推しが尊い、けどしんどい ~共感性羞恥限界オタクたちによる、推し活再建計画~

こむ

第1話 電飾と般若と、私の胃袋

キリキリ、キリキリ。


どこからともなく音が聞こえる。これまでに幾度となく聞いた音だ。

この音は耳から聞こえるのではなく、細胞から聞こえてくる。

胃だ。胃が鳴いている。空腹ではない。これは警報だ。私の脳が「直ちにこの場から逃げ出せ」と叫んでいる音だ。


場所は新宿・歌舞伎町の外れ。雑居ビルの地下2階にあるライブハウス『新宿アンダーグラウンド・コフィン(棺桶)』。

名前の通り、ここは生きながらにして入る墓場だ。

空調はブォンブォンと悲鳴のような重低音を上げているが、空気は微塵も循環していない。

半乾きの雑巾と、安物の制汗スプレー、そして誰かの吐いた溜息が混ざり合ったような、湿度90%の澱んだ空気。壁の塗装は剥がれ落ち、床は靴底がベタつくほど何かの液体で粘ついている。


ステージの上には、私の推しグループ『六道少女(りくどう・ガールズ)』がいる。

そしてフロアには、私を含めて観客がわずか15人。

ここは地獄の第一階層だ。

15人。それは残酷な数字だ。

ゼロなら中止にできる。100人いれば「集団」として紛れることができる。

だが、15人という数は、一人ひとりの顔が、表情が、そして戸惑いが、ステージ上の彼女たちに筒抜けになるのだ。

私がここで背を向けて出て行けば、客席の密度は確実に薄まり、彼女たちの心に致命的なひび割れを作るだろう。

だから、私は逃げられない。この拷問のような時間を、直立不動で受け止めるしかないのだ。


「みんなー! ついてこれるかー!」


ステージ上でセンターに立つ少女、ルナが叫ぶ。

その瞬間、私の視界が絶望という名の極彩色に染まった。

彼女たちが身に纏っている新衣装。

運営の権田社長が「これからはサイバー仏教だ!」と鼻息荒く語っていた、あの新機軸。

それは、ドン・キホーテのパーティーグッズ売り場で調達したと思われるペラペラのポリエステル製「袈裟」に、秋葉原のジャンク屋で拾ってきたような配線コードがグルグルと、まるで拘束具のように巻き付けられた代物だった。

背中にはガムテープで固定されたバッテリーボックス。その膨らみが、哀しいほど無骨に主張している。


バチッ。


不穏な破裂音が、スピーカーを通して大音量で響いた。

ルナの胸元、仏の慈悲を表すはずのハート型LEDパーツから、シュゥゥ…と白い煙が細く立ち昇る。


「あ」


ルナがマイクを通し、小さく情けない声を漏らす。

本来の演出では、ここで衣装が七色にピカピカと輝き、『輪廻転生・エレクトロニクス』のサビへ突入するはずだった。

だが現実は無慈悲だ。

接触不良か、あるいは仏罰か。電飾はスンッと虚しく沈黙し、ただ「配線が絡まったオレンジ色の布きれ」を巻き付けられた少女が、薄暗いステージに取り残された。

客席の空気がピキッと音を立てて凍結する。

私以外の14人のオタクたちも、ペンライトを掲げたまま石像のように固まっている。

見ているこっちが恥ずかしい。顔から火が出る。いや、全身の毛穴から冷や汗が噴き出す。

私は両手で顔を覆った。だが、指の隙間から見てしまう。

ルナは震える手でマイクを握り直し、必死にアドリブを入れた。


「……ほ、法力が……足りませぬ……! みなさんのチャクラを、私に……!」


シーン……。


地獄だ。無間地獄だ。

無理やりな設定を守ろうとして、さらに傷口を広げている。

客席の誰も「チャクラ」の送り方がわからない。15人の沈黙が重くのしかかる。

ズキズキズキ。

胃壁が激しく波打つ。

下手(しもて)で硬直していた青色担当のリンが、この凍りついた空気を打破しようと覚悟を決めた。彼女の役回りは「般若」。常にブチ切れていなければならない。


「貴様ら! 反応が薄いぞ! 地獄へ落ちろォォ!」


リンが叫び、ステージ前方へダダッと駆け出す。

しかし、その足元には、先ほど機能停止したルナの衣装から垂れ下がった配線コードが、蛇のようにとぐろを巻いていた。


ズルッ。

ドタンッ!


鈍く、重い音。リンが顔面からステージに突っ込む。

起き上がったリンの目には、般若の怒りなど微塵もなく、ただ痛みに耐える少女の涙が浮かんでいた。

彼女はマイクが生きていることを忘れ、素のか細い声で呟いてしまった。


「……あ、痛ぁ……ごめんなさい……」


私の心の中にある「我慢のダム」が決壊寸前まで追い込まれる。

だが、本当の地獄はライブが終わった後に待っていた。



「はい! これより『現世のご利益(りやく)会』を始めまーす!」


運営の権田社長が、しわくちゃのジャージ姿で怒鳴る。要するに特典会(チェキ会)だ。

スタッフがガタゴトと長机を並べ、くたびれたパイプ椅子を用意する。

「チェキ券は一枚千円! 十枚まとめ買いで『徳ポイント』二倍だよ!」

金庫代わりのボロボロのカンカンが、ジャラジャラと下品な音を立てる。

私はルナの列に並んだ。列といっても一人だけだ。

隣のレーンでは、般若担当のリンが、スーツ姿のサラリーマンに対して、涙目で「貴様、仕事帰りか! 社畜め!」と必死に罵倒している。

罵倒されている男は、プルプルと小刻みに震えながら「す、すみません…」と謝っている。彼もまた、被害者だ。


私の番が来た。

至近距離で見るルナの衣装は、さらに凄惨だった。

配線はセロハンテープで補強され、肌には赤い被れができている。

「あ、ハルさん……来てくれて、ありがとう……」

ルナが申し訳なさそうに眉を下げる。

素の彼女は、本当にいい子なのだ。私は胸が締め付けられる。

「今日のライブ、その、大変だったね。でも歌は良かったよ」

精一杯のフォローをする。だが、横から権田社長の野太い声が飛んだ。

「おいルナ! 設定忘れるな! 罪人に慈悲をかけるな!」


ビクッ。


ルナの肩が跳ねる。彼女は慌てて表情を作り直し、私の顔の前で奇妙なポーズ(指で輪っかを作る印)を決めた。


「そ、その通りだ! 迷える子羊よ……いや、えっと、地獄の亡者よ! 1000円のお布施で、業(カルマ)を燃やしてやろう!」


カシャッ……ウィーン……。


権田がシャッターを切る。

出てきたチェキには、引きつった笑顔で謎のポーズをとるルナと、死んだ魚のような目をした私が写っていた。

ルナはチェキにサインを書きながら、小声で囁いた。


「……ごめんなさい。あの、これ、魔除けになるから……」


彼女が渡してくれたチェキの隅には、『地獄』という文字と、下手くそな髑髏(ドクロ)の絵が描かれていた。

彼女なりのファンサービスなのだ。

でも、その指先は黒マジックで汚れ、絆創膏だらけだった。


ブチッ。


何かが切れる音がした。

配線ではない。私の精神(メンタル)だ。

可哀想すぎる。

才能ある少女が、こんな大人たちの悪ふざけのような環境で、心をすり減らしている。

そして私も、それを金を出して支えている共犯者だ。

「……ありがとう。また、来るね」

私は逃げるように挨拶し、足早にフロアを出た。


非常階段の踊り場へ転がり込む。

重い鉄扉をバンッと閉める。

壁の冷たさが、背中の汗を冷やしていく。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

私は崩れ落ちるように座り込んだ。

ふと顔を上げると、そこには先客がいた。


一人は、作業着姿で腰に工具袋をぶら下げた、目つきの鋭い男。

もう一人は、先ほどリンに罵倒されていたスーツ姿の男。

さっきまでフロアで、私と同じように地蔵のように固まり、震えていた二人だ。

薄暗い非常灯の下、私たちは無言で見つめ合った。

男たちの額にも、脂汗が滲んでいる。

その目は虚ろで、焦点が合っていない。

言葉はいらなかった。

「見ていられない」「逃げ出したい」「でも見捨てられない」。

そんなアンビバレントな感情の渦が、三人の間で共鳴し、空気を重く震わせている。

私たちは全員、同じ病気――「推しがスベる姿を見ると内臓が壊死する病」の重度患者だったのだ。


作業着の男が、虚空を睨みつけながら低く唸った。

「……あの配線、電圧計算がデタラメだ。ハンダ付けも素人仕事……このままだと、次は発火するぞ」

彼は震える手で工具袋を握りしめ、まるで目の前に見えない設計図があるかのように指を動かしている。


スーツの男が眼鏡をカチャリと押し上げ、独り言のように続いた。

「……あの罵倒強要は、優越的地位の濫用……いや、安全配慮義務違反も成立する。労働契約書を確認しなければ……」

彼はブツブツと六法全書のページ数を唱え、崩壊しそうな精神をつなぎ止めている。


エンジニアと、法律家。

この地獄のような現場には不釣り合いな「理性」と「秩序」を持つ人間たちが、ここに掃き溜められている。

私と同じだ。

完璧を求めるがゆえに、この不完全な惨状に耐えられない者たち。

私は震える手でバッグから胃薬の瓶を取り出した。

蓋を開けると、ジャラジャラと大量の錠剤が手のひらにこぼれ落ちた。

その白い粒は、この絶望的な夜における唯一の救済に見えた。

私は無言で、その手を二人に差し出した。


「……飲みます?」


二人はハッとして私の顔を見た。

そして、ゆっくりと頷いた。

彼らの手が伸びてくる。

油にまみれた職人の指先と、ペンダコのある法律家の指先が、私の掌から白い錠剤をつまみ上げる。

水などない。

私たちは同時に、苦い薬を口に放り込んだ。


ガリッ、ボリッ。


乾いた音を立てて噛み砕き、強引に飲み下す。

喉を通る強烈な苦味と異物感。

だが、それが胃袋に落ちた瞬間、奇妙な連帯感が生まれた。

「……これ以上は、死人が出ますね」

私が呟くと、ガジェットが短く応えた。

「ああ。俺たちの精神が先に死ぬか、彼女たちが物理的に壊れるかだ」

六法が深く溜息をつき、鞄を持ち直した。

「看過できませんね。法治国家として、そして……ファンとして」

三人の視線が交差する。

もはや、ただのオタク同士ではない。

同じ傷を舐め合い、同じ薬を飲み込んだ「共犯者」としての契約が、この薄暗い踊り場で結ばれたのだ。


これが、私たち「チーム・胃薬」の、結成の瞬間だった。

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