闇の中の約束

南條 綾

闇の中の約束

 旧校舎の三階に上がった途端、雨が降り始めた。

まるで私の心臓の音を嘲笑うかのように、屋根を叩く音が一気に大きくなった。

廊下の蛍光灯がチカチカして、視界が明滅するたびに頭がクラクラする。

暗い、明るい、暗い、明るい……すごく不気味な感じがしてとても嫌だった。

足元に落ちる水滴の音が、なぜか私の鼓動より速く響いて、カツ、カツ、カツって、まるで誰かが後ろから追いかけてきているみたいで、怖くて。

那美がいるから、きっと大丈夫だって言い聞かせるけど、足が震えて止まらなかった。


「那美?」声が裏返ってしまった。

それでも返事はない。

先ほどまで指が絡んでいたのに、指先に残る冷たさが、今はまるで遠くに感じられる。

胸の奥が、嫌な感じで冷たくなっていく。


 その不安が胸を締め付ける。

あの温もりが、すぐ隣に感じられたはずなのに、今はすごく遠くに感じる。


 私はその不安を振り払うように歩き出す。

足音が響く中で、ふと、あの日のことが頭をよぎる。

那美と過ごした冬のこと。文化祭の準備で遅くなり、二人で帰る途中、校舎裏の物置小屋で初めてキスをしたあの日のこと。

 

 あの時も、寒かった。手が冷たくて、私の手を握る那美の手も震えていた。

その震えは、ただの寒さから来ているものじゃないように感じた。

後で「怖かったの」って言われたんだった。

「だって、こんなお化け屋敷の出し物のところでキスだから、少し怖かったの」って笑いながら言われて、お互いに笑ったんだっけ。


 あの瞬間、少しでも私に頼ってくれていたんだと思うと、嬉しさと少しの戸惑いが胸に広がった。

でも、今はその温もりがどこにも感じられなかった。


「……那美、どこ?」


 私はスマホのライトを振り回す。

廊下の奥、開け放たれた教室の扉が、風もないのにゆっくりと揺れている。

その光景に、胸の中に不安がじわじわと広がっていく。嫌な予感がした。

教室の中に足を踏み入れる。

真っ暗で、何も見えない。ライトを向けると、黒板に白いチョークで大きく書かれた文字が浮かび上がっていた。


『綾ちゃん、こっちおいで』


 私の名前だった。那美の字じゃない。那美の字はもっと丸くて可愛い。これ、誰の字なんだろう?

背筋が凍る。何かがひっくり返ったような、心臓が止まりそうな感覚。

足が動かない。目の前の文字が、まるで私を睨んでいるかのように、無遠慮にそこにある。

何かおかしい。頭の中がぐちゃぐちゃになりそうで、体が固まっていく。


 何が起こっているの?


 その不安に押しつぶされそうになっていると、突然、肩に手がそっと置かれた。

まるで背中からじわじわと冷気が広がるような、ぞっとする感覚。


「やっと見つけた」


 振り返る前に、甘い声が耳元でささやく。その声に、背中に広がる冷たさが一層強くなる。

那美だった。ほっとする間もなく、何かが引っかかる。

違和感が、どんどん大きくなっていく。

あんなに好きだった声なのに、今は耳にするたびに、体中の毛が逆立つような感じがする。


「……どうして電気つけないの?」


 その言葉が、何かを変えた気がした。

普段なら、私は暗い方が好きだから、その理由を考えることなく受け入れていたはずなのに。

今はその理由を口にできず、息が詰まりそうになる。胸の奥が冷たく、重くなる感覚が広がっていく。


「だって、綾が暗い方がいいって言ったでしょ」


 無理に答えようとするけど、言葉が喉に詰まる。

何もかもがおかしい。那美が笑っている。でも、その笑顔が白く、唇だけが異様に赤い。まるで、血のように見える。

その赤さが、私を引き寄せるように、引き込まれそうな気がする。

何かが違う。何かが、確実に。


 恐怖が、胸の中でぐるぐる回る。

私の手が震えているのを感じて、ようやく気づく。

足元が定まらない。あまりにも近いのに、どうしてこんなにも遠く感じるんだろう?

心の中で恐怖がうねり、冷や汗がじわりと背中を伝う。

何もかもが変わってしまったような、この不安に満ちた感覚。

那美が近づいてくるたびに、私は後ろに一歩下がろうとする。

私は後ろに一歩下がろうとする。だけど足は、蛇に睨まれた蛙のように動けなかった。


「ねえ、綾ちゃん」


 那美が私の手を握る。冷たい。氷みたいに冷たい。

その冷たさが、まるで私の血が凍るような感覚を与える。

手のひらがじんわりと震えるのを感じるけれど、何も言えない。

心臓が不安で早く打ち始め、呼吸が浅くなる。

でも、どうしてこんなにも冷たいのかがわからない。

まるで手を握られている感覚さえも、現実から遠ざかっていくみたいだ。


「ずっと一緒にいようって、約束したよね?」


 その言葉が、頭の中で何度も響く。

あの時、確かに私たちは、約束した。

心の底から信じていた、あの約束を。

でも今、その言葉を耳にした瞬間、全身が凍りつくような感覚に包まれる。

心臓が締め付けられて、息が詰まりそうになる。怖い。怖すぎる。


「……うん」


 この「うん」が、まるで私の体に命じられたように発せられたことに、今さら気づく。

私は約束を果たすべきだと考えている自分が、どこか他人のように感じる。

恐怖が、冷たい波のように体を包み込み、心臓がますます速く打つ。

体が、まるで自分の意志ではなく、ただその言葉を発するように動いてしまったことが、背筋を冷やすように感じた。


「死んでも、離れないって」


 その言葉を聞いた瞬間、胸が締め付けられる。ゾッとした。

死んでも離れない?そんな約束はしたことがなかった。

そんな言葉を聞くなんて、あり得ない。

恐怖が全身を駆け巡り、血が一気に逆流したように感じた。

心臓が締め付けられて、息ができなくなりそうだった。


 私は手を振り払おうとする。

でも、那美の指はまるで私の骨に絡みついたみたいに離れない。

その冷たさが、指の一本一本に染み込んでいく。

力を入れても、力が入らない。

まるで私の体が他人のものみたいに、自由を奪われているような感覚に囚われた。


「綾ちゃんは知らないんだね」


那美が微笑んだ。その笑顔が、だんだん歪んでいく。

その笑顔が、私の心に深く刻まれる。最初は普通だった。普通の、優しい笑顔だったのに、今その笑顔がどんどん歪んでいく。

胸の奥が、じわじわと冷たくなる。なぜか、笑っているはずなのに、怖くてたまらない。

目をそらしたくても、どうしてもその顔から視線を外すことができない。


「私、もうとっくに死んでるってこと」


 その言葉が耳に届いた瞬間、私の思考が止まる。死んでいる?

それがどういう意味なのか、頭が追いつかない。

心臓が速く打って、鼓動がまるで私を引き裂くように早くなっていた。

その言葉の裏に隠されたものを理解したくない。

理解したくないけれど、私の体はそれを受け入れているかのように、恐怖を深く感じている。


 次の瞬間、教室の電気が一斉に点灯した。

眩しい光が一気に視界を奪い、目がくらむ。しばらく目を開けられなかった。

視界が戻ったとき、そこに立っていたのは、那美ではなかった。


 同じ顔、同じ制服、同じ髪型。でも、首が不自然に曲がり、両目が真っ黒に潰れていた。

その目が私を見つめている。まるで私を引き寄せるように、冷たい視線が私を捕えようとしているのがわかる。

その瞬間、私は息を呑んだ。体が凍りつき、心臓が早鐘のように速く打つ。

恐怖が喉を締め付け、思わず口を開けるが、何も出ない。声が喉の奥で詰まって、ただ震えが止まらない。

体が動かない。動こうとするのに、まるでどこかに引き寄せられるように、ただその「もの」に目を離せなくなる。


 その歪んだ笑顔が私を圧倒し、心臓がさらに速く打つ。

震える足は動こうともしない。

目の前の存在が私に近づくたび、恐怖が全身に広がり、息をすることすら忘れそうになる。


「大好きだよ、綾ちゃん」


 その言葉が耳元で響く。

優しさが感じられるはずなのに、恐怖が胸の奥から湧き上がってくる。

那美の言葉が私の心に突き刺さり、体が震える。

冷たい手が頬に触れ、触れられたその瞬間、心の中で何かが壊れる音がした。

腐った肉の匂いがして、私はその匂いに耐えられず、息が止まりそうになる。


「今度は、綾ちゃんの番だよ」


 私の頭の中が真っ白になり、目の前がぼやけ始める。

目をそらしたいのに、どうしてもその「もの」に引き寄せられてしまう。

呼吸をするたびに、胸の中で何かが締め付けられ、心臓がさらに速く打つのが分かる。

逃げたいと思っても、体が動かず、ただその恐怖に押しつぶされそうになる。


 私はゆっくりと目を閉じた。

好きだった人に殺されるなら、それも悪くないかもしれない。

その思考が頭をよぎった瞬間、首に冷たい感触が走った。

身体が固まったまま、その感覚だけがリアルに感じられる。

最後に聞いたのは、那美のいや、あの『もの』の優しい声だった。


「綾ちゃん、ずっと…ずっと…一緒だよ。ア・イ・シ・テ・ル」


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