第2話

「さっきの、何だったのかな……」


 家に戻ったつきは、自室に閉じこもり、神社での出来事を思い返した。日当たりのよい本来の部屋はゆうに取られたので、元々物置きだった空間であるが。

 いかなるものであれ、日常の風景の中に帰ってきてしまうと、さっきのことが現実だったとはとても思えなくなる。あやかしだなんて。ようだなんて。――妖狐の「花嫁」になれ、だなんて。

 しかし出来事の細部は、まるで手に取るように思い出せる。埃まみれだった狐の像を拭いた感触も、黒鋼くろがねの声の響きも、彼がふわりと漂わせた涼やかな香りも。


(夢? 妄想? ……本当に?)


 しばらく考えたのち、勉強机の椅子から立ち上がる。四方を壁に囲まれた小さな部屋を出て、廊下の窓から外を見やった。

 世界は再び降り出した雨に濡れ、しっとりときらめいていた。


「……明日、もう一回行ってみよう」


 月は呟いた。


 何もなければ、何もなかったことに。

 もしも、またあいつがいたら――。


(それは、そのとき考えよう)


 自分に小さく頷き、月は部屋に戻った。



  ***



 翌日の放課後。神社の階段を上り終えた月は、茫然と立ち尽くしていた。

 昨日、神社があった場所。お社の数々は消え失せ、代わりに巨大な日本家屋が出現しているのである。


(え……うそ、見間違い?)


 目をこすってみるが、何も変わらない。

 美しく整えられた庭園、何室あるかも分からないほど大きな平屋の建物。

 月を招き入れるように開かれた門の表札には、堂々たる筆致で「黒鋼」と記されている。


「あいつ……」


 妖狐の力で出現させたに違いない。豪邸で月を釣ろうという思惑だろう。

 だがこんなことをされたって、ちっとも嬉しくなんかない。

 目立つものを手に入れたら、必ず奪われるに決まっているからだ。


 もう帰ろうか。

 そう思ってきびすを返そうとしたら、目の前の邸宅がどろんと煙に包まれた。

 日本家屋は見る見るうちに溶けるようにして消え、洋風の豪邸に変じた。


「――冗談でしょ」


 今度の表札はご丁寧に「KUROGANE」という英字になっている。


「一言言ってやらなきゃ……」


 月は口元を引き締め、レンガ造りの屋敷の門に足を踏み入れた。

 庭を抜け、重厚な玄関扉へ向かう。ノックしようとすると、扉はひとりでに開いた。

 シャンデリアのかかった豪勢なエントランスでは、変わらず和服姿の妖狐・黒鋼が待っていた。


「来たか、俺の花嫁」


 得意げな様子で言われる。月はむっと眉根を寄せた。


「花嫁じゃありません」

「これからそうなる。俺たちの新居は気に入ったか? やはり今日びの娘は西洋風の館の方が好みか」

「そうじゃなくて」


 仮面の下で黒鋼が片眉を上げたのがなんとなく分かった。月は彼をじっと睨み据え、言った。


「私には雨笠月って名前があります。それと、私は何も欲しくないって言いましたよね。何をエサに誘われても、私があなたの願いを叶えることはありません」


 黒鋼は虚を突かれたように口をつぐんだ。

 それを見届けて月は背を向け、屋敷の外へと歩いていった。



  ***



 それきりのはず、だった。

 だが、あの不思議な妖狐のことが、月はどうしても気になって仕方なかった。

 引き寄せられるように、夢とうつつの境を確かめるように、彼女は何度も神社に足を運んだ。


 白い鳥居をくぐり、長い階段を上って境内を訪れるたび、様子は様変わりしていた。

 現代風のスタイリッシュな邸宅が建っていたこともあれば、こともあろうにタワーマンションがそびえていたときもあった。

 かと思えばかわいらしいログハウスがちんまりと築かれていたときもあったし、趣向を変えようと言わんばかりに巨大な遊園地が広がっていたことさえあった。


 そのたびに、黒鋼はいたく得意げに辺りを見せて回り、言うのだった。


「どうだ? 今度こそ俺の花嫁になる気になったか」

 

 もう何度目か分からないある日、神社の階段の先には、いたずらっ子の出てくる某クリスマス映画を思わせるようなからくり屋敷がそびえていた。トンチキ方面に振るとは、黒鋼もいい加減ネタが尽きたのだろうか。

 あちらこちらを連れまわされ、仕掛けを見せられる。


「さあ、どうだ、月。楽しかろう。ここに俺と暮らせば、決して飽きることはないぞ。俺の花嫁になれ」

「なりません」


 仕掛け扉をそっと閉じながら、月は答えた。

 黒鋼はしばらく何も言わずに月を見ていた。だがやがて、静かな声が耳に届いた。


「妙な娘だ――まさか本気か? 欲しいものがないなど、あり得ぬだろう。正直に言ってみろ。どんな願いでも、俺は叶えてやれるのだぞ」


 月は小さく溜め息をついた。そうとも、本気だ。本気なのだ、自分は。

 言葉は勝手に口からこぼれた。


「欲しいものなんて……もうありません。これ以上奪われたくないだけ」


 言ってしまってから、月は口を覆う。

 妖狐は軽く首を傾げた。


「奪われたくない、とは? どういう意味だ。話してみせろ」

「――別に」

「話せ、月。花嫁の悩みひとつ聞けずして、夫たりうるものか」

「だから花嫁じゃ……」


 抗う言葉は、途中で溶けて消えた。

 月は窓の外をじっと見つめる。冬の夕焼けが西の空を鮮やかに染めていた。

 心の鍵を開けたのはその色か――それとも、ふと月の手を握った、黒鋼の指の温もりか。


「……実は」


 月は語った。

 母を亡くしたこと。父が再婚したこと。継妹の優莉ばかりがかわいがられ、彼女が欲しがったものはすべて与えられたこと。

 その優莉がやがて、月の持ち物ばかり欲しがるようになったこと。物ばかりでなく功績も、愛情も、すべて彼女が奪っていったこと。今の自分には、何も残っていないこと――。


 話し終え、月はうつむいた。

 黒鋼はしばらく黙っていた。だがやがて、彼女の手を握る指に力が込められた。


「よくぞ、ここまで耐えてきた」

「……え」


 月は思わず顔を上げた。

 黒い狐面の奥の瞳が、彼女をじっと見返してきた。


「すべてを奪われながらも、他者に恨みをぶつけることなく生き抜いてきた――そんなお前は、誰よりも気高い」

「黒鋼……さん」


 頬がじわじわと熱くなった。

 今、このあやかしは――自分を肯定してくれたのか。

 空っぽの両手で、誰にも味方してもらえないまま生きてきた自分を。


 心臓が激しく脈打ち始めた。周りの音が聞こえなくなった。

 目の前の美しい男が、月の両手を包み込んだ。


「我が花嫁よ、お前に祝福があらんことを。――安心しろ。求めることを、再び覚えるがいい」

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