第五射出口

yoquota

第1話

月面・珪鋼採掘区 第七分域 マスドライバー第五射出口


クレーターの縁が先に白んだ。

まだ太陽そのものは見えないのに、斜面の上部だけが薄く光を拾いはじめている。

その光はゆっくりと斜面を降り、レールの上端──射出口の外殻を淡く照らした。

金属が朝の色を受け取って、輪郭だけが静かに浮いた。


射出口から少し下った斜面に、整備員の足元があった。

足元に沿って影が細くのび、粉じんが光を受けてわずかに白く跳ねた。

クレーターの底はまだ夜のままで、斜面との境目が少しずつ解けていく。

光の速度より、朝が広がる速度のほうが遅く感じられた。


整備員はレール脇の支柱に手を伸ばした。

斜面に沿って組まれた支柱は夜の冷たさを残し、表面の温度はほとんど変わっていない。パネルの継ぎ目を確認しても、真空では触感が消えてしまう。

何かに触れているという事実だけが、手袋越しに薄く伝わった。


腰の端末が短く震えた。

今朝の点検項目を示すだけの、いつもの合図だ。

レールの許容誤差は広く設定されている。それでも、彼の目には斜面方向へわずかに傾いた支柱が気になっていた。


光がさらに降りてきて、彼の影を少しだけ短くした。

朝が完全に届く前の、この薄い時間がいちばん静かで、いちばん何かを見逃しやすい。


整備員は支柱の基部に小型の磁気レベルを当てた。

角度の表示が薄く浮かび上がる。

数値は許容範囲内だ。問題はない──はずだった。


昨日の値と比べると、わずかに傾きが増していた。

数値にすると大した差ではない。誰も気にしないし、報告しても「経年変化」で流される。

それでも、彼の感覚には引っかかった。

斜面方向への荷重がほんの少しだけ偏っている。

それは数日前にもあった変化で、今日の値はその延長線上にある。


彼は端末にメモを残し、支柱の継ぎ目をもう一度指先で確かめた。

接合部に浮きはない。レールの外装にも歪みは見えない。

ただ、“何かのせいでそうなっている”気配だけが残っていた。


斜面のさらに上、射出口の外殻が光を返した。

太陽がほぼ縁まで上がってきたのだ。

レールの先端部は、朝の光でわずかに膨張する。

その微細な熱の変化が、この偏差に関係しているのかもしれない。

だが、それだけでは説明しきれない感覚があった。


彼は磁気レベルをしまい、斜面をもう少し上へ向かった。

光が射出口の影を短くしていく。

今日の最初の発射まで、あと十分もなかった。


射出口の背後で、補助磁軌が一つずつ点灯した。

淡い光がレールの上端を走り、きわめてゆっくりと下へ流れていく。

試運転のシーケンスだ。

音はないのに、列をなして点灯する光だけで、空気がわずかに締まる。


整備員は斜面の上部で再び立ち止まり、支柱の角度を目視で追った。

近くで見ると、継ぎ目の線がわずかに片側へ寄っている。

磁気レベルの数値よりも、その“寄り方”が気になった。

数字より、景色のほうが正直に見える瞬間がある。


端末に反射した光が強くなり、レール上を小さな白い点が走った。

供給側から、今日最初の貨物の軌跡だ。

まだ射出口の手前で減速しているが、

その通過に合わせてレール全体がわずかに熱を帯びていく。


熱膨張が偏差を増したのか──

彼はもう一度だけ目視で斜面のラインを測った。

支柱の頂点が、さっきよりわずかに外側に寄って見えた。


規格内だ。

規格内ではある。

でも、この位置での“規格”を誰が本当に理解しているのか、ふと考えた。


射出口の陰影が短くなる。

太陽が完全に縁から抜けた。

発射まで、もう数分だった。


警告灯が射出口の縁で一度だけ点滅した。

無音の合図に、整備員は斜面の側面に体を寄せる。

すぐ下で補助磁軌が順に点り、光の列が射出口へ向かってしぼられていく。


貨物が通過する振動は、月面ではほとんど伝わらない。

それでも、足裏には確かに何かが“通った”気配が残った。

一瞬だけ、斜面がわずかに緩んだような──

あるいは、レールの全体が深く息を吐いたような感覚。


次の瞬間、支柱の継ぎ目が光を拾った。

その線は、さっきまでよりまっすぐに見えた。

整備員は思わず磁気レベルを取り出し、基部へ当てた。

数値は、昨日と同じだった。


偏差が、戻っていた。


熱のゆらぎか、貨物の通過で応力が抜けたのか、

それとも最初から測り損ねたのか──

理由はいくらでも挙げられる。

どれも正しそうで、どれも決め手にはならない。


ただ支柱は、今は規格通りに立っている。

その事実だけが、静かにそこにあった。


射出口の奥で光がふっと消え、

斜面に朝の静けさが戻った。

整備員は端末に短いログを残し、ゆっくりと斜面を下りはじめた。


斜面を下りきるころには、光がクレーターの底にまで降りていた。

影は短くなり、さっきまで気になっていた継ぎ目の歪みも、

朝の均一な明るさの中ではどこにも見当たらなかった。


整備員は一度だけ射出口を振り返った。

金属の縁は白く乾き、何も語らない。

今日の偏差も、昨日の偏差も、

ただ“そこにあっただけ”という顔をしていた。


端末に送信したログは、管制で誰かがざっと目を通すだろう。

そこで終わりだ。

この斜面の薄い揺らぎを覚えているのは、きっと自分だけだ。


レールの影が足元で揺れた。

彼はいつもの歩幅で、基地の方へ歩き出した。

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第五射出口 yoquota @maroo93

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