第3話:泥と蜜と、プラスチックの首輪


エレベーターの扉が閉まると、世界は鉄の箱の中に密封された。

「ウィィィン……」という低い駆動音が、足元から這い上がってくる。ワイヤーが巻き上げられるその振動だけが、この密室の沈黙を埋めていた。

狭い空間。

そこには、残酷なまでの「格差」が充満していた。

直人から漂うのは、高級ブランドのシトラス系コロンの香り。爽やかで、自信に満ちた「成功者」の匂いだ。

対して、蓮は自分の身体から立ち上る臭いに神経を尖らせていた。安物のスーツに染み込んだ生乾きの雨の臭いと、冷や汗の酸っぱい臭い。それが直人の高貴な香りを汚しているのではないか。そう思うと、呼吸すら浅く細くせざるを得ない。

濡れた背中がエレベーターの壁に触れた。

ひやりとした金属の冷たさが、じっとりと湿ったシャツ越しに肌へ伝わり、不快な張り付き感を覚える。

(申し訳ない……)

蓮は俯き、視線を床のマットに落とした。

俺なんかのために、直人まで剛田課長に目をつけられたらどうするんだ。俺は疫病神だ。関わる人間を不幸にする、歩く汚染物質だ。

横目でちらりと直人を見る。整えられた髪、染みのないシャツ、自信に満ちた横顔。

彼が放つ光が強ければ強いほど、蓮の影は濃く、汚濁していく。

「助けてもらった」という負い目が、蓮の思考力を奪い去る。この男に従わなければならない。この男だけが、泥沼でもがく自分に垂らされた唯一の蜘蛛の糸なのだから。

「……ここなら、話せるな」

直人が連れてきたのは、フロアの隅にある給湯室だった。

昼休み以外は人の出入りが少なく、大型冷蔵庫の「ブーン」という低いモーター音だけが響く薄暗い空間。

直人はポケットから小銭を取り出すと、自販機のボタンを迷いなく押した。

ガコン、ガコン。

微糖の缶コーヒーが二本、取り出し口に転がり落ちる。

「ほら、温まれよ」

直人が放った缶が、放物線を描いて蓮の手元へ飛んでくる。

慌てて受け止める。冷え切った指先に、スチール缶の熱さがじんわりと染み渡った。

「ありがとう……」

「いいってことよ。俺とお前の仲だろ」

直人はプルタブをカシュッと開け、一口啜ると、壁に寄りかかって溜め息をついた。

「あーあ、参ったよ。玲奈のやつ、またベビーカー買い換えたいとか言ってさ」

本題に入る前の、何気ない雑談。しかしそれは、蓮の心を確実に削り取る刃だった。

「先月買ったばっかのイタリア製のやつ、色が気に入らないんだと。『サファイアブルーは今の気分じゃない』とか言ってさ。五万もしたんだぞ? 信じられるか?」

「……そうか。大変だな」

蓮は乾いた唇で相槌を打つしかない。蓮の家では、壊れたカラーボックスさえ買い換える余裕がないというのに。

直人は大げさに肩をすくめるが、その口元は緩んでいる。

「だろ? 『蓮くんのところはローンでカツカツだから、うちは妥協できない』とか、変な対抗意識燃やしちゃってさぁ。お前の嫁さんも、もうちょっと稼ぎがあればピリピリしなくて済むのになぁ」

グサリ、と見えない棘が心臓に刺さる。

「……ああ、俺のせいだ。甲斐性がないから」

「ごめんごめん、嫌味じゃないんだ。たださ、持つ者と持たざる者の違いっていうか? 世の中、金がないと心まで貧しくなるって話だよ。お前を見てると、つくづくそう思うわ」

直人は憐れむような目を向けてくる。だが、その瞳の奥には、優越感という名の蜜を啜る愉悦が揺らめいていた。

「同情」という仮面を被った「嘲笑」。蓮はそれに気づかないふりをして、苦いコーヒーを喉に流し込んだ。

「で、だ。本題に入ろう」

直人の声のトーンが、急に低くなった。

彼は入り口のドアを一瞥し、誰もいないことを確認してから、蓮に顔を近づけた。

「実はさ、お前の『計算ミス』の件なんだけど」

「え?」蓮は顔を上げた。「いや、あれは俺、ちゃんと確認して……」

「分かってる。お前がそんなミスするはずない」

直人は蓮の言葉を遮り、さらに声を潜めた。

「剛田課長が裏でデータを改ざんして、お前に被せようとしてるらしいんだ。……俺、それを見ちゃってさ」

「な……ッ!?」

蓮の背筋が凍りついた。

剛田ならやりかねない。いや、やる。あいつにとって、蓮を痛めつける理由は「呼吸をする」のと同じくらい自然なことなのだから。

「どうしよう……このままじゃ、懲戒処分に……」

パニックになりかけた蓮の肩を、直人の大きな手がガシリと掴んだ。

「落ち着け。まだ間に合う」

直人の目が、蓮を射抜く。

「俺が修正してやる。システムに入って、改ざんされたログごと元に戻せば、剛田も手出しできなくなる」

「ほ、本当か!?」

「ああ。だが、一つ問題がある。俺のアカウントでアクセスすると、俺が操作したログが残って怪しまれる。お前のミスをお前自身が修正した形にしなきゃ意味がないんだ」

直人は、ゆっくりと右手を差し出した。

「お前のIDカード、貸してくれ。俺が今夜、残業してこっそりやっておくから」

スローモーションのように、時間が引き伸ばされる。

蓮の視線が、自分の胸元に落ちる。

首から提げた、プラスチックのカードホルダー。そこには蓮の顔写真と社員番号が印刷されている。

蓮の震える手が、ストラップへと伸びた。

指先がプラスチックの感触を捉える。

これは単なる入館証ではない。

会社のシステムへのアクセス権、機密情報の閲覧、金庫室への入室――蓮という人間が、この会社で「社員」として存在するための証明書であり、同時に「命そのもの」だ。

これを他人に渡すことは、会社の規定で最も厳しく禁じられている。発覚すれば一発解雇、最悪の場合は法的責任さえ問われるタブー中のタブー。

(渡して、いいのか?)

本能が、激しく警鐘を鳴らす。

背中の毛が逆立つような悪寒。腹の底で蠢く「鬼」が、『そいつを信用するな』と低く唸る。

だが。

「蓮、俺を信じろ。お前を助けたいんだ」

直人の真摯な声が、本能の警告を塗り潰していく。

そうだ。こいつは親友だ。剛田から守ってくれたヒーローだ。疑うなんて、なんて浅ましいんだ。

蓮はストラップを首から外し、その「首輪」を自らの手で差し出した。

プラスチックのカードが、蓮の指を離れる。

直人の指が伸びてくる。

二人の指先が触れ合った瞬間、バチッという静電気のような音が、蓮の鼓膜だけで弾けた気がした。

カードが直人の掌に収まるまでの数秒間。

蓮の心臓は早鐘を打ち、喉の奥が引き攣るように渇いた。

取り返しのつかないことをしている。自分の生殺与奪の権を、丸ごと相手に手渡している。

それでも、蓮は手を引っ込めなかった。

パシリ。

乾いた音と共に、カードは直人の手に握られた。

「助かるよ、蓮。これで全部うまくいく」

直人は素早くカードをスーツの内ポケットにしまい込んだ。その動作は手慣れていて、あまりにも滑らかだった。

「ありがとう、直人……! お前だけだ、俺の味方は」

蓮は深々と頭を下げた。涙が滲んで視界が歪む。

この地獄のような職場で、唯一の光。彼になら、命を預けてもいい。そう思えた。

「気にするなよ。友達だろ?」

直人の声は、どこまでも優しかった。

蓮が頭を下げ、感謝に打ち震えているその背後で。

直人は給湯室の出口へと踵を返した。

彼は一度も振り返らなかった。

歩きながら、胸元のポケットからスマートフォンを取り出し、画面をタップする。

青白いバックライトが、直人の顔を下から照らし出す。

そこには、心配の色も、友情の温かみも、微塵もなかった。

あるのは、罠にかかった獲物をどう料理してやろうかと品定めするような、無機質で冷酷な眼差し。

唇の端が、三日月のように鋭く吊り上がる。

それは、友に向ける笑顔ではない。捕食者が獲物に向ける「嘲笑」だった。

「……っんと、チョロいな」

直人の唇から漏れた独り言は、冷蔵庫のモーター音にかき消され、蓮の耳には届かなかった。

送信ボタンを押す。

メッセージの宛先は『玲奈』。文面には短い一言。

『鍵は手に入れた。計画通り』

直人が出て行き、給湯室のドアが閉まる。

後に残されたのは、偽りの希望に縋り付き、涙を流す愚かな男と、ブーンという無機質な冷蔵庫の音だけだった

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