春の新風

風見ことは

第1話 窓

部室棟の中でも一際隅の隅。日が差さず、人を遠ざける一室。その立て付けの悪い扉を押し開く。


「おはようございます。」


僕の一言に応答はなく、ただ湿り気のある壁紙へと吸い込まれていった。


「おい、返事はないのか。……唯一の一年が顔を出したのですよ……」

「……」

「礼儀のひとつもなっていないのですか…」


室内には本棚と二台の長机。本棚から溢れ出た書物は、せめてもの気遣いでダンボールの上に積まれている。何故こうも、壁際に物を集めていくのだろう。

理解出来ない習性を無視して、半分以上を本棚で塞がれた窓を開け放つ。瞬間、室内の湿気を吹き飛ばすような突風が舞い込む。長机のそこらに積まれていた四百字詰め原稿用紙が部屋中を踊ると、頑なに机に伏していた二名が顔を上げた。


「東雲…お前……やったな……」

「紙吹雪だな…いや、直接的で面白くない。ライスシャワー…?いや、花びらか……」

「…すみません………どれが要る原稿ですか?」

「全て必要で、全て不必要とも言える。」

「まぁ、気にすることないさ。どうせどれも散文、乱文。それが体言化されただけだ。」

「はは……乱文が乱舞って事ですね」

「ははは!お前も洒落を言えるようになったではないか!」

「ああ……ノンブルもない…とりあえず集めておきますよ。」


拾い集めたそれらを軽く揃えると長机の端へ除ける。ああ、こうして隅に寄せられていくのだな。物も、僕らも。



「全てが必要で、全て不必要とも言える。」

隅っこの大将である菊池は先程の言葉を反復した、より確信を持った声色だ。

「……気に入ったのですか?」

「これはつまるところ、俺の決めることではないのだ。文学は人に触れ、触れた者にとっての要不要で価値が決まる。これが真髄だ。」

安物のパイプ椅子が跳ねるのを気にもとめず立ち上がり、なにかに浸っている。

「はぁ……」

「菊池。私はそうは思わない。」

一方パイプ椅子に気を使う余裕がある須藤は粛々と腰を上げる。


「ほう、聞こうか?」

「文学の価値とは、他でない。自分自身が決めるものだ。自らの主張を乗せ、自らの言葉を綴る。それの真価は己以外にわかるはずなどない。自らのために自らが書く。それこそが文学。」

「自分の為に書きたいのなら鍵付きの日記でもつけていればいい。そうではないか?」

「わからない奴だな。自分こそが一番の理解者、例え大衆に受け入れられなくても自らの思いさえ乗っていればそれは…」

「だからそれを日記だと言っている。」

「自らの美学をも落とし込めない文学に、なんの意味がある?」

「日記どころか裏紙で充分ではないか。多くの人々の目に手に触れ、必要とされる。それこそが…」

「お前こそ手紙でも認めていろ。どれ、そこに便箋の残りが……」

「愚弄する気か!!」

お互い間髪入れない掛け合い、なぜこれを先の挨拶でできないのだ。


「東雲、お前はどう考える?」

「そうだな、唯一の一年、ひいては文学の未来に意見を賜ろう。」

「は……はぁ……」

随分な急旋回に振り落とされそうになる。どうやらこんな日の差さない場所でも腰を落ち着ける暇はないらしい。


「そうですねぇ……逆説的にはなってしまいますが……自らの為の文がたまたま大衆に受けたら先輩方の仰る文学になるのだと思いますが……」

「はっ!なんだそれは!まるで蝙蝠ではないか!」

「とんだ八方美人だな。 」

「先輩方……では僕本来の主張ですが……」

「聞こうか。」

「面白くなりそうだ。」

共通悪を見つけた途端こうだ。しかし、僕はこのサークル存続のため、必要悪の立場を甘んじて受け入れる。

「僕は……文学とは真に芸術であると考えます。」

「笑わすな!そんなことはわかっている」

「芸術性。その売り出し方の話をしているのだよ、僕ちゃん。」

「まぁ、聞きなさい。先輩方の知っての通り、文学とは芸術です。では、芸術とはなにか。芸術とは元来自由で皆に平等である。真に芸術である文学もまた、自由に平等であるべきだ。……つまりはですね、えぇ、先輩方。つまりはこのような討論は無意味なのですよ。僕らは自由に平等であるべき、争う必要などないのです。」


即興の演説は静寂を産んだ。


「……」

「……」

敬慕すべき先輩は目を見合せ、なにかを決め込んだように手を打ち始めた。


「東雲、お前はなかなか見どころがある。」

「物足りない気もするが…まぁ、良い主張だ。」

「はぁ……ありがとうございます。」

すると再び先輩方は目を見合せ、口の端に笑みを浮かべた。

「では東雲、お前の芸術を見せてみろ。」

「えぇ!?」

「そうだな。東雲、お前がわざわざ部室棟まで足を運ぶと言うことは……できたのだろう?」

「まぁ……はい。ですが……この流れで……?」

「お前の真に自由に平等な芸術とはなにかを教えて貰おうというだけだ。」

「むしろ自然な流れと言える。」

「はぁ……構いませんが……」

最早肩と一体化していた鞄を下ろし、容量の八割を占めていた原稿を取り出す。

「二編以上で合計三万字以内との事でしたので…六編に分けて五千字ずつの短編にしてみました…」

「ふむ……大抵初めての短編集なんてのは似たりよったりのつまらない物になるが……」

菊池は原稿を受け取り、始めの一編を自らに、次の一編を須藤に手渡す。

「まぁまぁ、可愛い後輩の初作品だ。批判的に見るのは良くないだろう。」

「……処女作。どんなに拙くともかけがえのないものだな。」

「菊池……その呼び方は好ましくない……」


須藤の意見に耳も貸さず、菊池の視線は原稿を撫でる。一行、また一行と目が動く度に段々と口の端は歪み眉間にシワが寄る。須藤は半分も目を通さぬうちに頭を抱え始め、二枚目三枚目と捲るとそっと原稿をまとめ、天を仰いだ。


「なんだ……その、東雲……」

原稿からは目は離さず、しかし停滞したままの菊池は表情の重々しさそのままを声色に落とし込んだ。

「はい?」

「六編全て同じような作風か?」

「え、えぇ……まぁ、同じテーマで書いたので。」

少しの沈黙の後、僕と原稿を交互に確認すると静かに原稿をまとめる。

「お前の……芸術というのは……随分とおどろおどろしいのだな……いや、悪いという事もないのだが…その…」

「安吾を五日間煮込んで乱歩をトッピングしたという印象だ。」

「違いない。」

「しかし、描写は巧い」

「寧ろそれが故に手が止まるのだ……」

「はぁ……そうですか……」

僕の返答が気に食わなかったのか須藤は残りの原稿を素早く捲り、六編にざっくりと目を通した。

「……つまりは……そうだ。……自由と平等を手に入れた東雲は子供を傷つけるのだな……」

「はぁ?!」

「こう流しただけで子供が痛めつけられているのはわかる」

「……まて、東雲。お前教育学部ではなかったか??」

「!……東雲、自由がすぎるだろう!?」

「いやいやいや!!先輩方!!?なにか誤解があります!」

「誤解も何もあるか!妙に丁寧な背景描写な割にはこの子達の心理描写は一切ない!世の理不尽を背負うのが当たり前かのような扱いだ!」

「あっ!理不尽という言葉が出ましたね!?さすが先輩!それです!」

「はぁ!?」

「僕はですね、理不尽というものはこの世にありふれていると考えています。その中でも特に子供というのは理不尽を理不尽と思わないまま大人に消費されるのですよ。だから僕はそんなのは間違っていると警鐘を……」

「これから如何様にしてそれを読み取れというのだ!?」

「逆効果だ!おかしな性癖を植え付けるだろうこれは!!」

「そんな!?先輩方一度しっかりと最後まで目を通してください!」

「お前がそこまで言うのならそうしたいのがやまやまだが…俺には難しい。」

「私も厳しいな…光や水、自然物の表現は美しいが……人と無機物を恐ろしく描写しすぎだ……人間不信か?」

「えぇ!?このサークルの中なら僕は一番の人間好きですよ!?」

「俺もそう思っていたが……これは……」

菊池は視線を伏せ、眉間を揉んでいる。言葉を……選んでいる……

言葉の続かない菊池に須藤は一瞥をやると僕の顔を覗き込み、さも先輩らしく気を使う。

「東雲、お前自身気づかない闇があるのかもしれない……一度私が話を聞こうか……?」

「結構です!!」


勧善懲悪が好きで勇気ある子供を物語の主軸に置く菊池先輩。棘のある美しさや、自然の美しいが故に畏怖してしまう壮大さをテーマの主軸に置く須藤先輩。正直、表現が暗い、気分が悪くなる…このあたりは出るだろうと予想していたがここまで拒絶されるとは……予想外であった。

「しかし……その、東雲……」

ずっと言葉を選んでいた菊池がようやく口を開く。

「はい……」

「お前、本名を何という?」

「は?いや、それは明かすなと先輩方が入会時に……」

「状況が変わった、お前を教育学部に置くのは危険だ……」

「えぇ…?先輩、僕はこれを幼児趣味やサディズムで書いたわけでなく……先輩、僕は確かな正義感を持ってこの作品をですね……」

「いや、それが問題であろうに。」

「東雲……お前の主張はわからないこともない。火事の危険性を伝えるのには火事を起こして見せた方が手っ取り早い。…その方が恐れる心が芽生えるからな。しかし……教育者としては過激と言えよう……」

「先輩方!そもそもですね!作品から作者を透かして見ようだなんて馬鹿げていますよ……!」

「そうかもしれないが、今回ばかりは……」

「なぜ健やかに微笑んでいた幼児が三行後に手足をもがれないとならないのだ……」

「もがれていないですよ!?」

「虚ろげながらも美しい月の描写だと思いきや……なぜ抉り出された眼球なんだ……?」

「抉り出されてはいませんよ!?」

「……」

「……」

「通して読めばきっと伝わりますから……ねっ!?」


気まずそうに目を合わせ、なにかを言わんとしている。哀れみか嫌悪感かよくわからない視線で見られるのは耐えられない。

「ああ!わかりました!では書き直します!」

「それは……違う気もする…」

「文学は自由……それは違いないんだ……東雲。違わないのだが…」

「そうだ。表現は本当に巧い、テーマ性が私達と合わなかっただけだ……うん。」

「そ、そうだな……運が悪かった。すまないな、お前の文学をわかってやれなくて……」

「ええ……そんな……」

「うむ……そうだな……文学は……芸術は自由……」

「僕の自由が他人の自由を脅かすのは不本意です!!」

机の隅に寄せられた僕の主張を回収しようと手を伸ばした瞬間、また突風が吹き込む。約七十枚程の正義観が部屋を踊り狂い、静かに沈む。

ああ……文学は自由なのだ、それは不自由な程に……


「窓なんて……開かなければよかった……」

呆然と肩を落とす僕に先輩方はそっと手を添える。

「お前のような者が居ないと開かない窓もある。」

「窓を開ける勇気、それこそ今日の収穫と言えよう。」

ただ立ち尽くし先輩方の言葉を反芻させる。

そんな僕を気にもとめず、各所に散った原稿を拾い集める。丁寧にノンブルとを確かめ、汚れがないか手で払い、一枚一枚向きを揃えて……


僕が破天荒で扱い辛い彼らを慕っている理由の一つがこれだ。それぞれの主張でぶつかり合うことは多々あるが、文学そのものを大切にしている。他人の原稿となれば、色が合わずとも懇切丁寧に扱うのだ。

先輩方は拾い集めたそれを丁寧に僕に差し出す……心做しか慈愛のような熱を帯びた視線を添えて。

「さて、東雲。これがお前の勇気の象徴だ。」

「寄って集って責めるような真似をして悪かったな。」

「各章ごとでなく、総集のタイトルは考えてあるのか?」

「えっ、待ってください。僕、もしかして慰められています??」

返答はなく、ただ擽られるような熱視線が集まるばかりだ。

「ん??えっ???あっ!いや!!窓って……!!比喩ではなく、本当に閉じておけばよかったと……!!」

「そうかそうか、ではお前の芸術…確と受け取ったぞ……」

こそばゆい声色と目線に反応し鳥肌が立つのを感じる

「いえ!書き直しますから!」

「今でも充分に心に響く出来だぞ?」

「鈍痛だがな」

「僕には文人として以前に一端の教育者としてのプライドがありますから…!」

「そうか……では東雲、思う存分推敲してきなさい。」

何やら勲章のように仰々しく手渡された約七十枚の自由を再び鞄に収める。数分前まで感じていた重みをもう忘れていたのか肩は悲痛な違和感を訴える。

「しかし、東雲。わかってはいるだろうが自由というのは重いのだ。」

「お前のそれは決して手放すなよ。」

「はぁ……まぁ、自由には責任が伴いますからね。」

「……」

「あ、安倍公房の鞄と掛けていました?そのような解釈もありますよね。」

「一拍遅れたな」

「哀れ。新進気鋭の東雲氏にはまだ私たちの血は通っていないらしい。」

「……今のは悔しいですね……次はもっと早く気が付きます…」

「そうだな。」

「期待している。」

「はぁ。では…急いで改稿いたしますね……御機嫌よう、敬愛する先輩方。」

湿気のせいか少し粘り気のあるドアノブを回し、思いきり体重をかける。

「ああ、そうだな。」

「御機嫌よう、僕ちゃん。」

「俺たちは何時でもここで待っている。」

やっとの事で扉が開いた瞬間、再び突風が僕の背中を押した。押し出された僕に微笑みを投げると菊池は重く硬い扉を閉め直す。


相も変わらず日も差さぬ湿った隅の隅。しかし、不思議と爽やかな風を感じられるのであった。

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