オリーブを託して
宵月乃 雪白
桃源郷
小鳥のさえずり、水の流れる音、草木が身を寄せ合う心地よい音。それらの音が当たり前でないことを私は知っている。
同じ人間同士の争いのせいで消えてゆく動植物たち。彼らは争いに関係ないのに、この世界の頂点に君臨し続ける人間のせいで、住処を命を何もかも搾取され続けていた。それらの悲鳴が鳴り響いて止まない地球という星。それは儚くも残酷な、生命誕生の地でもある。
真っ暗闇から一変、視界は晴れた空のように澄んでいた。頭上を二匹の蝶が平和を象徴するかのよう優雅に舞っている。何も起こっていない、私の求めていた世界のように美しく自由に飛んでいた。
「おはようございます。ルイ様」
と、覗き込んできたのは小動物のような愛らしい顔つきの者だった。その童顔とも呼べる顔立ちに似合わない、白衣を身につけたこの者はなぜか私の名前を知っている。
「お前は……」
「わたくしはしがない研究者ですよ。さぁさぁ随分と寝ていらしてましたから……甘いものでもいかがです?」
流れるように起き上がらせられ、どこからか持ってきた白くて綺麗な皿に二つずつ乗った、桃をふんだんに使ったタルトとバタースコッチブレッドを見せびらかしてきた。
「こちらもオススメですが、わたくしはこっちの方が好きです」
指差されたバタースコッチブレッドからは甘くて芳醇な香りが鼻をくすぐる。
「あ、ありがとう? じゃあそっちで」
「んなぁ〜。そうお礼を言われることでもないですよ。お飲み物は紅茶でいいです?」
「あぁ。頼む」
元気よく頷き、白いガーデンテーブルに皿を置く。慣れた手つきで置いてあった透明なポットに紅茶の茶葉を入れて、紅茶を飲む準備をしてくれている。
顔に反して上背のあるこの者は一体誰なのだろうか。水が上から下へと流れていくように、この者はゆったりとけれど自分のペースを崩さず話を進めてくる。それなのにちっとも嫌な気持ちにはならない。
そんな気持ちにならないのはもしかしたら、この不可思議な空間のせいかもしれない。
浮世離れしたこのガラス張りで太陽が木漏れ日のように差し込むこの場所。森のように沢山の木々が生い茂り、花も果樹も稲も。理想としていた世界があった。
もっと他の植物も見てみたい。そう思ったときには足が勝手に動いて、その場に立ち上がってツヤのある桃色に染まった桃が生えた木を見に行こうとしたら、思い切り足を打った。
タンスの角にぶつけたような地味に痛い思いをしたのは久しぶりである。その絶妙な痛さにしゃがみ込むとお尻の方に何かが当たってそのまま後ろに倒れ込む。
派手に頭を打ってしまった私は心底穴に入りたいと、切に願ったが紅茶を淹れてくれている者は何も気にしていない様子で真っ赤な赤ワインのようなものが入ったグラスを傾け、それはそれは美味しそうに飲んでいた。お酒は呑めないはずなのに、この者が飲んでいるワインは飲んでみたいと、ひどく惹かれるのは何故だろう。気が緩んだのか、それとも忘れたい何かがあるのか。口内で分泌される唾液の量がいつにも増して多くなっている。
私が寝転んでいたのは芝生ではなく、異国の木製造りの棺のようなものだったらしい。私の背丈に驚くほどぴったりな棺はまるで私のために作られたようだ。
その棺を囲うように自国のシンボルである白色のリューココリネが綺麗に花を咲かせていた。バニラのような甘い香りが鼻をくすぐる。街のどこからでも当たり前のように香っていたこの匂いが今や、火薬など本来なら匂わないものが街中に蔓延している。
それなのに私はここに、何もせずただ眠っていただけ。まるで御伽噺のお姫様のように。空間といい、寝ていた場所といい、ここは絵本の世界そのものだ。
「紅茶できましたよ」
「あぁ」
立ち上がり名前の知らない親切な者に促され、テーブルと同じ、白いガーデン椅子に座る。
テーブルの上にはお茶会のように茶菓子と紅茶、そして目の前の者が飲んでいる赤いワインのようなものが置いてある。
暑すぎず、寒すぎず。心地よい空気と湿度で行うお茶会はさぞ楽しいだろう。偽りなくありのままの自分を受け入れてくれるような天使の道は真っ直ぐに、天からの光をこの御伽噺のような世界を照らしている。
美味しそうな香りに釣られたのか、オリーブの実をくわえた小鳥がやって来た。その小鳥にその者は近くに生えている、ほんのりと赤に色づいた桃を小さなナイフで一口大に切って手渡す。小鳥はその者の手にオリーブを置くと一切れの桃をくわえ、森のどこかへ消えっていった。
「ここ綺麗でしょ? 理想の桃源郷を創ったんです! って言っても一からではないですが」
今ではない過去を見ているかのような遠くを見るその視線は、この者のさっきまでの言動からはかけ離れたもので胸が締め付けられた。
「もともと植物園だったらしいんですよ。そこの温室をこう、ちょちょっといじって増築して。で、できたのがここです」
「綺麗だな」
「でしょ〜。これを一人でたった一人で創ったんですよ」
たった一人。いくらもとがあったからと言って、これだけの植物を順調に生育するためには知識も労力も時間も、削ったものは大きかっただろう。創ったあとも植物は手入れをしなくちゃ、元気なままでいることはできない。
そんな『大変』の一言で表せないようなことを、この人はやっているのだ。ただの自己満足なのかもしれない、けれど眠りから醒めてから見たこの景色は今まで見てきたどの景色よりも美しく幻想的だ。
「そうなのか。よく頑張ったな」
「そ、そんな褒められることでも何でもないですよっ。でもルイ様に褒められるのは凄く、物凄く嬉しいです」
両手を前にブンブンと上下に振り回し否定をしている。けれど、その動きとは反対に話しかけてくれたときよりもずっと嬉しそうで楽しそうだった。
「そんなものなのか」
「はい!」
子供のようなその無邪気な笑みがどこか懐かしさを感じさせる。
知っているようで知らないその表情はきっと、争いが起きる前の皆が見せていた表情に似ていたからだろう。助け合って生きていく。そういう当たり前だと思われていたことが、争いの前では敵を前に味方を守るためだけの残酷なものになってしまう。
ここのように皆が穏やかに日々を過ごせたらどれだけ幸せか。人は失ってからでしか、ことの大切さを理解できない。理解しようとしない。分かろうと皆んなが努力していたら、結果も過程も変わっていただろうか。
「ところで皆はどこだ? 私だけがこの理想郷に居る訳にもいくまい」
ずっとここに居たい。けれど他の皆がここにおらず、あの血生臭い命を命として扱わない場所に居るのなら、少しでも役に立ちたい。
「あ〜。記憶はあるんだぁ」
気だるげに、膝から崩れ落ちそうな勢いで椅子に座って、ワインを一口。鋭い八重歯がひょっこりと顔を出す小さな口で、目に見えない何かと一緒に、一気に水でも飲み干すかのよう飲み干した。
「どこまで覚えてるんです?」
「どこまでとは?」
勢いよく相手が近づいてくる。その距離は互いのいきがかかるほど近く、握りしめた自分の拳が驚くほど汗で濡れている。何かいけないことを隠していないのに、隠していると錯覚してしまうくらいの圧が赤い瞳からは溢れ出ていた。
「………まぁいいや。ルイ様の求めてる皆とは自国の民のことですか?」
さっきの剣幕から一変。何事もなかったように、ゆっくりと着席するとにっこりと笑ってバタースコッチブレッドを上品に口の大きさにちぎって食べ出した。
「そ、うだが……何かおかしいか?」
「いいえ、ちっとも。ん〜どう説明すればいいんだろう?」
そう考えている間にもぐもぐと小動物のように口に蓄えたバタースコッチをゆっくりと飲み込んでゆく。
この者は一体、何を隠しているのだろう。
人は何かを隠すとき言葉が少し揺れる。それは悪意あるものも善意あるもの両方ともだ。だが悪意の方は善意と違い、言葉が白く聞こえない。こう何か重く、流れることのない何かに塗り固められたような重い言葉に聞こえる。
だけどこの人からはそういった重さは一切感じ取ることができない。むしろ、透明で柔らかいものに聞こえる。だからさっきの豹変ぶりも、緊張しただけでおかしいとは思わなかった。
「ルイ様が大切にされている皆さんは、幸せになれる場所に行きました」
何分かしてその人はそう、半ば独り言のように小さく答えた。
「幸せな場所?」
「そうです。ここのような場所に皆さん行かれましたよ」
ひどく優しく、それでいて悲しそうに違和感のある笑みを浮かべた。
「そう……か。───よかったッ!」
その違和感は音になって耳へと届いた言葉の前ではないものとなった。「ここのような幸せな場所に行けた」それだけで、嫌だったことも苦しかったことも辛かったことも何もかもが消えてしまうんだ。
歓喜に満ち溢れた体はかつてないほど高揚していた。自分が守れなかった幸せを、この御伽噺のような場所に再び行くことができたのなら、私はもういらない。もう誰も傷つかずに済む。
「………悲しくないんですか?」
「なぜ悲しむんだ? ここのような桃源郷に行けたのなら上に立つものとして悲しむことはないさ」
「そう………ですか……………そうですよね。何も悲しむことはない! ですね!」
「あぁ」
「さぁ。甘いものでも食べましょうか」
手にしたバタースコッチブレッドは知り合いの赤子を抱いたときのように柔らかく、力加減が難しかった。目の前の人を見習い、上品に一口ずつちぎって食べるが慣れていないせいでポロポロと落っこちてしまう。
それでもなんとか上手に食べ進めることができ、紅茶を一口啜る。ほんのりと茶葉が広がる風味と同時に歯がいつもより鋭いような。そんな気がした。
オリーブを託して 宵月乃 雪白 @061
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