呪文深度──呪いと呪縛の言葉
斉城ユヅル
呪文深度──呪いと呪縛の言葉【短編】
あの日、俺は呪われた。それ以来、人が人に見えない。
刑事として、人の心の闇を覗いてきた。闇を理解するために、犯罪者の思考を追い、心を観察し、その中身を掴むために古今東西の心理学を貪欲に学んできた。そして、俺は正気と狂気の境を突き崩していった。
今思えば、狂気に半歩足を踏み出し、バランスを取りながら人間として振る舞っていたのだろう。
その果てに、俺は人の心は《穴》だと看破した。その穴には階層──《深度》がある。俺はその最深部まで潜り切った。そう思っている。
そうだ。思っている。何故なら、この深度に降りている他人を俺は知らないから。
そこは《生の衝動》だけの世界。人の心の根。全ての理由が一つにまとまる人格の中枢。色々言葉を考えて存在核とか言ってみたこともあるが、内心ではこう呼んでいる──《魂》──と。
俺が見ているのは、妄想か。それとも、本当に存在しているのか。
これが狂気か正気か、もう分からない。誰とも答え合わせなどできない。だから、自分はまだ《人間という構造体》だと思って、毎日を生きている。
ただ──。
──だた一つ、証明する方法がある。
人を《呪って》みればいい。
この深度に降りたとき、俺は気づいた。
言葉で、人を呪えることに。それは言葉で人を壊す技術。心理分析の果てに辿り着いた、最も危険な領域。
もし俺がこの《技術》を使い、人の心を崩壊させられるなら、それは、この心理構造理論が、虚構ではなく現実の構造である証左になる。
……もっとも、呪えるからといって呪うつもりはなかったし、実際呪ったこともない。
ただ、《呪い》が実在することだけは知っている。
俺はそんなものは荒唐無稽だと思っていた。
あの日までは。
俺を呪ったのは、当時の俺より深く潜っていた男。最深部に到達したであろう、ひとりの犯罪者だった。
今から話すのは、その日のことだ。これは、俺が呪われた日の話。
▪️
取り調べ室の時計が、カチカチと鳴る。
俺は、正面の男を黙って見た。
篠原泰斗。
被害者の心を《破壊した》犯罪者。
ただの暴力ではない。
被害者たちは、皆、心を壊されていた。
あの壊し方が理解できず、
俺は今日、この席に座っている。
深追いしてはいけないと、
課長にも、先輩にも言われていた。
だが――
篠原の手口を知りたい、という気持ちが勝った。
「……お前、被害者の心で、何を調べていた?」
言った瞬間、取り調べ室の空気が変わった。
篠原の表情が、笑ったように見えた。
しかし口角は動いていない。
目だけで笑ったのだ。
篠原はゆっくりと、言葉を扱う。
「あぁ……そこまで言えるのか。……見てきたんだな。被害者の穴を」
ドキリと心臓が跳ねる。
穴。
そんな言葉、知らんぞ。
なぜ、分かる?
床が抜けるイメージ。
被害者が穴に落ちる。
暗闇の中で、壊れる。
みえる。みえた。
なぜ――
篠原の声は続く。
『あんた、深いよ。人間にしては』
深い? 深いって、なんだ?
自我の底がひび割れる。いや、これはもう半身どっぷりと闇に沈んでいる。気づいた。
(追うなと言われていたのは、これか……)
理解より先に、俺は《危険》を直感した。
反射的に口が動く。
「……待て、やめろ」
篠原は、かまわずに、こちらを覗き込むように、少しだけ顔を傾けた。
目を見てしまう。瞳が──穴のように深い。
いや、穴ではない。
あれは、深淵だ。
おぞけが背筋を冷やす。
この言葉が、どこから浮かんだのか分からない。
だが、脳が勝手に認識に言葉を与えた。
これはただの穴ではない。
深度ごとに違う重層構造だ。
この目はその最下層だ……
なぜ――
そんな理解が突然?
俺は何を考えている?
篠原が言う。
『あぁ……気づいてないだけか。見えているんだろ。まだ、《人間が人間に見える》か?』
世界の輪郭が、わずかに揺れた。息が詰まって、身体が揺れる。
人が人に見えるのか?
当然だ。馬鹿馬鹿しい言葉だと、思う。
納得するために思考が走って、ゾッとする。
……冗談じゃないぞ。
その時、《その言葉》が、鼓膜ではなく、脳に直接突き刺さったと理解する。
途端に、視界の中のものが変質した。
テーブルが脚と板で組まれた構造物に見える。
ビルの階層構造が浮かぶ。
同じように、人間が、心の階層構造に見える。
立体的に、知覚できる。
感じる表層、考える中層、衝動の深層。矛盾しつつ、綺麗に構築された心が見える。
連想。中層から深層に落ちて壊れる被害者。
──今、俺は心のどこにいる?
篠原の表情がわからない。
(何をされている、何をされた?)
顔のパーツ。
表情の意味。
心の層。
俺の深度。
穴の瞳。
口の端の笑み。
奴は、どの深度にいる?
奴を追いかけてきた。
追いかけて《潜ってしまった》ことを今理解した。
だから、奴の手口がわかりそうになる。
こんなの知らないぞ。
いつ、知覚できるようになった?
──危険だ
俺は思考を止めようとした。しかし――
止まらない。
人の心は単なる構造だという理解が、暴走するように膨れ上がる。
そんなわけないと否定したくて、考えて、否定できずに更に暴走していく。
目の前の男もそうだ。上司も部下も。
妻も、娘も誰もかれも解析できる。
設定された機械だ。ロジック通りに動いている。
分かる。なぜみえる?
分かる?
どこで覚えた?
いや、違う。
これは覚えたのではない。
潜ったから分かってしまったのだ。
これは、コイツの世界認識だ!
何故──
この男の心と、被害者の心を追体験し始めたからか。
──理解のために憑依する意識でやった。
「戻れなくなるぞ」という退職した先輩の言葉が今更響く。
まずい。自我の底が割れる。
違う。コイツが底を割りに来ている!!
篠原の言葉が追い打ちをかける。
『ほら、来た。あんた、もう人には戻れんよ』
椅子を倒して立ち上がる。聴きたくない。その通りだ。その意味が分かる。何故わかってしまう!?
言うな。
それを言うな。
しかし、理解が走る。
鮮やかに、残酷に。
被害者が壊れた理由。
篠原が壊し方を選んだ基準。
脆弱性。
空洞。
自我の破綻点。
心を壊すための説明書が脳内で完成してしまう。
俺は、胸の奥に冷たいものが流れ込むのを感じた。
理解できた感情が冷えていく。これが深淵なのか。
戻れない。
もう知らない状態には。
篠原が優しく微笑む。
「あんたが呪いやすい人で良かったよ」
呪い? いや、確かにこれは呪いだ。心を蝕んでいる。
妻も娘も構造なら、俺は──。
──俺はどうなんだ?
(聞くな、問うな、それを!)
その問いに底が抜けた。足元がフワッとして、心の中で、堕ちる。
やめろ考えるな。
(落ち着け、落ち着け)
そう唱える自我ごと崩壊は進んだ。
「落ち着け」という俺が観測される。俺に、俺の構造が見える。こんなの俺じゃない!これは違う。違う!
本能的な拒否感。
そんな──
自分の口癖、判断の傾向、好きなタイプ、苦手なことが、単なる因果の線で結ばれていく。シンプルに構造化されていく。俺の俺らしさが合理的説明に収束していく。
ロジック通り動く機械のように。
吐き気に口元を押さえた。
俺は人間だ。俺は刑事だ。俺は刑事だろ。俺は、俺のはずだ!?
篠原の目には、俺が同族に見えている。
瞳の漆黒に、愕然とした俺じゃない俺が映っている。
こんなの人間じゃない。言っている意味が分かった。
その事実に、胃が裏返るほどの嫌悪が沸き起こり、どこまでも冷たい理解と混ざり合う。
俺も――
同じ場所にいるのか?
ここはどこだ。
どこまで沈んだ。
深度……深度?
これが深度か、心の底が遥か上に見える。この空間全部が俺の構造だ。
もっと下がある。
上も遠く。左右は分からない。
俺は誰だ。《俺だ》と思っていたものが空に浮く《球》に見える。じゃあ、本当の自分ってなんだ?
──分からない。
俺は椅子を蹴り倒して篠原から離れる。
視界が暗転するように狭まり、ぐらりと身体が揺れた。
篠原の穴のような瞳から逃れて、外に飛び出す。
「はぁ、はぁ、はぁ」
廊下に出た瞬間、壁に手をついた。
呼吸ができない。
世界に段階が見える。
人が構造に見える。人に見えない。
自分すら人間に思えない。
何だ、これは。
どこだここ。
俺は……何をされた? どうなってしまったんだ?
*
こうして俺は呪われた。だから、これは俺が最後に人間だったときの話だ。
結局、人は理解してしまったことを、狙って忘れることなどできはしない。
自分だと思っていたものが、ちっぽけな殻の中の箱庭だったと気づかされ、心の底を破られ、穴に落ちた。
落ちて知った。人の心は階層だと。
そういえば、昔は、人の顔をそのまま見ていた気がする。今は表情の奥が見えてしまう。
穴の底から見上げると、他人が思う《心》ってのが、氷山の先っぽを指していることがわかる。狭い狭い小さな自我。
誰もが、それを世界の全てだと信じ込んでいる。
落ちた以上知るしかなかった。深い海の中、海面からも遠く、海底からも遠い中間で頼りなく浮かんでいることを想像すれば分かるだろう?
堪えられないんだよ。
知ってしまえば二度と浮上はできない。記憶は消せない。だから、俺は潜っていった。人の心を、自分の心を。その構造体の全輪郭を掴むために。
そして、これは心の底に立った俺の結論だ。
人間の心には階層がある。
深度2の人は反応で生きる。
深度3の人は認識で生きる。
深度4の人は虚無で生きる。
深度5に至った者は、孤独に生きる。──いや、孤独でしか生きられなくなる。
そう、俺は知った。あぁ、語弊があるな。知ったと俺だけは、思っている。
呪文深度──呪いと呪縛の言葉 斉城ユヅル @saijo_yuzuru
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