第4話:冷たい城と、値札のついた愛


時刻は22時を回っていた。

空からは、慈悲のない雨が降り注いでいる。

傘はある。だが、横殴りの風雨は薄いビニール傘など無きものとして扱い、蓮の安物のスーツを容赦なく濡らした。

住宅街のアスファルトを踏むたびに、革靴の中から不快な音が響く。

グジュッ、グジュッ。

靴底から浸水した泥水が、靴下を冷たく濡らし、ふやけた足の裏に纏わりつく。その感触は、まるで腐った沼地を歩いているような生理的な嫌悪感を催させた。

視界の先に、白い影が浮かび上がる。

闇の中に聳え立つ、白亜の新築一戸建て。

蓮が35年という長大なローンの鎖に繋がれて手に入れた、「夢のマイホーム」だ。

だが、今の蓮の目には、それは温かい家庭の象徴には見えなかった。

夜闇の中で白く浮き上がるその四角い輪郭は、巨大な墓標(トゥームストーン)のように見えた。

あるいは、生きたまま人間を閉じ込める、美しい監獄か。

門扉を抜け、玄関の前に立つ。

手が震えていた。寒さのせいではない。

ドアノブに手をかけた瞬間、ドクンと心臓が早鐘を打ったのだ。

「帰りたい」場所のはずなのに、体が拒絶している。胃の腑から酸っぱい液がせり上がり、喉元を焼く。

ここは俺の城ではない。俺はただ、この城を維持するためだけに生かされている、消耗品の下僕だ。

深呼吸をして、無理やり「良き夫」の仮面を張り付け、蓮はドアを開けた。

「……ただいま」

玄関ホールは静まり返っていた。

返事はない。ただ、リビングの方からテレビの音が漏れているだけだ。

靴を脱ぎ、揃え、リビングのドアを開ける。

広々としたリビングには、床暖房の温もりが満ちていた。

その中央、イタリア製のカウチソファに、妻の玲奈(レナ)が優雅に腰掛けている。

手にはファッション誌、テーブルには湯気を立てるハーブティー。

まるで映画のワンシーンのような優雅さだが、帰宅した夫を見る視線だけが欠落していた。

彼女は蓮の方を向きもしない。

「……ただいま、玲奈」

蓮がもう一度、少し声を張って言う。

玲奈は雑誌のページをめくる手を止めず、独り言のように呟いた。

「ねえ。サユリさんの旦那様、またハワイの別荘買ったんですって」

「え……?」

「いいわよねぇ、甲斐性のある男は。息をするように妻を喜ばせるんだから。それに比べて……」

玲奈はようやく顔を上げた。だが、その瞳は蓮を映していない。そこにいるのは「夫」ではなく、性能の悪い、買い替え時を過ぎた「家電」を見るような目だった。

「……そうか。すごいな」

蓮は乾いた雑巾を絞るような声で答える。

「『すごいな』じゃないでしょ?」

玲奈が呆れたように鼻で笑う。

「そこで『僕も頑張るよ』とか、『君にもいつか買ってあげるよ』とか言えないの? そういう夢のないところが、蓮が万年平社員たる所以なのよ。あーあ……なんだかこの家も、最近狭く感じてきたわ」

狭い?

まだ建てて半年だ。120平米あるこの家が狭いというのか。

蓮の口から、思わず本音が漏れる。

「……まだ、新築だぞ。それに、これ以上のローンなんて、今の俺の給料じゃ……」

その瞬間、玲奈の眉間に深い皺が刻まれた。

彼女は手にしていたハーブティーのカップを、カチャンと音を立ててソーサーに戻した。

「出た。またそれ? お金がない、ローンがキツい、給料が安い」

玲奈は手で鼻先を扇ぐ仕草をした。

「やめてくれる? その貧乏くさい話。この部屋の酸素濃度が下がる気がするの。私とお腹の子に悪影響だわ」

「……すまない」

謝るしかなかった。

反論すれば、倍になって返ってくる。この家におけるカーストは明確だ。

お腹の子>玲奈>飼う予定の犬>蓮。

蓮は濡れたスーツの重みを感じながら、キッチンへと向かおうとした。

「あ、そういえば」

玲奈の声が、逃げる蓮の背中を捕まえた。

「ベビーカーのことなんだけど。やっぱり買い直すことにしたから」

「え……?」

蓮は足を止めた。心臓が嫌な音を立てる。

今日の昼間、給湯室で直人が言っていた話を思い出す。『イタリア製の、色が気に入らない』とかいう話だ。まさか、本当に?

「買い直すって……先月、買ったばかりじゃないか。5万円もした、あの青いやつ」

「あれはもういいの。色が今の気分じゃないし、サスペンションが硬くて可哀想だもの。でね、イタリア製の限定モデルを見つけたの。20万円。明日までに振り込んどいて」

「に、20万……!?」

蓮は愕然として振り返った。

「無理だ、玲奈。今月は車の車検もあるし、固定資産税の通知も来てる。ボーナスまで待ってくれないか? それに、前のやつだって十分使えるし……」

「はぁ?」

玲奈の声がワントーン低くなる。

彼女は雑誌をソファに叩きつけた。

「あなた、自分の子供に中古車みたいな型落ち乗せる気? 恥ずかしくないの?」

「いや、型落ちって言っても、先月の新品だろ……」

「関係ないわよ! 直人くんの奥さんは、新作の予約したって言ってたわよ!?」

時が、止まった。

直人くんの、奥さん?

直人と玲奈は、結婚式で一度会ったきりのはずだ。

直人は「玲奈ちゃんによろしく」と言うが、玲奈が直人の話をすることは滅多になかった。

なぜ、玲奈が直人の家の購入事情を知っている?

(……もしかして、連絡を取り合っているのか?)

一瞬、どす黒い疑惑の種が脳裏に芽生える。

だが、それは瞬時に蓮自身の自己否定によって塗り潰された。

いや、違う。SNSか何かで見たのだろう。

直人は親友だ。玲奈は妻だ。疑うなんて最低だ。

それに、俺が稼げないのが悪いんだ。俺がもっと優秀なら、玲奈だって他の家と比べて惨めな思いをしなくて済む。

自分はATMだ。金を吐き出さないATMなど、ただの鉄屑だ。

その強迫観念が、蓮の首を絞める。

「……わかった。なんとかする」

「当然でしょ。父親なんだから」

玲奈は興味を失ったように、再び雑誌を拾い上げた。

重い足取りで浴室へ向かい、シャワーだけを浴びる。

湯船にお湯は張られていない。ガス代の無駄だと言われているからだ。

冷えた体をタオルで拭き、パジャマに着替えて寝室へ向かう。

今日は疲れた。泥のように眠りたい。

寝室のドアノブに手をかけ、回す。

「入ってこないで!」

室内から、鋭利な刃物のような叫び声が飛んできた。

蓮が反応するより早く、暗闇の中から物体が迫ってくる。

スローモーションのように、視界が引き伸ばされる。

飛んできたのは、ベッドに置いてあった厚手のクッションだった。

それが空気を切り裂き、回転しながら蓮の顔面へと迫る軌道を、蓮の動体視力は無駄に鮮明に捉えてしまった。

ドフッ。

鈍い音と共に、クッションが蓮の顔に当たり、床に落ちる。

「……玲奈?」

「雨臭い! アンタ、自分がどんな臭いしてるか分かってんの!?」

ベッドの上に立つ玲奈が、鬼の形相で指差していた。

「外のバイ菌持ち込まないでよ! 妊婦に風邪うつす気!? 今日はあっち行って!」

「でも、俺はシャワーを浴びて……」

「息が臭いのよ! 生理的に無理なの! 出てって!」

玲奈が素早い動きでドアに駆け寄る。

蓮は反射的に一歩後ずさった。

バァン!!

破壊的な音がして、目の前でドアが叩きつけられた。

続いて、カチャリ。

無機質な金属音が響く。鍵が掛けられたのだ。

その音は、蓮と「家族」の世界を、物理的にも精神的にも完全に分断する断絶の音だった。

白いドアの向こう側は、温かい天国。こちら側は、冷たい地獄。

深夜のリビング。

照明は消され、常夜灯のオレンジ色の薄暗い光だけが、新築の壁を不気味に照らしている。

蓮は、フローリングの床に直に横たわっていた。

ソファで寝ることは許されない。「皮脂で革が傷むから」という理由で。

薄いタオルケット一枚を被り、身体を丸める。

床下から這い上がってくる底冷えが、服を通り越し、肉を通り越し、骨の髄まで浸食してくる。

新築特有の、あの鼻につく建材の匂い。

かつては「新しい生活」の匂いだと思っていたそれが、今は「独房」の匂いにしか感じられない。

会社には、椅子がない。

家には、ベッドがない。

世界のどこにも、鬼堂蓮が安らげる場所はなかった。

蓮はポケットの中にある「お守り袋」を握りしめた。

祖父が縫ってくれた、古びて薄汚れた布切れ。

その粗末な感触だけが、今の蓮にとって、世界に残された唯一の優しさだった。

指先から伝わる微かな温もりだけを頼りに、意識を手放そうとする。

その時だった。

静寂に包まれた家の奥、閉ざされた寝室の方から、微かな話し声が聞こえた。

壁が薄いわけではない。夜の静けさが、音を運んできたのだ。

玲奈の声だ。

だが、蓮が知っている声ではない。

蓮に対しては一度も出したことのない、砂糖を煮詰めたように甘く、蕩けるような猫なで声。

電話をしているのか?

「……うん、追い出したよぉ。あいつ、今ごろ床で丸まってるんじゃない?w」

クスクスという笑い声。

蓮の心臓が凍りつく。

空耳だ。そう思いたい。だが、次の言葉が、鋭い楔となって蓮の鼓膜を貫いた。

「大丈夫だよぉ。あの人、バカだから何も気づいてないし……うん、愛してるわ、直人くん」

時が止まる。

呼吸が止まる。

心臓だけが、破裂しそうなほど激しく脈打つ。

直人?

今、親友の名前を呼ばなかったか?

愛してる、と言わなかったか?

幻聴だ。疲れているんだ。

蓮は虚空を見つめたまま、瞬きもできずに硬直した。

床の冷たさも、体の痛みも消え失せ、ただ頭の中が真っ白なノイズで埋め尽くされていく。

(信じるな。疑うな。信じろ。疑え)

矛盾する思考がスパークし、ショートした蓮の意識は、プツンとブラックアウトした。

ただ、握りしめたお守り袋の紐が、千切れるほどの力で引き絞られていたことだけが、彼の中に眠る「鬼」の目覚めを予兆していた。

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