一緒にいたい
缶ビールを手に持ったまま、七海ちゃんは、その場でぴたりと固まった。
まるで、時間が一瞬だけ止まったみたいに。
「……え……」
視線が、私とテーブルの間を、行き来する。
さっきまでの落ち着いた表情が、また一段、わかりやすく揺れた。
私はフライパンの火を弱めながら、あくまで何気ない調子で続ける。
「泊まっていくなら、今のうちに洗濯しちゃうから。服、脱衣所に置いたままでしょ?」
七海ちゃんの肩が、ぴくっと跳ねた。
「……あ……はい……」
それから、少し間を置いて、恐る恐る、言葉を選ぶみたいに。
「……あの……泊まって、いいんですか……?」
その聞き方が、あまりにも慎重で。
私は思わず、くすっと小さく笑ってしまう。
フライパンから離れて、七海ちゃんの方へ向き直る。
「いいも何も」
そう言って、軽く肩をすくめる。
「さっきの続き、するんでしょ?」
七海ちゃんの思考が、完全に追いつくまで、ほんの数秒。
それから、じわじわと、顔に熱が集まっていく。
「……っ」
言葉にならない声。
缶ビールを持つ指に、きゅっと力が入るのがわかる。
「……そ、それは……」
視線を落としたまま、でも、否定はしない。
私は、その様子を見て、少しだけ声のトーンを落とす。
「無理に、って意味じゃないわよ。ただ……」
私はそこで、少しだけ間を置く。
「七海ちゃんが、帰りたいなら、ちゃんとそう言ってほしいし。泊まりたいなら、それも、ちゃんと聞きたい」
七海ちゃんは、しばらく黙ったまま。
それから、意を決したみたいに、ゆっくり顔を上げた。
目が合う。
「……泊まり、たいです……」
声は小さいけれど、さっきよりも、はっきりしている。
「……先輩と……一緒に、いたい……」
私は、その答えを、言葉より先に、表情で受け取った。
「じゃあ、決まりね」
そう言って、火を止めて、くるりと背を向ける。
「洗濯機、回しちゃうね」
「……はい……」
七海ちゃんは、まだ照れた表情のまま。
テーブルに缶を置く音が、控えめに響く。
私が脱衣所へ向かうと、洗面台の横に、七海ちゃんが身に着けていた服が、軽くたたまれて、まとめられていた。
下着類をまとめてネットに入れて、ブラウスとかと一緒に放り込み、洗剤を入れて、スイッチを押す。
スーツは、ハンガーにかけておく。
低い音を立てて、洗濯槽が回り始めた。
その音を背中に聞きながら、私はキッチンへ戻る。
フライパンの中のチャーハンは、ちょうどいい具合に仕上がっている。
用意しておいた皿に、手早く盛りつける。
二皿分。
量は、少し多め。
湯気の立つ皿を両手に持って、テーブルへ運ぶ。
「はい、できた」
そう言って、皿を置く。
「いただきましょう」
「……いただきます」
七海ちゃんは、少し緊張が残ったまま、でも、きちんと手を合わせる。
最初の一口を口に運んだあと、七海ちゃんは、少しだけ間を置いてから、言いにくそうに視線を落とした。
「……あの……」
「なに?」
「……下着まで……洗ってもらって……すみません……」
その声が、申し訳なさとはずかしさのちょうど中間みたいで、私は思わず、箸を止める。
「別に、気にしなくていいのに」
そう言ってから、少しだけ言い方を変える。
「服はね、いくらでも貸せるけど……」
七海ちゃんが、きょとんとこちらを見る。
「下着は、イヤでしょ?」
少しの間をおいて、七海ちゃんの顔が、みるみるうちに赤くなる。
「……っ」
否定もしないし、肯定もしない。
ただ、視線がせわしなく、テーブルの上をさまよう。
私は、その反応を見て、くすっと小さく笑った。
「でしょ?」
そう言ってから、七海ちゃんの方を、あらためてじっと見る。
部屋着の布越しに、身体の線がわかる。
「そもそも……」
口に出してから、少しだけ間を置く。
「上は、入らなさそうだしね」
「……え……?」
一瞬、意味がわからなかったみたいに瞬きをしてから、七海ちゃんは、はっと自分の身体に視線を落とす。
そして、また赤くなる。
「……あ……」
「無理よ、私のサイズのじゃ。さっきも……確かめたけどね、この手で」
さらっと言うと、七海ちゃんは、ますます居心地が悪そうに身をすくめた。
「……す、すみません……」
「謝らなくていいってば」
私は、何気ないふうを装って、七海ちゃんの胸あたりに向けていた視線を、少し下げていく。
「……で。用意して置いたショーツは、ちゃんと入った?」
一瞬。
七海ちゃんの動きが、完全に止まった。
「……っ」
言葉が出てこないまま、視線だけが、テーブルの端から端へと忙しく泳ぐ。
耳まで、見る間に赤くなっていくのがわかる。
私は、その反応を逃さずに、少しだけ首をかしげる。
「あれ? 答えられない?」
「……あ……その……」
声が、かすれる。
でも、最後まで言葉にならない。
私は、軽く笑って、追い打ちをかけるでもなく、さらっと続けた。
「じゃあ、そっちも後で、ちゃんと確認してあげる」
その一言で、七海ちゃんは、文字通り、真っ赤になった。
「……っ、ちゃ、ちゃんと……はいてます……!」
あわてて言い切るその声が、少し裏返っている。
私は、思わず口元をゆるめる。
「よかった」
それだけ言って私は、またチャーハンに手を伸ばす。
七海ちゃんは、まだ落ち着かない様子で、それでもスプーンを持つ手は止まらず、やがて、小さく息を吸ってから、ぽつりと言った。
「……ちゃんと……お返し、します……」
「なにを?」
「……その……下着、です……」
私は一瞬だけ目を
「いいわよ。ちょうど、新品の買い置きがあっただけだから」
「……でも……」
七海ちゃんは、真面目な顔のまま、続ける。
「……お金ができたら……ちゃんと、新しくて……いいパンツ、買いますから……」
その言い方が、あまりにも一途で、律儀で。
私は、少しだけ声をやわらかくした。
「そのときは、そのときでいいわ」
そう言って、七海ちゃんの方を見る。
「今は、ちゃんとはけてるなら、それで十分」
七海ちゃんは、また、小さくうなずいた。
「……はい……」
さっきよりも、ほんの少しだけ、安心した顔で。
その仕草が、なんだかとてもおかしくて、でも、かわいくて。
テーブルの上には、湯気と、軽い油の香り。
洗濯機の回る音が、遠くで一定のリズムを刻んでいる。
さっきまでとは違う、生活の中の時間。
「……こんなにおいしいチャーハン、さっと作っちゃうなんて……先輩って、やっぱりすごいですね」
落ち着きを取り戻してきた七海ちゃんが、スプーンを口に運びながら、そう言った。
少し前までの緊張が、ようやくほどけてきたのか、声の硬さも薄れている。
「ん? これ?」
私は自分の皿を見下ろしてから、肩をすくめる。
「冷凍を、
「え……?」
七海ちゃんは、ぱちっと目を
「冷凍……なんですか?」
「そう。市販の」
「……冷凍って、レンジで温めるだけじゃないんですね……」
その言い方が、妙に感心したみたいで、私は小さく笑ってしまう。
「レンジでもいいけどね。でも――」
スプーンを持ったまま、少しだけ説明する口調になる。
「フライパンで、ごま油をほんの少し足して炒めたほうが、香りが立つし。ガスなら火力もあるから、ほら、こう……」
私は、空中で軽くフライパンをあおる仕草をしてみせる。
「余分な水分が飛んで、パラパラに仕上がるの」
「……へえ……」
七海ちゃんは、皿の中のチャーハンを、改めてじっと見つめる。
「同じ冷凍でも……私がいつも食べてるのとは、全然、違います……」
「そう?」
やっぱりガスの火が――と言いかけて、私は、ふと手を止めた。
――ああ、そうだ。
一瞬、別の記憶が重なる。
この部屋を決めるときのこと。
内見で、まだ何も置いていなかったキッチンに立って、ガスコンロを見下ろして。
ガスが使える部屋がいいって。
譲れない条件みたいに、誠にねだったのは……私だった。
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