体感38度の腕の中
ごんのすけ
体感38度の腕の中
(ああ、父さまが何をしたというの)
薄汚れたフードを目深に被った少女は、中央広場の真ん中に見せしめとなって久しい遺体を遠巻きに眺め、静かに涙を流した。
少女の──プロセルフィナの無辜の父に、善悪の区別もつかぬような幼子たちが石を投げて笑っている。足に当たったから一点。頭に当たった、三点だ。あんなに細く伸びた首に当たったぞ、十点だろう。無邪気に死を冒涜する子どもたちを、大人は誰も咎めない。それどころか笑って、いいぞと囃し立てている。
きつく握った拳が熱い。噛み締めた唇が熱い。心にある開けぬ冬を吹き飛ばすほどだった。
プロセルフィナがいよいよ声を上げて泣きそうになったとき、体はそっと暗がりへと引き込まれた。
「お嬢様。いまはどうか、耐え忍んでください」
耳元で聞こえる掠れた声に、己を包むその腕に、プロセルフィナはさらに唇を噛んだ。彼女の、鋭さのない歯によってすら肌が食い破られようとしたとき、かさついた指先が唇を撫でる。慰めるように。
「自分を傷つけるのもおやめください。どうか……。代わりに、俺の指でも腕でも噛むといい」
上唇の奥、歯列に丸い硬さが触れた。プロセルフィナは、どうしても、言われたままにする気持ちにはならなかった。彼を──己の唯一の味方を、こんな理由で傷つけたくはなかった。だから、彼の腕を掴んだ。縋るように、けれど爪を立てることのないように。
「……なぜなのですか。どうして、どうしてなの、アイドネウス。どうして、こんな仕打ち……」
どうして。それだけが、いまのプロセルフィナの胸にある。どうして優しい父が、領民に献身をささげる良き侯爵であった父が、あのようにされる。
いまでもはっきり思い出せる。領地から王宮へ、あの遠く咲き誇る春の宮殿へ向かう馬車での父の言葉。
『プロセルフィナ、大丈夫。きっと何かの間違いだ。陛下は何か勘違いをしていらっしゃるのだよ』
父の、そしてプロセルフィナの目の前で斬首された母が、その前日に地下牢で寄り添いながらくれた言葉。
『大丈夫。父さまも母さまもついておりますからね……』
父も、母も、そしてプロセルフィナも。いまだに何が起きているのかわからない。
どうして我々が国家転覆など。この春の国で、王家に尽くし、民に尽くしたイルクヴァハール侯爵家が、そんなことを企てる故などないというのに。
必死になって声を殺し咽び泣くプロセルフィナに、影の従者アイドネウスはきつく腕に力を込めた。様々な感情を殺した幽かな声で、「離れましょう、お嬢様」と呟いた言葉にプロセルフィナは、いまだ響く凌辱の音を聞きながら、小さく頷いた。
***
王都のはずれ。貧民街すら遠い場所。冬の国との戦争の跡が直されることなく残る廃墟群。その片隅で、プロセルフィナは小さくなりながら、たったひとり震えていた。
春の国の癒えぬ傷であるこの廃墟の周辺は、もたらされた呪いによって、常に冷気を纏う。故に春の国のひとは貧民ですら寄り付くのを嫌う。けれどしかし、焚き火をすれば煙で誰かが寄ってくるかもしれない。だから、熱源は小さく短い蝋燭の頼りない揺らぎだけだった。
貧民の纏うようなボロ切れのエプロンドレスでは、その上にいくつか羽織っていたとしても非常に堪える気温だ。プロセルフィナはときどき、その小さな火を絶やしてしまわないよう気をつけながら指先の暖を取り、アイドネウスを待った。
「お嬢様。アイドネウス、ただいま戻りました」
プロセルフィナに防寒具の全てを預けて行った彼は、その軽装を血で染めていた。手には下処理がされた肉がある。いまでこそプロセルフィナにもその肉塊が兎のものであるとわかる。
「アイドネウス。おかえりなさい」
立ち上がって腕を広げる。アイドネウスは眉を寄せ目を伏せた。凍える風が、彼の夜色の髪を揺らした。
「お嬢様。……俺は汚れております」
「お願い、アイドネウス。どうか」
「俺は、……俺に、お願いなどと……おやめください」
そう言いながらもこちらへ来てくれたアイドネウスを抱きしめようとしたところで、フードが脱げた。溢れだす薄金の髪が風に舞う。
首元に額を寄せると、彼はプロセルフィナにフードを被せ直した。
「こんな場所ですが、誰が見ているともわかりません。お嬢様の春風色の髪は、その素性を誰にも察させるにあまりある。どうかお気をつけを」
「そうね……ありがとう、アイドネウス」
「俺はイルクヴァハール家の影にございます。俺のする全てのことに、礼など必要ございません」
「……それでも、ありがとう」
身を離したとき、プロセルフィナの服には赤がいくつか移っていた。それを静かに撫でて、彼女はまた硬い床へと腰掛けた。
兎肉をナイフで薄く切り、丁寧に炙ってくれたのはアイドネウスだ。プロセルフィナはそれを少量食べ、残りは全てアイドネウスへと与えた。ここでじっと待つしかできないプロセルフィナと違って、アイドネウスは様々な物を集めにゆかねばならないから。
「お嬢様はもう、死んだものと思われております」
風を遮るように座るアイドネウスは低い声で言った。詳細を言いあぐねる彼を目線で促して、プロセルフィナは膝の上で祈るように指を組んだ。
「……真っ先に、お嬢様のドレスを端切れにして数枚売ったのが、良かったのかもしれません。そのとき……、俺が言った言葉も」
目の前の男によって地下牢から救い出された夜を思い出す。
「どのようなことを?」
「お嬢様は知らずともよいのです」
「そう……」
貴族としての教育はあれど危機なく大切に育てられたプロセルフィナとて、想像はできる。けれどアイドネウスが知らずとも良いと願うのなら、口に出して確認はしない。
「──何故、このようなことになったのか……わかりましたか?」
常に鋭い双眸は、揺れて床を睨む。
「申し訳ございません。お嬢様をこのような場所に縛り付けて、なのに俺は深くまでを探ることができませんでした」
「謝らないで、アイドネウス」
「ですが……ですが、味方をひとり、見つけることはできました」
「! それはいったい?」
「晩春の隠者」
黒い目は力強くプロセルフィナを見つめた。
「あなた様の、大叔父様です」
満月が導くように、闇を切り裂きふたりを照らした。
***
晩春の隠者。
キロン・イルクヴァハール。
プロセルフィナが産まれる遥か昔、春の国と冬の国との戦争で手柄を立てた男。前王の参謀として、その頭脳を用いて、予言者じみた采配を奮ったという。その後、彼は弟──プロセルフィナの祖父に家督を譲り、既得権益の全てを捨て、王国の辺境に土地をいただき、外界との接触を全て断って隠居したという。プロセルフィナも、物心ついてからは会ったことすらない。
そんな彼の居城が、白い息に霞んで向こうに見える。
男爵の住まいですらもっと豪奢な屋敷だろう。
「は、あ……」
「もう少しです、お嬢様」
夜通し歩いた。冬の国との国境近いここまで、ずっと。雪すらちらついている。春の国中央では見られないものだ。
門までやっと近づいて、ぼんやりとランタンが揺れるのが見えた。少しずつ大きくなるその光は、質素な、けれど暖かそうな服の男が持つものだったようだ。プロセルフィナは身を固くし、前をゆくアイドネウスの服を握った。硬い手のひらに宥められて、やっと息ができている。
「誰だ」
アイドネウスはナイフを隠し持ちながら低く固い声で誰何する。対する男はランタンを持たぬ方の手を広げる。敵意がないことを示している。
「旦那様がお待ちです。どうぞ、こちらに」
警戒ひとつない背中を見せて歩く男に案内されて、プロセルフィナたちは暖かな書斎にいた。暖炉には魔法の炎が灯っていて、天井に吊るされた魔力石はその光を柔らかく増幅させ四方を囲む書棚を照らしている。それでも、芯まで凍えきった体には熱が足らない。顔には出さずに耐えていると、ふわりと肩に温かいものが乗った。ソファの後ろに控えるアイドネウスの上着だ。服越しに微かに触れた手の熱を逃さないように、己の手を添え目を伏せる。
ここは本当に安全なのだろうか。
小さくかぶりを振って、不安を押さえつける。アイドネウスが嘘をつくはずがない。それにだ、もしも彼がプロセルフィナを陛下の前に引っ立てて金や地位を求めたいのなら、もっと簡単にできるだけの時間も隙もあったのだ。
(でも、もし彼が街で集めた情報が罠だったとしたら?)
大叔父を頼る、と。彼は安全な人間である、と判断するにいたった根拠はアイドネウスが食料と共に集めた情報だった。街なかの噂話から始まって、貴族家の下男下女の言葉を集め、そして断片たちは、『隠者キロンはイルクヴァハール家の断絶に立腹だという。彼は先般、この国にもはや春が訪れることはないと陛下への手紙で予言した』という形を作った。
扉の向こうから、からからと音が聞こえた。歯車というには軽い音だ。次いで扉が開いた。プロセルフィナは弾かれるように立ち上がった。
「よい。座っておりなさい」
従者に車椅子を押させるこの白髪の老人。
「……大きくなったのう、プロセルフィナ」
痛ましそうにこちらを見つめる彼こそが。
「キロン、大叔父さま……?」
「さよう。わしがキロン・イルクヴァハールじゃ」
大叔父の従者は彼をプロセルフィナたちの向かいに据えると、静かに礼をして書斎を退出した。
「酷く……辛い思いをしたね、プロセルフィナ」
その深い声に、プロセルフィナは小さく瞳を揺らし瞬きを多くして涙を身のうちに留めた。
「ここは安全だ。安心なさい」
「本当に安全なのですね、キロン様」
鋭く問うたのはアイドネウスだ。本来は口など挟める身分ではない彼がそれでも口を開いたのが、自分のためであることをプロセルフィナは知っている。
「おお、アイドネウス。我が弟の選んだ刃よ。わしは嘘はつかぬよ。安全だとも……現王が、盟約を違えぬ間はの」
付け足された言葉に、アイドネウスのざらついた気配が濃くなった。これは、そう。殺意だ。
「大叔父さま。盟約とはどのようなものなのですか?」
「不可侵。前王に別れを告げたあの日、わしは、わしの命の続く限り、どのような要件であろうとも王家の遣いがこの家の敷居を跨ぐことはないと誓わせた。破られた暁には、わしは国を出る。全てを……そうとも、わしの持ち得るすべてを、他国に引き渡す、と。前王は全てを深く理解した上で、子息にも引き継ぐと言っておられたが……ちと、遅かったようじゃな」
浅く目を閉じ開いたキロンは憂うように、失望したように息をついた。
「──故に、時間は少ない。追手は迫っておる」
大叔父はどこまでも先を見つめている気がする。プロセルフィナには見通せない場所まで。その深謀遠慮に追いすがることもできず、プロセルフィナは『いま』の疑問を口にした。
「どうして父と母が、あのようなことになったのか、大叔父さまは存じておられますか」
「前王が何故逝去したか、お主は知っておるかね」
問いへの答えとは到底思えない言葉だ。霞を相手にしている気分になりながら、プロセルフィナは困惑を隠し答えた。
「ご病気をなさったと」
「あれは病などではない」
「では、なんであると大叔父さまはお思いなのですか」
「毒じゃよ、プロセルフィナ。王は……我が王は、毒殺された」
「そんなはずはございません。前王陛下は民に愛されておりました。そのような企て」
「陛下が口にするものは全て毒味される。……果たして、本当に全てであったのか?」
大叔父の言葉にプロセルフィナは答えられない。
前王の死去は彼女が産まれる少し前の出来事だ。伝え聞いた話しか知らない。現王の幼少のみぎりに病に伏せ、回復することなく亡くなったのだと、それしか知らない。
そもそもイルクヴァハール家は小さな王子の戴冠の儀のあとから王政に深く関わらぬようになっていた。前王の遺言であると、いままでの忠節への報いとして幾ばくかの領土をいただき、以降は政の場に出ることはなくなった。
「キロン様。時間は少ないとおっしゃったのは貴方です」
「そうじゃな、アイドネウス。そのとおりじゃ。……王の口にするものは全て毒味される。しかしそれは果たして、彼の子息がその手で作って手渡すものでさえもそうであったのじゃろうか? そしてその子息は、たったひとりでそれを作るのじゃろうか?」
息をのむプロセルフィナに、キロンは首を振った。
「否、じゃ」
「それでは大叔父さまは、陛下の側に敵国の手のものがいると、そうおっしゃるのですか! そんな、そんなこと……それでは、王の身が」
己の父母を殺める指示を出したのが現王であると、その耳でその言葉を謁見の間で聞いたとしても、それでもプロセルフィナにとって王を、春の国を案じずにはおれない。
冬の国との戦争がまた始まる。いや、始まることすらなく、春の国は吹雪に蹂躙されるやもしれない。民はどうなる? イルクヴァハール家の出発を心配そうに送り出してくれた、我が無辜の領民はどうなる?
「……秋の国へ、できる限りの民を逃さねば。大叔父さま。どうか、どうかお願いします。大叔父さまから王家へ連絡すれば、それならば」
青い顔のプロセルフィナに、キロンは首を振った。
「秋の国じゃよ」
「なに……」
「前王の誅殺は、秋の国によるものじゃ」
「そんなわけはございません。同盟国ではありませんか。我らと同じように、冬の国に苦しめられた同盟国です。そのようなこと」
「時間がない。手短に──けれど余すことなく、知らせよう。冬の国との戦争の真実を。この国ではわしと、弟と、前王しか知らぬ事実を」
キロンによって──当事者によって語られた真実は、到底理解できないものだった。
「秋の国は、全ての豊穣をその手に得ようとしておる」
かつて。四季がそれぞれの国へと神から下賜される前。
国には流れゆく四季があり、四季は神のものであり、全てはひとつであった。国という言葉もなく、等しく神の民であった人々の中に、悪魔がひとつやってきた。
彼、もしくは彼女は、人々を唆してまわった。
豊穣を独り占めしたくはないか、と。
悪の芽が育ち、膨れ上がり、戦乱に堕ちた人々を憂いた神は、民を四つに分け、それぞれに春、夏、秋、冬を授けたという。良き人々に春、夏、秋を。悪しき者共に、冬を──と。キロンが語ったのは、春の国の人間ならば誰でも知っている神話だった。
本当は、違うのだという。
悪魔は神の遣いであった。
『試し』であったのだ。
悪魔は神へと報告した。彼らはすぐに堕落したと。芽が見えたのはひとくくりだけであると。神は、他者を脅かして収穫を奪い合ったものたちに、そのようなことをする必要がないようにと、収穫の季節である春、夏、秋を与えた。
他者を傷つけず、寄り添いあい、分け合ったものへ、その身を律する心を信じ、そしてそれが他のものにも向くことを信じ、加護と共に冬の季節を託した。
悪であるとこの世のすべてが信じてやまない冬の国こそが、神の信頼を得た唯一であるのだ、と。
「だからって……そんな……」
「これは前置きじゃ」
先の戦争の真実は。
冬の国と、春の国を唆した悪魔は。
「冬の国に、春の国が堕落したと囁いたのは、秋の国じゃ。春の国に、冬の国が攻めてくると伝えたのは、秋の国じゃ。全ては、裁定者の力を弱め、春の豊穣をその手にするため、秋の国が企てたことであった。わしのこの目──未来を見通す力を持ってしても、最後まで気づけぬほど、巧妙に」
戦争が終わるほんの少し前、キロンは事実にやっと気が付き、王へ進言し、冬の国の女王との密談の場を整えた。その場にいたのは、冬の女王、春の王、キロン、そして、プロセルフィナの祖父だけであったという。
キロン殿の未来視だけでは秋の国への足がかりには弱い。だから、こうしよう。
案を出したのは女王だったという。
冬の国は此度の戦争に敗北する。弱くなったと、そう見せる。秋の国は古書を読み解き、過去を掘り起こすのを得意とする。神代の遺跡すら見つけてるだろう。我が国へ贈られる神の加護の事実──四つに分かたれている間だけ拝領する力であることには秋の国の王も気づいているはずだ。
だから我が国が攻め入られるのは、四季がまとまるその最後だ。その前に、貴国に手が伸びるはず。春の王よ。やってくれるか。身のうちに潜り込んだ秋の手先を、捕えてくれるか。
前王陛下は、覚悟を持って頷いたのだという。
「現王は唆され、盟約を破りきっとわしも殺すだろう。そして君のことも、死んだなどとは思ってはおらぬ」
「……それは……どうして」
やっと言えたのはそれだけだった。
「春の国を、春たらしめているのはイルクヴァハール家なのじゃ。イルクヴァハールは秘匿された巫覡の家系。わしのように未来が見える者、豊穣を司る者、神と対話できる者──そういった力をもつものを数多に輩出している。これは王家に伝わる古文書にしか記されておらず、その力を持つものがいる限り、王の戴く冠の宝珠は輝きを失う。全てが絶えれば宝珠は光り輝き、新たな巫覡が己に触れるのを待つようになる」
キロンは厳しい顔をした。
「そして、その宝珠は、春の国の民だけを選ぶわけではない。巫覡の才さえあれば、そのものへと継がれる。──王家に入り込んだ秋の国の手のものは、恐らくそのためにいる」
よろりとキロンが立ち上がった。プロセルフィナの肩に柔らかく手を置いた。
「よいか、プロセルフィナ。冬は敵ではない。かつて四季が巡っていた頃、冬は春の母であった。峻厳な振る舞いの内側で、固く冷たい雪と氷の下で、春を育む母であった。冬の国は、我らの唯一の味方なのじゃよ」
頷きたかった。けれど、頷けなかった。そんなこと。信じられるわけが。
「プロセルフィナ」
キロンの言葉と共に扉が開く。荷物と防寒着を抱えた従者が立っている。
「冬の国へ行きなさい。この──指輪を携えて、おゆきなさい」
頷きたくなかった。けれど、頷く他なかった。
***
国境近くに大叔父の住処があったとしても、冬の国は遠い。吹きすさぶ吹雪を防壁に、峻厳の国はあるのだ。
深い森には獣の姿すら少ない。ゆく道も白に覆われ、前を歩くアイドネウスは泳ぐように雪をかき分けてくれているが、それでもプロセルフィナには辛い道のりだった。
巨木のうろや凍った洞窟を見つけては、そこで身を休める。何度も何度も繰り返す。昼は真っ白に、夜は真っ暗になる道を、指輪の指し示す方向を頼りに必死で歩く。
何度目かの夜が来た。
キロンから与えられた食料をやっと食いつなぎ、か細い焚き火を囲む。
寒い。とても、寒い。震えが止まらないプロセルフィナは、青い唇でアイドネウスを呼んだ。
「お願い、アイドネウス」
いつだって、躊躇いが見えた。最初に「もう死んでしまいそうだ」と脅したのが脳裏をよぎるのだろう。最後には、腕を広げてくれる。
プロセルフィナは彼の足の間に座り、胸板に自身を預けた。
そう年も身長も変わらないはずだ。なのにアイドネウスはプロセルフィナをしっかりと包んでくれる。
(出会った頃は、私と同じくらいに細かったのに)
本来、イルクヴァハール家に影などない。向かい来る敵は使用人が打ち倒していたし、他の貴族のように影を使って暗殺せしめたいような後ろ暗いことは、なにもなかったからだ。
けれど、ある日のことだった。祖父が王都の片隅で拾ったのだと、薄汚れた子供を連れ帰った。
きっと自分で整えた結果なのだろうが、黒い髪は長さを疎らにしてボロボロだった。布切れは酷く臭うし油汚れが酷い。何より、目。暗く、光のひとつもない。
祖父が使用人に頼むことなく手ずから風呂に入れて整えてやった頃には、その細さが目立った。幼児のふくよかさは欠片もない。祖父が父母を連れて部屋の隅へ向かったとき、漏れ聞こえた「冬の国」の言葉に、彼はきっと、お祖父さまの参加したという戦争で、親を冬の国に殺されてしまった子供なのだと、プロセルフィナはそう思った。だから、優しくしなければと、──大叔父の話を聞いたいまは、別の可能性も浮かぶけれど──とにかくそのときは、そう思ったのだ。
彼が心を開くのにそうはかからなかった。プロセルフィナは使用人に何を言われようと、彼を──アイドネウスを優先した。それは、彼が影として、祖父から直々に指南を受けるようになっても、……プロセルフィナが、到底許されぬ想いを胸に宿しても、変わらない。
アイドネウスの腕の中は熱いくらいだった。流行り病で大熱を出したときと同じくらいに、熱い。プロセルフィナは心臓が早鐘を打つのを感じた。身を固くして、場違いにも寒さ以外で身を震わせていると、すぐ近くで低い声がした。
「お嬢様。……プロセルフィナさま」
彼は、プロセルフィナの名を呼ばない。いくら呼んでくれと言っても、呼んでくれない。
──こうして寝たふりをしているとき以外は。
初めてのときは、幼い頃。木の下で本を読みながら、寝てしまったとき。いまよりも音低くない足音に覚醒して、けれど目を開けることを煩ったあの日。
「プロセルフィナさま。俺はあなたを守ります。大旦那様に拾っていただいたこの御恩を、俺は忘れてなどいない」
(お祖父さまのためだけに?)
知らぬうちに目元が濡れた。流れ落ちるそれを硬い指先が払い、次いで流れるひと粒は、熱く柔らかなものに静かに食まれて消えていった。
熱い。とても、熱い。
苦しかった。悲しかった。プロセルフィナは、己を恥じた。彼の腕の中に眠れるこの状況を、かけらでも喜んだ自分を。
「……プロセルフィナさま。誰より温かな春のおひと。この身に変えてでも、俺はあなたを、──、」
言い淀んだ言葉が飲み込まれたのが、残念で仕方ない。
「──あなたを、守り通して見せます」
きつい抱擁。身のうちから湧き上がる想い。許されざる熱さ。
初めての感じるこの冬が。
春の国にはなかった冬が。
全てを丸裸にして鋭く突きつけてくる冬が、プロセルフィナは大嫌いになった。
体感38度の腕の中 ごんのすけ @gonnosuke0630
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