田所の笑い声

「笑ってる方が、怖くないんだよ」


その言葉が、杉本の耳に残っていた。


田所一等兵曹は、今日も浜辺で子どもたちと遊んでいた。 椰子の実を蹴り合い、砂に転がって笑い転げる。 その笑い声は、波の音に混じって、島の空気に溶けていく。


「おい、杉本! お前も来いって!」


田所が手を振る。 杉本は手を軽く上げて応えたが、足は動かなかった。 通信塔の影に立ったまま、彼はその光景を見つめていた。


子どもたちは、マレー系の顔立ちをしていた。 日本語は片言だが、田所とはすっかり打ち解けている。 「タドコロ、はやい!」「また、やろう!」 笑い声が弾けるたびに、杉本の胸に、何かが引っかかる。


(あんなふうに、笑えるだろうか)


彼は、笑うことに臆病だった。 戦争の最中に、笑っていいのか。 笑ってしまったら、何かを忘れてしまうのではないか。 そんな思いが、いつも心のどこかにあった。


その夜、杉本は通信塔の裏にある小さな倉庫で、無線機の調整をしていた。 真空管の熱がこもり、汗が額を伝う。 ふと、扉の向こうから足音が聞こえた。


「……杉本、いるか?」


田所だった。 いつもの陽気な声ではない。 低く、かすれた声だった。


「どうしました?」


「いや……ちょっと、な。悪い、少しだけ、ここで休ませてくれ」


田所は倉庫の隅に腰を下ろし、背中を壁に預けた。 その顔は、昼間の笑顔とはまるで別人だった。


「……弟がな、死んだらしい」


「え?」


「ガダルカナルだよ。昨日、電報が届いた。戦死、ってな」


杉本は言葉を失った。 田所が、弟の話をしたのは初めてだった。


「俺が軍に志願したのは、あいつが先に行ったからさ。兄貴として、黙ってられなかったんだよ」


田所は、ポケットから折りたたまれた紙を取り出した。 それは、軍からの通知だった。 「戦死」の二文字が、赤い印とともに滲んでいた。


「なあ、杉本。お前、写真撮ってるだろ」


「……はい」


「俺のことも、撮ってくれよ。笑ってるやつでいい。  あいつに見せたかったんだ。俺が、元気にやってるって」


杉本は、黙って頷いた。 言葉は、出なかった。


田所はしばらく黙っていたが、やがて立ち上がった。 いつもの調子に戻ったように、軽く背中を叩いて言った。


「よし、明日も子どもたちと遊ぶか。笑ってる方が、やっぱりいいよな」


その背中を見送りながら、杉本は思った。 この島の空気は、あまりにも静かすぎる。 だからこそ、誰もがその静けさに、自分の痛みを隠しているのかもしれない。


彼はカメラを手に取り、そっとシャッターを切った。 田所の背中が、夕陽に溶けていく。

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