たちの幸せに水を差すように出てきた謎の声。

 そこまで思い出した所で、先ほどの"生贄"という言葉に嫌な胸騒ぎを感じた。

 でも…まさかそんな…と私は頭を振ってその考えをふるい落とす。


 とりあえず、私はお母さんの言う通り身支度を整えることにした。とは言っても精々、上に羽織って髪を整える程度であるけれどね。

 そう思いながら、布団の脇にある簪を掴む。

 


 「……とと、今日からはこっち」



 箪笥の中に大切に仕舞っていた箱を取り出し中を開ける。

 中身は、先日勝也から貰った葵の花の簪だ。それをそっと髪に挿し、手鏡に映る自分を見つめる。昨日の記憶が、簪の花びらに宿るようだった。



 うん、大丈夫。ちゃんと似合っている。



 「……よし、行こう。」



 簪の位置を微調整し、私は部屋を後にした。








 村役場に着くと既に多くの人が集まっていた。皆一様に緊張した面持ちで待機していることから今回の騒ぎの大きさを窺わせるものだった。その中には勝也の姿も見える。



 「勝也、おはよう」



 私は彼のもとまで駆け寄ると、声をかけながら軽く背中を叩く。勝也は少し驚いた様子を見せながらも、すぐに笑顔になって返事をしてくれた。



 「おぅ、おはよう。……ぐぅすか寝てたけど、よく眠れたか?」



 「うん、お陰さまで」



 私は、にへらと少しだらしなく笑いながら返事を返した。



 「そうか、それなら良かった」



 そう言うと彼は優しい笑みを私に向けてくれる。……何だか少し照れくさい。



 「葵、こっちよ」



 私達が話していると、お母さんが手招きしながら私を呼んでいるのが見えた。



 「あっ、うん。……それじゃぁ、また後でね」


 

 軽く手を振って勝也から離れ、お母さんの元へ向かう。


 やがて時間になり、村長が現れると、全員の視線が一斉にそちらへ向けられた。



 「皆さん、お集まり頂きありがとうございます。すでにご存知かと思いますが、先日、山神様から神託がございました」



 村長さんは淡々とした口調でそう告げる。


 その言葉に、周囲の人達はゴクリと唾を飲み込みながら話の続きをじっと待っていた。



 「……山神様は赤子の贄を欲っしており、今晩亥の刻までに東の山の祠に連れてこい、それまでに赤子を連れてこれない場合は、村を滅ぼすというもの」



 「っ!?」



 神託の内容に周りの者がざわめき出す。私は驚いてお母さんを見るが、お母さんは無言のまま私を見つめていた。


 そして村長さんが再び口を開く。



 「既に昨晩の内に、村の者数名で決議を行った。……結論として我々は、神託に従い赤子を贄として差し出すこと決め、今晩亥の刻までにその子を祠に連れていく」



 「待ってくれ」

 


 若い男たちが数名、声を上げる。皆、不服そうに表情を歪めていた。



 「それは早急ではないか?なぜ山神様は、今になって突然生贄を欲しがる。その理由を聞きに行ってからでも遅くは――」



 「黙れ小童」



 村長は鬼のような形相で、その男を睨み据えた。



 「"神々からの要求を阻んではならない"。これは昔からの法。破ってはならないもの。北西の村がなぜ滅んだのかを知らないとは言うまいな。最初から懐疑の目で及んでは反抗的と見なされかねん」



 「伝承を知る者は、この村が誰のお蔭で妖魔に滅ぼされていないか分かっているだろう。山神様がこの辺りを治めているからだ」



 「私たちはあくまで庇護される立場なのだと理解しろ」



 そこまで言い切ると、村長は表情を僅かに緩め、周囲を見渡した。

 


 「……だが、お前らの気持ちも分かる。生贄を送ったあとに理由を問おう。それならば邪険にされるということもないだろう」


 


 その言葉に反論していた人たちは、ひとまず納得したように黙り込む。


 だが、その中の一人――勝也の父親だけは、鋭い視線のまま村長を睨み続けていた。

 


 その姿を目にした瞬間、私はある事実に思い至る。


 

 ――つまり、交渉はすべて儀式の後。生贄を差し出すこと自体は、もう覆らない。


 

 ――それに、生贄って……。



 「……その、生贄になる赤子は……誰……なんですか……?」



 ……聞いてしまった。


 心臓が耳元で暴れるように脈打ち、息がうまくできない。


 分かっていた。心のどこかで、最初から。

 この村に赤子は二人しかいない。そして、今朝のお母さんの態度。

 ……でも、村長の口から「違う」と否定してほしかった。

 全部、私の勘違いだったのだと。


 村長が次の言葉を口にするまでの時間は、やけに長く感じられた。



 「……生贄は、秋空家の“日和”に決定しました」



 ――世界が、音を立てて崩れた。



 ……日和が、生贄にされる?

 そんなの、絶対に嫌。


 再びお母さんを見ると、お母さんは何も言わず、ただ一度だけ、力強く頷き――そして視線を逸らした。



 「……なんで……日和なのよ……」



 どうして、よりによって私の妹なの。

 まだ生まれて半年よ。

 まだ死ぬには、あまりにも早すぎる。


 ……納得できるわけがない。


 爪が皮膚に食い込むほど、拳を強く握り締めていた。

 ……けれど、どこかで「仕方がない」と割り切ろうとする自分もいるのが、何より苦しかった。

 この村には日和以外の赤子は、勝也の家の子だけ。

 私たちはよそ者同然で、父はすでに戦で亡くなっている。


 ――日和が選ばれるのは、必然だった。


 ……それでも、この理不尽に対する怒りと悲しみは、どうしても抑えきれなかった。


 ふと顔を上げ、集会所を見渡す。


 周囲の人々は、皆、悲嘆と憐憫、そして、安堵が入り混じった表情をしていた。

 その中で、特に目に焼き付いたのは――勝也だった。


 勝也は、はっとこちらに気づき、慌てて目を逸らす。

 だが、その直前に見えた横顔は――確かに、安堵に緩んでいた。



 「……っ」



 私が鋭く睨みつけると、勝也はびくりと肩を震わせ、俯いた。


 その姿を見た瞬間、今度は私の方が震えだした。胸の奥で、怒りと悲しみが激しく渦を巻く。


 ――その感情に身を任せるように、私は床から立ち上がり、わざと大きな音を立てて集会所を後にした。


 

 「っ!? 待ちなさい!」



 背後からお母さんの声が飛んでくる。

 けれど、私は振り返らなかった。


 そのまま、ただひたすらに走り続けた。




 ………


 ……


 …





 「……っ、はぁ……はぁ……」



 足が痛い。喉が焼けるように乾いている。けれど、止まれなかった。



 「……なんで……どうして……」



 胸の奥から絞り出すような声が漏れる。涙が視界を滲ませ、足元の土が揺らいで見えた。



 「……っ、あぁっ!」



 足がもつれて、私は地面に倒れ込んだ。膝に鋭い痛みが走り、土の冷たさが掌に染み込む。立ち上がろうとするも途中でふらつき、近くの木に力なく寄りかかる。



 「っく……ううっ……!」



 込み上げてくる感情に耐えきれず、私は木の幹に背中を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。呼吸は乱れ、喉の奥から嗚咽が漏れる。


 日和が生贄?


 その現実が、鉛のように重く、胃腑いぶに沈み込んでいる。


 日和は、私の二人目の妹。

 あの日、決めたんだ。お姉ちゃんとして、日和を守り続けると。




 およそ四年前、私が九歳の時だった。お母さんと一緒に昼寝をしていると、お母さんのお腹が少しだけ膨らんでいることに気づいた。



 「お母さん、太った?」



 私に黙って美味しいものを食べたのかな、なんて思いながらポンポンと叩く。

 すると、お母さんは驚いたように目を見開き、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。



 「違うわ。これは太ったからじゃなくて、ここに私たちの子どもがいるの」



 そう言って、私の頭を優しく撫でてくれた。

 手から伝わる温もりに目を細めながら、お母さんの言葉を反芻する。



 「……もしかして、私に妹ができるの!?」



 「そうね。……まぁ、まだ弟かもしれないけど」



 家族が増える。その事実に胸が高鳴り、お母さんの言葉の慎重さになんて気づきもしなかった。

 いつ出てくるんだろう? どんな顔をしているんだろう? 

 期待に胸を膨らませ、その夜は興奮して眠れなかった。

 それからは毎日が待ち遠しかった。日に日に大きくなるお腹に手を当てて、耳を澄ませたり、返事のないお腹に向かって今日あった出来事を話しかけたりした。

 けれど数ヶ月後、その夢は唐突に弾けた。



 「……なん、て?」



 死産――そう言われた。

 髪を振り乱して泣き叫ぶお母さん。家族が増えると喜んでいたはずの家が、重苦しい沈黙と死の匂いに包まれる。

 その時の私は、ただ困惑して立ち尽くすしかなかった。

 何が原因だったのかは分からない。産声を上げていないと気付いた時には、もう手遅れだったらしい。

 ほむら。そう名付けられるはずだった妹には、ついぞ会うことさえ叶わなかった。




 その三年後、私は再び、お腹を慈しむようにさするお母さんの姿を見た。



 「お母さん、もしかして……」



 「……えぇ。今度こそ、葵がお姉ちゃんになるのよ」



 嬉しかった。飛び上がるほど嬉しかったけれど、同時に冷たい恐怖が背筋を走った。

 また、死んじゃうかもしれない。

 あんな悲しい顔をしたお母さんを、もう二度と見たくなかった。

 だから私は必死に考えた。勝也にも相談して、書物を読み漁り、赤子のことを調べた。

 お腹の中で亡くなってしまうのは、肉体の負担や心労が原因なことが多いと知った。


 私は誓った。今度こそ、絶対にこの命を守ると。


 その日から私はお母さんに付きっきりになった。

 重いものは私が持ち、家事はすべて手伝った。お母さんが冷えないように、転ばないように、片時も目を離さなかった。

 神棚には、毎日欠かさず手を合わせた。どうか無事に生まれてきますようにと、祈り続けた。


 そうして――。



 「ぁぅ――?」



 今から半年前、やっとの思いで“日和”が生まれた。

 産声を聞いた時の震えるような喜びを、私は一生忘れない。


 なのに。


 生まれてまだ半年。小さな手で私の指を握り返し、ただ笑うことしか知らない妹。

 その命が、ようやく掴み取った家族が、神の気まぐれで奪われるなんて。


 

 

 私は膝を抱え、額を押し当てるようにして震えながら涙をこぼした。冷たい土の匂い、木々のざわめき、遠くで鳥が鳴いた。けれど、そんな自然の音さえ、今の彼女には残酷な祝福のように響いた。


 


 「……葵!」



 遠くから聞こえた声に、私はびくりと肩を震わせた。顔を上げなくても誰の声かは分かる。勝也だ。

 荒い息遣いとともに、ドタドタと足音が近づき、私の前で止まった。



 「……やっと、追いついたっ……!」



 勝也は肩で息をしながら、私の前に立ち塞がった。額には汗が滲み、必死に言葉を探しているようだった。



 「ごめん!」



 勝也はその場に膝をつき、土に額を擦りつけるようにして深々と頭を下げた。



 「俺……弟が生贄に選ばれなかったことに、正直ほっとしてしまった。日和が代わりに選ばれて、一番辛いのは葵たちなのに……そのことを考えられなくて……」

  


 勝也の声は震えていた。土に額を擦りつけるその姿は、私の胸を締め付けるように痛々しかった。



 「勝也、顔を上げて」



 私は静かにそう言った。

 勝也はゆっくりと顔を上げた。土の汚れが額に残り、瞳には後悔と不安が滲んでいた。



 「大丈夫、私はもう怒ってない。」



 口角を上げ、薄く笑いかける。

 


 「…だって、私が勝也の立場だったら同じような事をしてたと思うから」



 私の声は震えていたけれど、嘘ではなかった。勝也が安堵してしまったのは、きっと誰だって同じだ。自分の家族が犠牲にならないと知れば、胸を撫で下ろしてしまう。それは人として自然なことだ。だから、私は彼を責める気にはなれなかった。



 「だからね、勝也。こっちに座って」



 ぽんぽんと私は隣の地面を軽く叩き、勝也に座るよう促した。



 「……葵……」



 彼はためらいながらも、私の隣に腰を下ろした。土の匂いが混じり合い、二人の間に重苦しい沈黙が落ちる。



 やがて勝也から口を開いた。



 「…大丈夫か?」



 「……」



 私は静かに瞑目し、黙って首を横に振る。

 大丈夫なわけがない。確かに勝也のおかげで先ほどまでの激情は収まった。けれど、心の奥底の不安は深く根を張っていた。


 日和が生贄にされてしまう――その事実は重く、私を押し潰している。



 「……私、どうしたらいいのかな」



 言葉がポツリと漏れ落ちた。



 「……私は……日和を守りたい。そして皆で幸せに暮らしたい」



 「あぁ」



 「でも……そうしたら山神様に村が滅ばされちゃう……。そんなの嫌だよ……」



 そこまで言うと、堪えきれずに涙が溢れ出した。


 勝也は何も言わず、子供をあやす様に優しく背中を撫でてくれる。私はその掌に懐かしさと心地よさを感じながら、声を荒らげて泣いた。まるで、迷子になった幼い子供のように。




 ひとしきり泣いて、涙が枯れ果てた頃。私は少し落ち着きを取り戻していた。

 川縁に並んで座る私たちの間に、川のせせらぎだけが響く。その沈黙を破ったのは、勝也の突拍子もない言葉だった。



 「だったらさ、俺が山神様をぶっ倒してやんよ」



 「……え?」



 間の抜けた声が出た。顔を向けると、彼はニッと笑みを向けている。



 「だから、俺が山神様をぶっ倒してやるって言ってんだよ」



 「勝也……。アンタも感じたでしょ? あんな気配を持つ化け物に勝てるわけないよ」



 私が呆れながら言うと、彼は「まぁ、そうだけどな」と苦笑した。



 「でも、もしかしたら倒せるかもしれないだろ?」



 そう言って笑う彼の目は本気だった。私は息を呑み、懐疑と期待の交ざった眼差しで彼を見つめ返す。



 「……そんな事、できるわけない」



 「なにも無策で突っ込もうって訳じゃねぇよ。……山神様。いや、あの声の主は俺達に姿を隠してコソコソ声だけ出してただろ? 昔本で見たんだが、神様は人に舐められる事を大層嫌うらしくてな。基本、神託を出すような時には心が引き込まれるような荘厳な声で話すもんで、あんな雑音たっぷりの、まともに聞き取れない声を出すなんて事は殆どしねぇんだと」



 「そんな事が書いてある本なんて、どこでどうやって……?」



 「村長の書庫からパクって来た。他にも適当にそれっぽい物を何冊か。俺がもう少し小さかった頃に、面白そうなもんだと思ってな」


 勝也は悪戯っぽく笑いながらそう言った。

 私は心の中で、希少な本を何冊も盗まれた村長さんに合掌する。

 あの人はそういう収集癖があることで有名だ。バレたら折檻だけじゃ済まないだろう。


 ……といけない、話が逸れてしまった。私はあえて、その場の空気を変えるように勝也に続きを促す。



 「えっと、それで?」



 「あぁ、それで何が言いたいのかっつ〜と……もしかしたら、『小豆あらい』みたいな弱っちい奴が神を騙って、俺たちを騙してるかもしれないぜ? ……って事だ」



 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇




 ――はぁ、はぁ、はぁ……


 

 荒い呼吸が静寂に吸い込まれていく。足が鉛のように重い。



 「……えっと、大体ここらへんだよね?」



 「いや、もう少し上みたいだ。そう遠くはないと思うけど……到着前に一度休憩しないか? 山道を歩きっぱなしで、少し疲れた」



 「賛成。山登り、ちょっと甘く見積もりすぎてたね」



 私はその場に座り込み、近くの大樹の幹に背中を預けた。ひんやりとした樹皮の感触が、火照った体に心地よい。勝也も隣に腰を下ろし、水筒を取り出した。



 「見た目ほど高くないと思って油断したな。村の爺さんたちが参拝してるって聞いてたから余計に。途中、体を傾けないと落ちそうな崖もあったし……ほら、水」



 「ありがと。……もしかしたらもっと楽な道があったのかもね。地図にない獣道とか無視したけど、あれを辿れば楽なルートに合流できたのかも」



 「かもな。まぁ、今さらだが……そういや出発前に何か包んで来てなかったか? それを食べながら休憩しようぜ」



 「あ、そうだね。じゃあこれ」



 私はリュックから包みを取り出し、勝也に見せた。竹皮の包みの中には、握りたてのおにぎりが五つほど並んでいる。



 「お、おにぎりか! いいのか?」



 「うん、平気。たくさんあるから」

 


 そう言って私は一つ手に取り、勝也に渡した。自分も同じものを口にする。塩加減が絶妙で、疲れた体に染み渡るようだ。……うん、我ながら美味しい。

 一つ目をぱっと平らげ、「もう一つ」と横を見ると、勝也はすでに二つ目を飲み込み、三つ目に手を伸ばしているところだった。

 そのあまりの食いっぷりに、私は呆れるのを通り越して感心してしまった。案の定、盛大に噎せた勝也に、私は無言で水を差し出す。



 「ゴホッ、ゴホッ……! あぁ、ありがとな」



 「どういたしまして。……そういえば勝也って、両親に私たちが山を登るって伝えたりした?」



 「ん? いや、何も言ってねぇ。だって言ったら絶対止められるだろ」



 「私もよ。……つまり、私たちの行方を知る人は誰もいないってことね」



 「そうだな。……じゃあ山麓に見えるあの光は……」



 「……そういうことになるわね」



 私は肩をすくめた。

 眼下の闇に点在する小さな灯り。きっと村では大騒ぎだろう。祭りの当日に二人が神隠しのように消えたのだから。



 「……こっちから見えるんだったら、当然あっちからも松明の光が見えるよね」



 「……だな。そうじゃなくてもお母さんたち鋭いし、すぐ察して追って来そうだ」



 「怖いこと言わないで!?これ以上胃痛案件が増えるのは嫌なんだけど!」



 「悪い悪い。まぁ、どうにかなるって。そんなことより明るい話しようよ。例えば……上、見てみろよ」



 「え? ……うわぁ! すごい!」



 勝也が指差す先を見上げ、私は思わず歓声を上げた。



 「だろ? 家からでも見えるが、空が近い分、一層綺麗に見える気がする」



 「うん、すごく綺麗……」



 まるで宝石箱をひっくり返したようだった。空気の澄んだ山頂付近だからか、満天の星々が今にも降ってきそうに瞬いている。あまりの美しさに、私は息をすることさえ忘れて見入った。


 その煌めきの中、唐突に流れ星が二筋、夜空を切り裂くように横切った。



 「あ! 流れ星! ねぇ勝也見た? お願いした?」



 「いや、見たけど咄嗟で願い事は出来なかった。つうか……その年になってまだ流れ星に願い事とかするのか?」



 「む……! いいじゃない別に! 子供っぽいのはわかってるけど、夢見るくらい自由でしょ! しかも今回は二つ流れたんだから、叶う確率も倍って感じがするし!」



 正直、願い事を完全に信じているわけではない。でも前に進む勇気を得るためには、こういう「おまじない」が有効なのだとお母さんは言っていた。

 ……ただ、一瞬で消える光に三回願い事なんて、やっぱり無理難題だ。反射的に動いても一回しか唱えられなかった。


 そんな他愛ない雑談を交わす。こんな時間が永遠に続けばいいのにと願ったが……現実はそれを許さなかった。




 ――ドオォオォォォッッッ……!!!




 「……!!?」



 昨晩とは比較にならないほどの重圧が、突如として大気を震わせ、私たちに襲いかかった。

 あまりの衝撃に、食べかけのおにぎりが手から滑り落ちる。だが、それを気にする余裕など微塵もなかった。



 ――……ナンダ? マダ時刻マデ二刻程アル筈ダガ……子供ダケダト?……アァ、幼サ故ノ蛮勇カ



 耳ではなく、脳髄を直接鷲掴みにされたような不気味な声。昨晩よりも数十倍濃密な「意思」が、痛みとなって頭蓋の内側をかき回す。

 頭を抱え、蹲り、悶え苦しむ中、さらに声が響いた。



 ――……マァ良イ。オマエラハソノママ道ヲ進メ。……ソレト、少シバカリ力ヲ抑エル必要ガアルカ



 不意に、体を押し潰していた重圧が幾らか和らいだ。

 だが同時に、「声の主には絶対に従わねばならない」という強烈な強迫観念が、私の四肢を支配した。まるで操り人形のように、震える足が勝手に地面を踏みしめる。

 勝也も同じようで、青ざめた顔で松明を拾い上げ、ふらりと前に出た。



 「……行くぞ」



 「……うん」



 一人ではない。その事実に震えは少し弱まったが、山に広がる深い闇よりも濃い絶望が、心に渦巻いていた。それでも、進むしかない。

 私の心はすでに楽観視などやめていた。


 勝也の背中を追い、私は意思とは裏腹に力強くその道を歩み始めた。




 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 


 ……半刻の半分も経たずして、またあの声が響く。




 ――ソコデ一旦止マレ。ソシテ、オマエラカラ見テ右手ニ洞窟ガアルダロウ。ソノ中ニ入レ



 言われて右を見ると、暗闇の中に黒々とした大穴が開いていた。

 入口には鋭利な岩や砂が乱雑に散らばっており、酷く足場が悪そうだ。

 そこへ足を踏み入れ、岩場を乗り越えている最中、ふと……私の中で小さな疑問が湧いた。



 (地図を見た感じ、こんな横穴は書いて無かったし、山神様を祀っている祠はもう少し先で、もっと上の方にあった筈……)



 だが、そんな疑念はすぐに吹き飛んだ。勝也の持つ松明の光が先へ進んでしまい、闇に取り残される恐怖が勝ったからだ。私は思考を隅に追いやり、慌てて勝也の背中を追った。


 ……しかし、駆け足で進めたのはその一瞬だけだった。

 洞窟の奥へ進むにつれ、空気そのものが粘り気を帯びたように重くなる。まるで泥沼の中を歩いているかのような抵抗感。

 一歩進むごとに、心臓を鷲掴みにされるような重圧が増していく。先程までどうにか散らしていた恐怖と緊張が、逃げ場のない閉鎖空間で飽和していくのがわかった。


 そして……。


 闇に包まれた最奥から、異音が響いた。

 金属を無理やり擦り合わせたような不協和音と、生木の枝をへし折るような乾いた音。



 ギギギッ……パキパキ、パキ……。



 その音を聞いた瞬間、背筋に冷たい虫が這い上がるような悪寒が走り、私たちは立ち止まった。いや、足が竦んで動けなくなったのだ。

 音の主はこちらに向かってきている。私たちは動いていないのに、音と重圧は加速度的に膨れ上がっていく。

 脳髄を揺らす声が、再び響く。



 ――フンッ! ヤハリ子供カ。ソレモ歳ハ十……イヤ十二トイッタ所ノ。今日ハ量ヨリ質ノ気分ダッタノダガ……



 微かに揺れる松明の光の先に――は現れた。

 ギチギチと音を立てる無数の脚。不自然に艶めく光沢を放ち、節くれだった胴体を蛇のようにうねらせる姿は、巨大な百足ムカデそのものだった。

 だが、私の目には、それが全く別のものに見えていた。



 「……芋虫……?」



 恐怖で震える唇から、場違いな単語が漏れた。


 だが、そうとしか形容できなかったのだ。

 百足というには、その胴体があまりに太く、丸く、ずんぐりとしていたからだ。まるで鋼鉄の甲殻を纏った芋虫が、無理やり百足の仮装をしているかのようないびつさ。


 頭部からは赤黒く変色した長い触覚が伸び、何節にも連なっている。本来なら短く退化しているはずの脚は、短いながらも刃物のように鋭く尖り、岩肌を豆腐のように突き刺していた。


 極めつけは、その口元だ。虫の口器ではなく、人間のそれによく似た顎が、カチカチと飢えた音を鳴らしている。


 芋虫と百足、そして人間を悪趣味に混ぜ合わせた冒涜的な姿。私は戦々恐々としながら、ただ震えることしか出来なかった。







 ただ、彼は違った。



 「……逃げるぞ」



 「……で、出来るの?」



 「……やるっきゃないだろ。出来なきゃ死ぬだけだ。後のことは後で考えれば良い、だから今は生きる事だけ考えよう」



 勝也の声は震えていたが、その瞳には力が宿っていた。



 「それに、実際アイツは俺達をここまで誘い込んでいた。あの図体だ……多分速さに自信が無いんだろ。それに賭けるしか無い。俺が合図を出したら一気に行くぞ!」



 「……うん」



 勝也の言葉に背中を押され、私は走るための予備動作に入る。

 怖い。でも、勝也がいるなら。

 そんな希望を抱き、彼が口を開きかけた、その瞬間だった。



 ――ビュュゥッッーーッ…!!



 一陣の風。

 いや、何かが超高速で空間を切り裂いた衝撃波が、私たちの間を駆け抜けた。

 反射的に目を閉じる。直後、生暖かく、鉄錆の臭いがするねっとりとした液体が、私の顔全体に降り注いだ。



 「……え?」



 最初は、視界を覆ったが何なのか、今何が起きたのか分からなかった。

 前触れはあった。ある程度の覚悟もしていた。

 けれど、良く言えば純真、悪く言えば愚かな私は、まだ夢を見ていたのだ。「なんとかなる」という、根拠のない物語を信じていた。


 (目を開けちゃ駄目だ)


 本能が警鐘を鳴らす。見てはいけない、見れば心が壊れると。

 だが、それを無理やり振り払い、私はゆっくりと瞼を持ち上げた。

 ……そこには、先ほど対面したばかりの芋虫の化け物と。

 首から上を失い、ドクドクと鮮血を噴水のように垂れ流す――



 ――勝也ニクカイの姿があった。



 ――取リ敢エズ、マズハ一人目……ダガ、少シ失敗シタナ。一旦脚ヲ潰シテ捕ラエレバ良カッタ。ソウデアレバ……



 脳内に響く声に、感情の色はない。あるのは食欲と、獲物を品定めする冷徹さだけ。

 唖然として立ち尽くす私の目の前で、ズルりと化け物の頭部から赤黒い触覚が伸びる。

 それは鞭のようにしなると、勝也の腰あたりに深々と突き刺さった。


 ビクンッ、ビクビクッ……!


 既に事切れているはずの勝也の体が、電気信号の誤作動で痙攣する。

 もしかしたら生きているのではないか。そんな有り得もしない僅かな希望は、切断された首の断面から、体内を貫通してきた触覚がヌルりと顔を出したことで……脆くも砕け散った。

 絶望に凍りつく私など気にも留めず、触覚はまるで釣り糸のように、勝也の死体を勢いよく手繰り寄せる。



 「あ……っ!」



 思わず手を伸ばすが、指先は空を切るだけ。あまりにも距離が遠い。



 ――……血モ流サズ食エタト言ウモノ……



 巨大な顎が開かれる。



 ――バギンッ!



 硬質な音が響き、不気味に白い歯列が勝也の脇腹を噛み砕いた。

 そのまま、飢えた獣のように咀嚼が始まる。

 私は強く目を瞑り、両耳に指を突っ込んでその場にうずくまった。見たくない、聞きたくない。

 だが、何をしても音は止まらない。


 バキッ、ボキッ……グチュッ……ブチチィッ……!


 肋骨がへし折れる乾いた音。

 ドロドロとした内臓や脳髄を啜り上げる湿った音。

 水気を含んだ肉が無理やり引き千切られ、すり潰され、嚥下される音。


 ジュルッ、ジュルルゥ……ゴクンッ……!


 指の隙間から、あるいは振動として地面から伝わってくるそれらの音が、私の心を容赦なく削り取っていく。


 真っ暗な闇の中で響く咀嚼音だけが、今の世界の全てだった。
























 ……どれほどの時が過ぎただろうか。


 。目を閉じ、蹲り、底なし沼のような喪失感に沈んでいく中で、肌を刺す視線だけが鮮明だった。

 ゆっくりと顔を上げる。


 視線の先、私の足元には、勝也の手から零れ落ちた松明が転がっていた。油をたっぷりと吸った火は、パチパチと音を立てて燃え続けている。

 だが、その光が照らす地面には、勝也の痕跡は何一つ残っていなかった。髪の毛一本すらも。


 ――……妙ニ匂ウト思ッタラ、小娘……オマエ、小便漏ラシオッタナ……?


 言われて意識を向ければ、股下が酷く濡れており、小さな水溜まりが生ぬるい熱を発していた。

 恐怖のあまり粗相をしたのだ。

 けれど、今の私には羞恥心など微塵も湧かなかった。むしろ、「さぞ気分を害しただろう」という加虐的な思考が頭をよぎる。

 どうせ喰われる運命だ。最後にこの化け物に不快感を与えられたなら、それだけでいい。

 私は早く楽にしてほしいと、諦めの境地で瞼を閉じた。


 しかし……。



 ――……フンッ……興ガ削ガレタ。オマエヲ喰ウノヲヤメテオイテヤロウ。慈悲深イ我ニ感謝スルガ良イ



 予想外の言葉に、薄く目を開ける。



 ――……何ヲ呆ケタ顔ヲシテイル。我トテ、垂レ流シタ餓鬼ヲ喜ンデ食ウ程、地ニ堕チタツモリハ無イ……!



 ――……ダガソウダナ、コノママ帰スノモ何処カ癪ダ。ソレナラ我ノ巫女ニデモスルカ。便利ナ手駒モ欲シイ所ダッタシ、素材トシテモ良イダロウ




 







 「……え……?」



 ドンッ、と。

 私の胸に小さな衝撃が奔った。


 何が起きたの……?

 そう認識するよりも早く、胸の真ん中に熱した五寸釘を打ち込まれたような激痛が脳髄を突き抜けた。



 「ぁ、がっ……!?」



 視線を落とせば、月明かりと松明の火に照らされ、ぬらりと光る管のようなものが蠢いている。

 それは間違いなく、先ほど勝也の命を奪ったものと同じ――あの触覚だった。



 「……何これ……? 何で……え? ……うっ!!? カハッ、ゲホッ……!?」



 ――……アァ……コレハ肺カ。ナラコッチカ?……違ウナ。人間ノ中身ヲ探ルノハ数百年ブリダカラカ、少シ忘レテシマッタナ……



 触覚が蠢くたび、肺が圧迫され、肋骨の内側を粘着質な異物が擦り上げていく。

 内臓を避け、横隔膜を突き破り、胃を掻き回す。その度に口から血反吐が溢れる。まるで百足そのものが体内に入り込み、中から私を食い荒らしているようなおぞましい感覚。


 そして……。



 「――っ!!?」



 ――見ツケタ。思ッタヨリモ近カッタナ



 ドクンッ、と脈打つ生命の核を、異物の先端が捉えた。

 なけなしの力で四肢をばたつかせ抵抗しようとするが、触覚はビクともしない。それどころか、心臓を直接握られる恐怖と激痛で、意識が飛びそうになる。

 そんな私などお構いなしに、化け物は厳かに宣言した。



 《"常夜神トコヨノヨカミヨリ、小娘へ降ス"》



 《"呪ワレヨ"》



 ――隷属ノ縛リヲ結ブ。オマエハ私ニ巫女トシテ従イ反抗スル事ハ出来ナイ。ソシテ、加護ヲ与エル。……コレデ良シ、傷ハ自分デ治セ



 ――ドサッッ!



「……グフッ……!」



 触覚が引き抜かれ、私はゴミのように地面へ放り出された。

 全身が痛い。隷属? 加護? わけがわからない。

 けれど、穴が開いたはずの胸が、さっきから異常なほど熱い。焼けるように熱い。



 「ぅあ……!? 何……これ……?」



 ――言ッタダロウ加護ダト。マァ、縛ル意味デハ呪イトソウ変ワラヌガナ。トハイエ加護ノ名ノ通リ、ソノ程度ノ傷、暫クスレバ治ル。……ダガ少シ足リナイカ。ナラ手伝ッテヤロウ



 化け物はそう言うと、のたうち回る私に対し、もう一度あの触覚を突き刺した。

 今度の痛みは一瞬だった。だが次の瞬間、重くドロドロとした何かを、血管に直接流し込まれるような感覚が襲った。



 「!!!? ……熱い……熱いぃぃッ!!」



 煮え滾る鉛を注がれたようだった。

 この時、誰かが私を見ていたなら、まるで尾を踏まれた蛇のように見えただろうか。それほどまでに激しく、私は地面を転げ回った。




 ……どれだけの時間が過ぎたのだろう。

 体感では数時間にも及ぶ灼熱地獄の中、ようやく痛みが引き、周囲に目を配る余裕が出始めた頃。

 私は、揺らめく二本の触覚を見上げ、すぐ目の前にまで顔を近づけている化け物と対峙した。



 ――……落チ着イタカ? ナラ巫女トシテ最初ノ仕事ダ。



 ――オマエニハ赤子ノ妹ガイルダロウ? ソイツヲ贄トシテ連レテコイ。今日ハ疲レテシマッタカラナ、モウ一人欲シイ



 「……何を、言ってるの? そんなことするわけ――」



 ――ツイデダ、ソノ声モ封ジテオコウ。サッキカラ煩クテナ、少々不愉快ダ



 「……? ………!?」



 口を開こうとして、声が出ないことに気づく。喉が張り付いたように動かない。

 混乱して思考がまとまらない中、【妹】【贄】【連レテコイ】という単語だけが、呪いのように脳裏に焼き付く。

 悍ましい命令。

 そんなこと出来るわけがない。断らなければ。逃げなければ。

 そう強く念じる心とは裏腹に、力なく横たわっていたはずの私の四肢は、まるで他人のもののように勝手に起き上がり、村の方角へと歩き出していた。



 

 (なんで、なんで、なんでっ!?)



 もしかして、この体は化け物の操り人形にされてしまったのか?

 今まで感じたことのない感覚に、ねっとりとした恐怖と不安がこみ上げる。

 そう考えている間にも、体は勝手に動き、事態は悪夢のような速度で進行していく。

 最初は、一歩一歩。次第に速さを増し、突風のように洞窟を駆け抜けた。

 そして、来る時に通った左手の獣道ではなく、体はそのまま真っ直ぐ突っ込んだ。



 ――崖へ。



 「えっ……? ……っ!?」



 落下。

 幸いにも崖下に木があったため勢いは削がれたが、両足に激しい衝撃が走り、何かが砕ける嫌な音が響いた。

 だが、そんな事は気にも留めず、私の体は強制的に動き続ける。今度は崖を、まるで滑雪でもするように斜めに滑り降りていく。

 愚直に落ちるよりはマシだが、草鞋はすぐに千切れて森の何処かへ消え去った。

 当然、素足は岩や木片に削られ血塗れになり、白い肌には無数の擦り傷が刻まれていく。着物がみるみる赤く染まる。

 不思議な事に、その傷は肉が不自然に盛り上がり、瞬く間に塞がっていった。痛みすら感じない。

 それが、本当にこの体が自分のものではないようで、底知れぬ恐怖をもたらした。

 一体、この体は何処へ向かっているのか?

 化け物の言葉でとっくの前に気づいてはいた。ただ、認めたくないだけだ。

 けれど、どんなに否定しようとも、体は着実に目的地へと近づいていた。

 眼下に広がる篝火の村。その中にある一つのあばら家。……私の家だ。

 勢いよく茂みを抜けると、点々と設置された篝火の炎が揺らめくのが見えた。同時に走る速度が落ち、私の体は忍び足で動き始めた。

 この体は私が無意識に「最適」だと思う行動をなぞるのか。門を正面突破するのではなく、村を囲う柵に沿って裏へ回る。

 大騒ぎになるのは困るし、勝也の両親に会うわけにもいかない。そこだけは不幸中の幸いだった。



 「……うん? あぁ……もしかして葵さんですか?随分と遅い帰宅ですね。せめて行き先くらいは伝えてください。お母さんを宥めるのが大変で、もう捜索隊を出してしまいましたよ」



 家の裏手で、槍を持った男が現れた。

 見慣れないが、見覚えはある。村長の息子だ。

 恐らく、お母さんの監視役兼護衛でも担っているのだろう。


 私の意思に反して、この体は彼に臆することなく歩み寄る。



 (えっ……? 殴る?)



 不意に、暴力的な思念が脳裏をよぎった。



 「ん? 何ですかその血……服もボロボロだし、裸足じゃないかそれに君、雰囲気が随分と……ヒュッ!?」



 私が纏う殺気を不審に思ったのか、男が槍を構えようとした瞬間。

 その腹へ、鋭い掌底が突き刺さった。



 (……え……?――ッ!!?)



 心の中で悲鳴を上げている間にも、体は流れるように次の動作へ移行する。

 渾身の前蹴りが、男の鳩尾にめり込んだ。

 そこらの子供より力があるとはいえ、所詮は少女の細脚だ。だが、その一撃で大の大人が数メートルも吹き飛び、背後の樹木へ叩きつけられた。

 非現実的な光景に、混乱と驚きで思考が追いつかない。

 死んだのでは?と思ったが、革鎧のおかげか、少し痙攣しているものの一応気絶だけで済んでいるようだ。

 まさかトドメを刺すのかと身構えたが、障害を排除したと判断したのか、体は何事もなかったかのように玄関へ向かった。



 「葵……?」



 (お母さん……)



 薄暗い土間に現れたのは、半日ぶりに見るお母さんの姿だった。

 外の異音を警戒したのか、薪を棍棒代わりに握りしめている。

 その目の下は、泣き腫らしたように赤くなっていた。



 「貴方……今まで一体何処にいたの!? もう、こんな大事な時にいなくなって……他の人にも心配かけたんだからね? ……って、その首の痣……どうしたの? なんか黒い跡が……」



 今の私は、一体どんな表情をしているのだろう。

 人形のように笑っているのか、能面のような無表情か。

 お母さんは、私の様子がいつもと違うことに気づいたようで、安堵の表情から次第に怪訝な顔へと変わっていく。



 「貴方……本当に葵?」



 「………」



 (お母さん……)



 当然の疑問だと思うと同時に、心にポッカリ穴が空いたような寂しさを感じた。



 (……お母さんを、殺す……?)



 再び、冷徹な殺意が思考に割り込み、背筋が凍りついた。

 その時。

 部屋の異様な空気を感じ取ったのか、奥で眠っていた日和が、火がついたように泣き出した。

 それを合図に、この体は再び戦闘態勢に入る。


 世界がスローモーションになった。

 お母さんが泣く日和に気を取られた隙に、私の体はバネのように弾け、懐へ飛び込む。



 ――……ダメッ……!



 思念とは裏腹に、上半身を跳ね上げ、回し蹴りの体勢へ。



 ――……待って……!



 先ほど大の大人を吹き飛ばした蹴り。無防備なお母さんの脇腹に入れば、肋骨ごと内臓を粉砕し、即死は免れない。



 ――……止まってぇぇぇぇぇえ……!!!



 全体重の乗った死の一撃が、お母さんの横腹に届く直前。

 ピタリ、と。

 まるで見えない壁に阻まれたように、私の脚は空中で凍りついた。




 「えっ……?」



 (えっ……?)



 片方は、娘の凶行に対する驚愕。もう片方は、本当に止まったことへの驚愕。

 声に出したかどうかの違いはあれど、母と娘は同じ感情で凍りついた。

 だが、驚いている間にも事態は進む。

 体は自然に脚を下ろすと、攻撃を中断し、まだ啞然としているお母さんの横を風のように通り抜けた。

 そして……泣き叫ぶ日和を優しく手繰り上げ、私は脱兎のごとく家を飛び出した。

 柵を飛び越え、村から完全に離れた頃、ようやく頭が回り始めた。

 体は速度を緩めず走り続ける中、一つの仮説が浮かぶ。



 ――本気で念じれば、この体をある程度自分の意思で制御できる……?



 自分の手でお母さんを殺さずに済んだことに、心の底から安堵する。

 だが同時に、口の中に苦い後悔の味が広がった。

 仮説が正しいなら、つまり……。



 ――その気になれば、村長の息子への攻撃も止められたということだ。



 ……およそ一刻後。

 行きとは違い、正規のルートを走って戻ったため、倍ほどの時間をかけて私たちはあの洞窟へ辿り着いた。

 仮説はどうやら正しかったようだ。

 道中、異様な雰囲気の私に怯えて泣き叫ぶ日和を、「あやす」ことに意識を集中したところ、足が止まり、短いながらも日和をあやす時間が生まれた。

 結局、私自身が恐怖の元凶であるため泣き止むことはなかったし、「家に戻す」という願いはどうやっても叶わなかったが。

 恐らく、過程はある程度融通がきくが、「日和を連れて来る」という化け物の命令(大目的)には絶対逆らえないのだろう。

 私は自身の無力さと、呪いの巧妙さに歯噛みした。


 ピチャ……と、天井から垂れた水滴の音が洞窟内に響く。

 夜目が効き、感覚が鋭敏になったおかげで、松明がなくともその波紋がハッキリと見える。

 そして、闇に潜む巨体も。



 ――戻ッタカ。思ッタヨリモ早カッタガ……成ル程。崖ヲ無理矢理降リテ来タノカ。……ヤハリコノ呪イ、アマリ融通ガ効カナイナ……



 ――マァ……無事ニ発動シテイルノヲ確認出来タダケ良シトスルカ。ソレデ?ソノ赤子ガ、オマエノ妹カ?



 「はイ、ソうです」



 この状況で肯定したくはない。だが、口は勝手に動き、従順な下僕のように答える。



 ――ナラ、モウ少シ前ニ来イ。ナニ、別ニオマエヲ食ウコトハ無イ。"オマエ自身"ハ、ナ。



 「は……イ……」



 抵抗しようとするが足は止まらない。目を逸らすことすら許されない。

 手を伸ばせば触れられる距離。

 闇の中から、あの赤黒い触覚が、死神の鎌のようにゆらりと現れた。



 ――少シ煩イガ、ソレダケ元気トイウ事ダ。良イ良イ



 化け物はそう言うと、武骨な触覚を、柔らかな日和の腹へ優しく巻き付け、持ち上げた。

 腕の中にあった温もりが、離れていく。

 手を伸ばすという、そんな些細な動きさえ……今の私には許されない。

 涙で滲む視界の中。

 化け物の気配を感じ取ったのか、日和のか細い悲鳴が洞窟に反響する。その声が、ハンマーのように私の理性を打ち砕く。

 ギチギチと音を立て、巨大な顎が開かれる。

 虫のそれでありながら、どこか人間めいた不気味な白さを放つ歯列。

 ガチガチと鳴る音は、今か今かと供物を待ちわびる歓喜の歌のよう。

 その奥には、一度入れば二度と帰れぬ深淵が口を開けていた。



 (やめてやめてやめてやめてやめてやめて……!!!)



 無限に続く絶叫は、無情にも私の頭蓋の内側で反響するだけ。

 願いも祈りも届かない。

 泣き喚く日和の体は、ゆっくりとその口元へと運ばれ……。



 ――ズチャッ……



 肉が潰れる湿った音と共に、生暖かい液体が私の顔に降りかかる。

 それと同時に。

 私の中で、何かが決定的に壊れる音がした。

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