逆光のバブル

モーセ

第1章「灰色の日常」

第1話「孤立」

五月の午後の陽光が、埃の粒子を白く浮かび上がらせていた。放課後の教室には、まだ何人かの生徒が残っている。高梨翼は自分の机に視線を落としたまま、背中に突き刺さる視線の数を数えていた。三つ、四つ。いや、もっと多い。


「マジでさあ」


後ろの席から聞こえてくる声。わざと聞こえるように話している。


「佐藤、停学だってよ。推薦取り消しになるかもって」


「うわ、最悪じゃん。てか高梨って何様なの」


「正義マンってやつ? うっざ」


笑い声が上がった。翼は机の木目を見つめ続けた。右手が少しだけ強く握られて、また緩んだ。


三日前、翼は佐藤健太郎のカンニングを目撃した。英語の小テスト。机の引き出しに入れたスマートフォンで、前日に友人から送られてきた解答を見ていた。翼の席から、その画面がはっきりと見えた。迷いはなかった。テスト終了後、翼は担任の元へ向かい、見たことをそのまま報告した。ただそれだけのことだ。


「ねえ、なんで言ったの?」


振り向くと、隣の席の女子生徒が顔を近づけてきていた。好奇心と軽蔑が混ざったような目。名前は確か、山田。山田何か。


「不正だったから」


翼は短く答えた。


「いや、そうじゃなくてさ。佐藤、別にあんたに何かしたわけじゃないでしょ? なんでわざわざ言いに行くの?」


「不正は不正だ」


「はあ?」


山田は呆れたように首を振り、立ち上がった。友人たちの輪に戻りながら、聞こえよがしに言う。


「やば。マジで話通じないんだけど」


翼は再び机に視線を戻した。窓から差し込む光が白すぎて、目が少し痛んだ。教室の空気は重く、蒸していた。汗が背中を伝う感覚。でも立ち上がる気力がない。


クラスメイトたちが少しずつ帰っていく。足音、椅子を引く音、笑い声。それらが遠い場所の出来事のように聞こえる。翼はぼんやりと考えた。俺は間違っていない。カンニングは不正だ。不正を見逃すのは共犯と同じだ。だから報告した。それの何が悪い。


何も悪くない。


でも、胸の奥に溜まっているこの重さは何だろう。罪悪感とは違う。後悔でもない。ただ、鬱陶しいほどに重い何か。息を吸うたびに、肺の底に鉛が溜まっていくような感覚。


最後の生徒が教室を出ていった。翼は一人になった。


鞄を持ち上げるのに、妙に時間がかかった。腕が重い。体全体が重い。廊下に出ると、下校する生徒たちの流れに逆らわないように歩いた。誰も話しかけてこない。誰も目を合わせない。まるで翼がそこにいないかのように、人々は通り過ぎていく。


それでいい、と翼は自分に言い聞かせた。元々、友人と呼べるような相手はいなかった。クラスメイトと表面的な会話を交わすことはあっても、放課後に一緒に遊びに行くような関係はない。だから、今更避けられたところで、失うものは何もない。


校門を出ると、五月の風が頬を撫でた。生ぬるい風。空を見上げると、青い。抜けるように青い。でも、その青さが目に染みない。まるでテレビの画面を見ているような、どこか現実感のない青。


自宅までの道を、翼は足を引きずるように歩いた。途中でスマートフォンを取り出した。SNSを開く。案の定、クラスのグループラインには批判の嵐が吹き荒れていた。


『高梨マジでありえない』『佐藤かわいそう』『正義マンうざすぎ』『てか高梨って普段から暗くない?』『なんか目が死んでるよね』『関わらない方がいいやつだよあれ』


翼は画面をスクロールした。怒りは湧かなかった。悲しみも湧かなかった。ただ、「ああ、そうか」という感想だけがあった。自分のことを言われているのに、まるで他人事のようだ。誰かが傷つけられているのをテレビで見ているような、そんな距離感。


「どうでもいい」


声に出してみた。本当にそう感じている自分がいた。嫌われた。避けられている。SNSで悪口を書かれている。だから何だ。もともと彼らと繋がっていたわけではない。失ったものは何もない。


ただ——何かがおかしいことには気づいていた。普通なら、怒るか悲しむか、どちらかの感情が湧くはずだ。反論したくなるか、落ち込むか。でも翼の中には、灰色の霧のような虚無感しかなかった。


電柱の影が長く伸びている。夕方が近い。翼は立ち止まり、もう一度空を見上げた。さっきより少し色が変わっている。オレンジがかった光が雲を染めている。きれいな夕焼けだ、と頭では理解できた。でも、胸が動かない。


「きれい」という感想が、言葉としては浮かぶ。でもそれに伴う感情がない。空虚な記号としての「きれい」。それだけだ。


いつからこうなったのだろう、と翼は考えた。中学の頃はまだ、何かに夢中になれた時期があった気がする。でも今は何も思い出せない。好きなこと。楽しいこと。やりたいこと。全部が灰色のフィルター越しに見える。


俺は間違っていない。


その言葉を、翼はもう一度心の中で繰り返した。俺は正しいことをした。カンニングを見逃さなかった。不正を許さなかった。それの何が悪い。


でも、正しいことをして、なぜこんなにも孤立するのか。正しいことをして、なぜ責められるのか。世界のルールがどこかで歪んでいるのか。それとも、俺が何か間違っているのか。


答えは出なかった。考えることさえ、億劫だった。


自宅が見えてきた。二階建ての一軒家。子供の頃は広く感じたその家が、今は妙に窮屈に見える。玄関のドアを開けると、母の声が聞こえた。


「おかえり」


「ただいま」


それだけの会話。翼は靴を脱ぎ、階段を上がった。自室のドアを閉め、鞄を床に落とす。ベッドに倒れ込むと、天井の白さが目に入った。何も模様のない、ただ白いだけの天井。


スマートフォンをもう一度確認した。SNSの通知が増えている。見る気が起きない。でも、見ないと気になる。開くと、また新しいコメントが並んでいた。


『高梨のせいで佐藤の人生終わったじゃん』『推薦取り消しとかマジで洒落になんない』『高梨って友達いないよね』『いないでしょあいつには』


友達がいない。それは事実だ。事実を指摘されて、何を傷つく必要がある。翼は画面を閉じた。


窓の外で、鴉が鳴いた。夕暮れの空が、灰色に変わり始めている。さっきまでオレンジだった光が、今は薄く濁っている。それとも、最初から灰色だったのか。もう分からない。


俺は間違っていない。


三度目の言葉。自分に言い聞かせるための呪文。でも、その言葉にも力がない。正しいことをした。だから何だ。正しさが何かを救ってくれるわけではない。正しさが誰かと繋げてくれるわけではない。


でも、正しさがなければ、俺には何もない。


その考えが、不意に胸を締めつけた。正義感だけが、自分を自分たらしめているもの。それがなくなったら、俺は何者でもなくなる。空っぽの殻。


だから手放せない。だから、嫌われても構わない。どうせ、誰とも本当には繋がれない。最初から繋がっていなかったのだから、失うものは何もない。


翼は目を閉じた。瞼の裏が赤く染まる。夕日の残像。でも、それもすぐに暗くなった。


明日も学校がある。明日もあの教室に行く。明日も、あの視線を浴びる。


別に構わない。


そう思いながら、翼は眠りに落ちていった。浅い、疲れの取れない眠りに。

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2025年12月21日 20:00
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