ライフイズストレンジ(Life is Strange)

chisyaruma

第1部:サナギ(Chrysalis)

世界は轟音に包まれていた。


 意識が浮上するよりも先に、冷たく湿った感触が全身を支配する。頬にへばりついているのは泥だ。腐敗した落ち葉と、雨に濡れた土の匂い。そのさらに奥から、海そのものが死んで打ち上げられたような、鼻腔を突き刺す生臭い風が吹き抜けていく。  私は大きく咳き込みながら、鉛のように重たい身体を起こした。  視界が明滅する。瞼の裏に焼き付いている残像と、目の前の現実が混ざり合い、焦点が定まらない。 「……なに、これ」  掠れた声は、すぐに風の咆哮にかき消された。


 そこは、私の知っているアルカディア・ベイではなかった。  空が割れている。そう表現するしかなかった。頭上を覆う厚い雲は、通常の気象現象を逸脱した不吉な回転を続けている。灰色と黒の絵の具を無造作に混ぜ合わせたような空が、巨大な漏斗(ろうと)となって海面へ垂れ下がっていた。  巨大竜巻。  カテゴリーいくつかなんて想像もつかない。視界の端で、樹齢百年はありそうな巨大な杉の木が、まるで爪楊枝のようにへし折れ、虚空へと吸い込まれていくのが見えた。  激しい雨粒が礫(つぶて)のように肌を打ち据える。パーカーはずぶ濡れで、寒さが骨の髄まで浸透していた。  逃げなければ。  本能が警鐘を鳴らす。高い場所へ。ここよりも少しでも高い場所へ。


 私は泥濘(ぬかるみ)に足を取られながら、崖沿いの獣道を這うように登った。足元の岩場は雨で洗われ、油を塗ったように滑る。爪の中に泥が入り込み、膝を擦りむく痛みさえ遠く感じるほど、アドレナリンが全身を駆け巡っていた。  呼吸がヒューヒューと鳴る。心臓が肋骨を内側から叩き割ろうとしている。  ふと、視界の隅を何かが横切った。  半透明の、透き通るような幽玄な姿。  ――鹿?  雌鹿だ。嵐の中だというのに、彼女だけは重力からも恐怖からも解放されているかのように、静かに私を見つめていた。その瞳は深く、悲しげで、何かを訴えかけているようにも見えた。  手を伸ばそうとした瞬間、彼女は煙のように消え失せた。


 幻覚を見ている暇はない。私は最後の岩場をよじ登り、頂上へとたどり着いた。  そこには、見慣れたアルカディア・ベイの象徴が鎮座していた。錆びついた白い灯台。古き良き時代の遺物。  だが、そこから見下ろす街の風景は、地獄絵図そのものだった。  波が防波堤を易々と乗り越え、愛すべき寂れた海岸沿いのダイナーを、ガソリンスタンドを、人々の営みを、無慈悲な灰色の壁となって飲み込もうとしている。  誰か。誰かいないの。  叫ぼうとした喉が引きつる。あまりにも圧倒的な破壊のエネルギーを前に、ヒトという存在はあまりにも無力で、ちっぽけだった。


 ――ギギギ、ギギ……。


 不快な金属音が、風切音の隙間を縫って鼓膜を震わせた。  見上げると、灯台の頂上が揺らいでいた。  限界を迎えたのだ。何万トンもの鉄とコンクリートの塊が、基部から悲鳴を上げ、亀裂が走る。スローモーションのように、ゆっくりと、しかし絶対的な質量を持って、巨大な円筒が私の方へと傾いてくる。  影が落ちる。  逃げ場はない。  押しつぶされる。  死ぬ。  恐怖よりも先に、奇妙な諦念が頭をよぎった。これが終わり? 私の人生は、何ひとつ成し遂げられないまま、この暗い嵐の中で幕を閉じるの?  私は反射的に右手を掲げた。レンズのないカメラで、最期の瞬間を切り取るかのように。あるいは、迫りくる死をその手で押し留めようとするかのように。


 巨大な質量が、私を押しつぶす寸前――世界が白く弾けた。


「――アルフレッド・スティーグリッツ。君たちは彼の名を聞いたことがあるだろうか?」


 不意に、嵐の音が断ち切られた。  代わりに鼓膜を打ったのは、洗練されたバリトンの声と、穏やかな空調の駆動音だけだった。  私は弾かれたように顔を上げた。  激しい目眩。世界が回転している。  冷たい雨も、腐敗臭も、崩落する灯台もない。  そこにあるのは、午後のけだるい陽光が差し込む教室と、漂う埃、そして独特な現像液の匂い。  ブラックウェル高校、写真学科の教室。  私は机の縁を強く握りしめた。指の関節が白くなるほどに。爪の間に入り込んだはずの泥はない。パーカーも乾いている。 「はっ、はっ……」  浅い呼吸を繰り返す。心臓の早鐘だけが、先ほどの恐怖が現実であったことを訴えているようだった。  夢? あれほど鮮明な感覚が?  私はこめかみを指で押さえ、周囲を見渡した。クラスメイトたちは、それぞれの倦怠感という殻に閉じこもり、授業を受けている。スマートフォンを隠れて操作する指先、窓の外を虚ろに見つめる瞳、あくびを噛み殺す口元。  誰も気づいていない。私がたった今、世界の終わりから帰還したことに。


「スティーグリッツは、写真という媒体を単なる記録から『芸術』へと昇華させた先駆者だ」


 教壇に立つ男――マーク・ジェファソン先生が、優雅な身振りで教室内を歩き回る。  完璧にプレスされたシャツ、知的な黒縁メガネ、手入れの行き届いた顎髭。90年代の写真界を席巻した彼は、この田舎町のブラックウェル高校において、神にも等しい存在だった。  私がシアトルから故郷に戻り、この学校へ転入を決めた最大の理由。それが彼の授業を受けることだったはずだ。  なのに、今の私の耳には、彼の講義が遠い異国の言葉のように響く。


「彼はかつてこう言った。『私は、そこに在るがままの瞬間に魅了される』とね」


 ジェファソン先生は窓際に立ち、逆光の中でシルエットとなった。その姿さえも計算された構図のように美しい。 「写真とは何か。それは薄い紙片の上に、過ぎ去りゆく時間を永遠にピン留めする行為だ。残酷なまでに正直で、そして哀しいほどに美しい」


 机の上に視線を落とす。そこには私の分身とも言えるカメラ、ポラロイド・スペクトラが置かれていた。  角張った無骨なボディ。今の時代にはそぐわない、時代遅れのインスタントカメラ。  クラスの裕福な生徒たちが持つ最新のデジタル一眼レフや、高性能なスマートフォンに比べれば、ただの骨董品だ。フィルム代は高いし、ピント合わせも難しい。  それでも私はこいつが好きだった。  デジタルデータは嘘をつく。後からいくらでも修正できるし、消去もできる。けれど、ポラロイドは「一回性」の塊だ。シャッターを切ったその瞬間、光が化学反応を起こし、二度とやり直しのきかない「一瞬」が物質として定着する。  修正不可能な過去。それが私にとってのリアリティだった。


「さて、マックス。君はどう思う?」


 不意に名前を呼ばれ、心臓が喉の奥で跳ね上がった。  顔を上げると、ジェファソン先生の射抜くような視線が私に向けられていた。教室中の空気が張り詰める。背中に集まる無数の視線。好奇、嘲笑、無関心。それらが皮膚をチクチクと刺す。  私はマックス・コールフィールド。18歳。写真を撮るときは被写体の魂さえ覗こうとするくせに、自分のこととなると、途端に殻に閉じこもる臆病者。


「え、あ……あの……」


 言葉が喉に張り付いて出てこない。  何か気の利いた答えを言わなければ。スティーグリッツの『等価』シリーズについて? それともモダニズムにおける写真の役割? 知識はあるはずなのに、唇が震えて音にならない。  教室の前方から、クスクスという忍び笑いが漏れた。  ビクトリア・チェイス。  最前列に陣取る彼女は、カシミアのセーターを完璧に着こなし、女王蜂のように取り巻きを従えている。彼女が隣の友人に何かを耳打ちし、嘲るような視線をこちらに投げかけた。  顔が熱い。今すぐ透明になって消えてしまいたい。エイリアンの宇宙船が来て連れ去ってくれればいいのに。


「……ふむ。まあ、いいだろう」


 ジェファソン先生は短くため息をつき、すぐに興味を失ったように視線を外した。失望された。その事実が、胸の奥に鈍い痛みを残す。 「私が言いたいのはこういうことだ。君たちは全員、ポケットの中に高性能なカメラを持っている。一日中、何も考えずに自撮りを繰り返し、SNSという名のデジタルなゴミ捨て場に投棄している」  彼は大袈裟に肩をすくめた。 「だが、そこに魂はあるか? フィルターで肌を滑らかにし、彩度を上げて幸せそうに見せることはできても、その瞬間の『痛み』や『光』を、君たちは本当に捉えていると言えるのか?」


 先生の言葉は鋭い刃物のように、教室の空気を切り裂く。  私は小さく息を吐き、震える手でポラロイドカメラを持ち上げた。  ファインダーを覗く。四角いフレームが世界を切り取る。  黒板の前のジェファソン先生。退屈そうにペンを回す男子生徒。窓の外を横切る鳥の影。そして、机に落ちる自分の影。  カメラを自分の方へ向けた。  自分撮り(セルフィー)。先生が今しがた批判したばかりの行為。  でも、これはSNSのためじゃない。  自分が今、ここにいるという証拠が欲しかった。あの悪夢のような嵐の中ではなく、この退屈で残酷な、でも平和な教室に確かに存在しているという証明が。  レンズの奥の自分の瞳と目が合う。少し怯えていて、隈ができていて、でも何かを渇望している瞳。


 ――カシャッ。


 静かな教室に、シャッター音が場違いに響き渡った。  ストロボの白い閃光が瞬き、一瞬だけ世界の色を反転させる。  数人の生徒が驚いて振り返った。ビクトリアが呆れたように眉をひそめるのが見えた。ジェファソン先生が講義を中断し、私の方を見る。


「……マックス」  先生の声には、呆れと微かな苛立ちが混じっていた。 「授業中に自撮りとは、なかなか大胆な『表現』だな。私が先ほど述べた『魂の不在』に対する、君なりのアイロニカルな回答と受け取っておこうか」


 機械的な駆動音と共に、カメラの前面から黒いフィルムが吐き出された。  ジェファソン先生が説く高尚な芸術論の最中に、自分自身を撮るなんていうナルシスティックな行為。皮肉だ。でも、私は今、自分がここに「存在している」ことを確認したかったのかもしれない。あの悪夢のような嵐の中ではなく、この退屈で、残酷で、でも平和な教室に。


 その時、救いの鐘が鳴った。  ジリリリリリリリリ――!  けたたましいベルの音が、張り詰めた緊張を断ち切る。  椅子を引く音、話し声、教科書を閉じる音が一斉に溢れ出す。生徒たちは解放された囚人のように、我先にと教室の出口へ向かい始めた。  私は深く息を吐き出し、まだ像の浮かばない写真をポケットに突っ込んだ。  終わった。  けれど、胸のざわめきは消えない。  嵐の残像。リアルすぎる死の感触。  何かがおかしい。何かが始まろうとしている。  私は逃げるように鞄を掴み、喧騒に包まれた廊下へと足を踏み出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ライフイズストレンジ(Life is Strange) chisyaruma @chisyaruma

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画