未練お届け人

吉冨諒

第1話

 はらはら、と白い雪が舞っている。


「本当にあるのかよ~」


 店を出るなりぐったりとして思わずそうこぼすと、少し前を歩いていた後輩がくすりと笑ってこちらを振り返った。


「予約してなかった先輩が悪いんすよ。クリスマスなんてそうなるに決まってますし」

「でも、たかがアニメのグッズだろ?」

「大人にも人気なんすよ。だから売り切れてるんでしょ」

「大人が? かあ~、日本はどうなっちまってんだよ」


 幼児向けに日曜の早朝流れている、友情と道徳を教え込むような生ぬるいアニメ。

 今年幼稚園に入った娘があのアニメにご執心でなければ、いくら俺だって、なにも雪のちらつく夜におもちゃ屋をはしごするようなことはしたくなかった。


 そう、間もなくクリスマスだ。

 俺は最愛の娘の願いを叶えるため、息が白くなるほど寒い中を、万年独身貴族を貫く後輩と歩いている。

 後輩はいわゆる特撮オタクというやつで、この界隈のおもちゃ屋事情には詳しい。

 普段は箸にも棒にもかからない後輩だけど、こういうときには頼りになるに違いないと、飯を奢るから付き合えと呼び出したのだ。

 なにも俺一人でおもちゃ屋に入りづらいから呼び出したとか、娘に付きっきりの妻を誘うわけにはいかなかったからとか、そんな情けない理由ではない。ない、はずだ。


「あそこにもないとなると、あとはM通りのところっすかねえ」

「そんなところにおもちゃ屋なんてあったか? 飲み屋街だろ、そこいらは」

「飲み屋街になるよりも前からあるんすよ。地元のガキはみんなそこに通ってたんす」

「おまえ、地元ここじゃないだろ」

「まあ、気分っすよ、気分。その店、穴場っちゃ穴場だけど、今旬のものが置いてあるかどうかは賭けっすね」

「そこがダメなら別のものを考えるさ」

「サンタさんも大変っすねえ」


 軽口を叩く後輩を、俺は少しだけ歩みを早くして追い越した。

 なんとなく夜空を見上げる――たいした都会ではない。駅周辺のにぎわっている場所を通り過ぎれば、東京のように空をネオンが染めるようなこともない。

 それでも星が見えるほどには暗くなく、いやそもそも雲が厚く覆って天体観測なんぞできそうもない。

 はらはら、と音もなく淡い雪が舞い落ちてくるばかりだ。

 大きく息を吸うと、鼻の奥がつんと痛んだ。


「あ」


 後輩の間抜けな声が聞こえたのと、足の裏に妙な感覚を覚えたのは、どちらが先だったのだろうか。


 いずれにせよ次の瞬間にはもう真っ暗な空しか見えなくて、散らついていたはずの雪もなにもなくて、娘のクリスマスプレゼントを買わなくちゃいけないのに、俺はどうして――――


************


 俺は個配――個人宅配の仕事をしている。


 きみたちが快適な家の中で、パソコンやスマホからぽちっと注文した荷物を届ける仕事だ。

 よく見かける飛脚や黒い猫のマークがついた運送会社に所属しているわけではなく、個人事業主として開業している。つまり、トラックじゃなくて、軽自動車やバイクで荷物を運んでいるのだ。

 知ってたか? 緑ナンバーのトラックに乗れるのは、運送会社に雇われている人間だけだ。ちょっと憧れるけどな。大きな車は、男の子ならいくつになっても大好きだろ? 俺は普通免許しか持ってないし、大きな車を転がせるようなセンスもないから諦めてるが。


 それはともかく、日中、俺は大手ECサイトから発送された段ボール箱を、車検に通るかも危ういぼろぼろの相棒たる軽バンに積み込んで走り回っている。

 これがまあ、仕事量のわりに儲からない。

 1日3万円稼げる! なんてうたい文句に誘われて、脱サラして車を買ってまで始めた仕事だけれど、1日に3万円を得るには、それこそ朝から晩まで必死こかないと無理だ。労基法に守られない個人事業主だから、休憩なんかなしで朝から晩まで走り回れば3万円を稼ぐこともできる。だからまあ、嘘はついてないっていうことになる。

 以前の職場で、恩ある役員に後ろ足で砂をかけて大喧嘩をした末に辞めた俺の悪評は、俺の思っていた以上に広まっているらしくて、ドライバーの仕事を辞めて元の業界に戻るってことは不可能だ。新卒からずっとその仕事だけしていたから、別業種に再就職する勇気も出なかったしな。


 なので、俺はマフラーから異音を出す相棒の軽バンに乗って、毎日街を走り回っている。

 自分の飯代を稼ぐだけでなく、出て行った嫁――失礼、元嫁のところにいる可愛い娘にも、養育費を払わなきゃいけない。


 そんなときに出会った、高運賃の深夜の個配業務。

 やっすい酒を出すことで有名な小汚い居酒屋で怪しいおっさんと意気投合して、彼にこの仕事を持ち掛けられたのだ。

 おっさんは、小さな会社を経営していて、俺みたいな個人事業主を何人か使っている立場らしい。

 シャツもズボンも普通だし、短く刈り込んだ髪もさっぱりしたものだが、顔の下半分を覆う不精髭と、本人のけだるげな印象が相まって、どうにも清潔感がなく怪しく見えた。


 運ぶものは段ボール箱1つ。

 出荷は不定期だけど、俺がその気になれば毎日でも用意するよ、とおっさんは童話に出てくる化け猫みたいににんまりと笑った。


 必ず守らなきゃいけないことは2つだけ。

 ひとつ、箱を絶対に開けないこと。

 ふたつ、時間を必ず守ること。


 箱を開けないなんてのは、わざわざ言われるまでもない。普通に犯罪だしな、それ。

 時間厳守のほうも、まあ、個配やってりゃある程度は過ぎてしまうことはあるけれど、運送業に携わっているなら当然の常識だ。


「深夜1時から2時までに必ず届けること。それより早くても遅くてもいけない。遅れるのは絶対にだめだ。遅れるくらいなら行かないように……2時から2時半までは、特にだめだよ。いいかい?」


 どう転んだところでやばい荷物なのは間違いない。

 だけれど俺は、旧帝大卒だから勉強はできるけれどそれ以外はさっぱりのクズと元嫁にこき下ろされるくらいのダメ人間だから、おっさんからの申し出に諸手を挙げて飛びついたのだ。


 おっさんからの仕事は、普通とは違っていた。

 普通ならば、たとえば倉庫やメーカーに置いてある荷物を受け取り、客の元に届ける。

 おっさんの仕事では、


 日中の個配の仕事を終え、家に帰ろうと考えてふと視線を助手席に向けると、いつの間にかそこにはと思しき絵が描かれた段ボール箱が置かれているのだ。

 かかしとはっきり言えないのは、あまりに抽象的というか、へたくそな絵だからだ。棒人間が杭に縛り付けられてるみたいな、そんなへんてこりんな絵。毎回少しずつ違うので、おっさんがわざわざひとつずつ手書きしているのかもしれない。


 絵の批評はどうでもいい。


 問題は、いつの間にか荷物がそこにあるということだ。

 おっさんが俺を見張っていて、俺が車を降りたすきに素早く箱を置いて行っている――としか思えない。

 どんな会社かは聞いていないが、一応会社を経営しているというおっさんがそこまで暇とは思えないので、恐らく社員とかアルバイトにやらせているのだろうけれど、それにしたっておかしな話だ。

 俺に電話して「どこそこまで取りに来い」と言う方がいいに決まっているのに。


 それはともかく、箱の上には茶と白の封筒が1枚ずつ張り付けてあって、茶封筒には配送先の住所のメモとともに1万円札が入っている。これが俺の運賃だ。先払いとは気前がいいよな。

 白いほうの封筒には、紐を通してまとめられた外国の硬貨らしきものが6枚、いつも必ずセットされていた。これは俺のものではなく、段ボール箱と一緒に客に渡す。

 客によっては白封筒の中身を見て、いやそうにしたり、俺に押し付けようとするやつもいるが、おっさんから「必ず渡せ」と厳命されているから、客に投げつけてでも渡すようにしている。

 こんなわけのわからない仕事に、1万円も出すようなおっさんだ。きっとろくでもない稼業に決まっていて、おっさんの言葉に逆らえばどうなるかなんて火を見るより明らかだ。

 だから俺は、おっさんとの付き合いが続いている今も、おっさんの会社名さえ聞かないようにしている。知らぬが仏っていうだろ。


 さて、そういうわけで今日もいつの間にか現れた荷物を助手席に乗せ、俺はいったん家に戻った。


 俺の暮らしているのは、駐車場代・共益費込みの家賃2万5千円のボロアパートだ。駐車場付きで3万円以下は、いくらここが名ばかり首都圏のG県郊外とはいえ、破格である。

 単に築年数が俺の年齢の倍近いというだけでなく、前の住民が室内でお亡くなりになったので、この値段というわけだ。

 ちなみに俺以外の部屋も全部似たような家賃だそうで、興味本位で不動産屋に聞いてみたら、すべての部屋が事故物件なのだという。

 6部屋あるうちの3部屋に生活保護の年寄り、2部屋に日本語の通じない外国人、残りの1部屋に俺が入居して、めでたく訳ありアパートの完成である。うれしくねえ。


 そんなぼろ家でも奇跡のように風呂とトイレがついていて、申し訳程度のキッチンもある。スーパーで投げ売られていた98円のなべ焼きうどん――銀色のアルミ皿に麺や具が入ったあれだ――を火にかけ、ビールを飲みたい気持ちをぐっとこらえて、煮えすぎてすっかり塩辛くなった麺をすする。

 テレビなんてものはないので、スマホの小さな画面でお笑い芸人の動画を見る。

 出の悪いシャワーでぬるま湯を浴びて、時間になるまでぼうっと過ごす。


 やがて壁にへばりついた時計の針が12時を指した頃、俺は先ほど脱ぎ捨てた作業着をまた着て、ぼろぼろの相棒たる軽バンに乗り込んだ。



 今日の配達先は、またもやぼろアパートだった。

 おっさんからの荷物の受取人は、何故か俺の住むアパートとためを張れるくらい古びた建物に住んでいることが多い。どうせ彼らもおっさん同様、怪しい稼業の人間だからだろうか。

 それを言うと、おっさんの使い走りになった俺も、怪しい稼業の仲間ということになる。わびしくなるから、あまり考えないようにしている。


 スマホの時計が深夜1時を示した。

 俺はかかしらしき絵の描かれた箱を抱き、ぼろアパートの階段を踏み抜かないように気をつけながら上がった。

 配送先は205号室。2階の一番端っこ、階段から一番遠い角部屋。

 廊下に面した窓からは明かりが漏れておらず、それどころか人の暮らしている気配もない。

 これもいつものことで、おっさんから指定された住所はどこもそうだ。人の営みのにおいというものを感じられない。


 こんこん、と控えめに扉を叩く。インターホンは鳴らさない――たいていこういうボロアパートのインターホンは壊れているのだ。

 扉の向こうには何の気配もない。

 それでも俺はしつこく、こんこん、と叩き続ける。大きな音を立ててしまうと、隣に部屋の住民が血走った目で出てくる可能性があるのでだめだ。あくまで控えめに、控えめに。


 ややあって、何の前触れもなく扉が、すーっと開いた。ほんの20㎝くらいの隙間から、白い女の顔がこちらをのぞく。


「こんばんは」


 俺は帽子のつばに手をかけ、なるべく明るく見えるように笑顔を作った。


「お荷物のお届けです」


 誰からの荷物かなんて言わないし、俺の素性も言わない。

 おっさんは言った――俺の名前を、絶対に口にするな、と。

 だから俺は、客に対して身元を明かさない。

 まあこんな非常識な時間に荷物が届くような客だ。どこからの荷物かなんて、客のほうがよく承知しているだろう。


「…………」


 女は扉の隙間から、にゅう、と手を出して箱を受け取った。箱の上に貼られた白い封筒の中身を確認して、やはり嫌そうな顔をする。

 一瞬その暗い瞳がこちらをすがるように見た気がしたけれど、俺は素知らぬふりをした。


「サイン、お願いします」


 ボールペンを渡して伝票の隅を示す。

 女は存外、素直に従った――大村、という名字らしい。おっさんから預かった荷物や伝票には、受取人の名前が書いていない。だから俺はサインをもらうときに初めて、客の名前を知ることになる。


「それでは」


 サインの入った伝票をしまって踵を返そうとすると、ぐ、と引っ張られた。

 振り返れば、扉の隙間から長く長く伸びた女の白い手が、俺の上着の裾をつかんでいる。


「……少し、お話しませんか」


 女のそれとは思えぬほどひび割れた声に、俺はにこりと笑いながら、彼女の指を――ひんやりとした硬い指をはがした。


「すみません、仕事中なんで」


 女は扉の隙間から恨めしそうな目でこちらを見てから、しぶしぶと引っ込んだ。

 と思ったら、もう一度扉が開いて何かが足元に飛んでくる。音を立てて落ちたのは、先ほど俺が貸してやったボールペンだ。

 ボールペンを胸ポケットに挿して、俺は少し小走りに階段を下りた。



 翌日、この時期にしては珍しいことに大雨が降った。昨日の天気予報ではせいぜい小雨程度といっていたはずだが、とんでもない外し方をしたものだ。

 そのうえこちらも珍しいことに、2日連続で、軽バンの助手席にかかしの絵がついた箱が置かれていた。

 茶封筒に入っていたメモを見ると、届け先は隣県である。いつもより遠いせいか、今回は1万円札が2枚入っていた。

 ラジオから流れる道路情報によれば、大雨のためにいたるところで事故が起きていて、高速道路も事故処理のために閉鎖されてしまったらしい。そのおかげで一般道もひどく渋滞しているようで、渋滞の解消は深夜もしくは明日の早朝になりそうだ、と無機質な声が告げた。


「こりゃいったん家に帰る時間はなさそうだな」


 俺は煙草の煙を大きく吸い込んで、窓の隙間から外へ向かって吐き出した。以前は娘の目を盗んで一日に数本吸う程度だったのが、離婚してから気づけばすっかりヘビースモーカーだ。

 ドリンクホルダーに挿した空き缶に吸殻を放り込み、ぼろぼろの軽バンのアクセルを踏む。

 俺と同じくらいくたびれた相棒たる軽バンは、ほんの少しタイヤを空転させるような気配を見せたが、それでもなんとか前進を始めた。


 通常ならば1時間かからずに到着できるはずの場所についたときには、すでにスマホの時計は1時を回っていた――途中でラーメンを食べなければ、もう少し早くついていただろうけれど、それはさておき。

 今回の届け先は珍しく、おんぼろアパートの類ではなかった。外観を見るとそれなりに築年数は経過していそうだが、しっかりした造りのマンションである。


 住民たちの寝静まった敷地を箱を抱えて歩き、エレベーターに乗り込む。目的地は8階の、802号室。

 いつものように人の気配を感じられない部屋の扉を控えめに、控えめに叩く。


 少し待ってから開いた扉の向こうから、げっそりと目の落ちくぼんだ男が顔を出した。くたくたのワイシャツを着ていて、薄汚れていなければひどく疲れたサラリーマンといった風情だ。

 男から、ぷん、と異臭が流れてくる。どれだけ風呂に入っていないのだろう。俺はとっさに口呼吸に切り替えながら、それでも笑顔を作った。


「お荷物のお届けです。サインください」


 男は素直に箱を受け取ってサインをしたが、白い封筒の中身を見ると顔色を変えて、封筒を引っぺがすなり俺に投げつけてきた。


「ちょ、お客さん、困ります」


 男が素早く扉を閉めようとしたから、反射的に隙間に足を突っ込んで阻止した。安全靴を履いていたからよかったものの、つま先に鈍い衝撃が走る。安全靴とはいっても足全体を守ってくれるわけではないので、当たりどころが悪ければ骨折していたかもしれない。それくらいの馬鹿力だった。


「受け取ってくださいって!」


 信じられないほどの力で俺を押し出そうとする男に抗いながら、白い封筒を部屋の中へ向かって全力で投擲した。

 かちゃん、と硬貨が封筒から零れ落ちて床にあたる音がする。


「死神め!」


 男が黄色く濁った眼を見開いて叫んだ。


「悪魔の使いっ走りめ! 呪われろ!」


 ひときわ大きく叫んだ男を、俺は玄関の内側に突き飛ばした。足を抜いて扉を外から押さえ、全体重をかける。

 どん、どん、と扉が内側から叩かれていたが、やがて、その音も聞こえなくなった。


「……死神か悪魔の使い走りか、どっちかにしろよなー」


 ついついぼやきながら、他の住民が出てくる前にと、早足でその場から離れる。

 そういえばボールペンを返してもらってないことに気づいたのは、渋滞に難儀しながら3時間かけて帰宅したあとだった。



「おまえ、もうこなくていいよ」


 いきなり雇い主――というのも変か。俺たち軽貨物ドライバーの元締めをやっている男にそう言われたのは、12月半ばのことだった。

 いつものように仕事を終え、客から預かった代金引換用の現金や伝票類を返しに、事務所とは名ばかりのプレハブ小屋に顔を出した途端、元締めに呼び止められて、これだ。


「え、あの、どうしてですか? 俺、何かしたでしょうか」

「おまえ、よそでも仕事してるらしいじゃん。そっち行けば?」

「それは別に……副業とか、関係ないでしょ……」


 なんたって俺は個人事業主である。

 正規雇用されているならば多少の縛りは当然だろうが、個人事業主の立場でそんなことを言われるのはナンセンスだ。


「あー、そういうこっちゃねえのよ」


 しかし元締めは面倒くさそうに、ボールペンの先端で頭をがりがりかいた。元締めのやくざと見紛う強面が不機嫌そうに歪み、俺はそれだけで怯んでしまう。

 携帯電話とノートパソコン、伝票類でごちゃごちゃになった机の上から、元締めが器用に煙草とライターを探し出す。くわえた煙草に火をつけないまま、彼は深く息を吐いて俺をにらみつけた。


「おまえが夜の仕事もらってる相手な、俺の仇敵なの。わかる? 大嫌いな相手ってこと」


 もっと早くに知っていれば引き返させられたのによ、と元締めがライターを握りつぶさんばかりに、手に力をこめるのがわかった。

 どうやら元締めとあの怪しいおっさんとの間には、なにやらただならぬ因縁があるらしい。


「だ、だから俺に仕事くれないって……横暴じゃないですか!」

「横暴じゃねえよ。サラリーマンみたいに守ってもらいたいなら、こんな仕事やめちまえ。下請けドライバーなんざやらねえで、さっさと他の仕事探しな」


 ぐうの音も出ない正論――というわけではもちろんないけれど、このときの俺は残念ながら法的な知識などまったくなく、元締めの足元に土下座するみたいにすがりつくしかできなかった。

 怪しいおっさんがくれる夜の仕事は、確かにおいしいけれど、それだけで暮らしていけるほどの収入を得られるわけではない。ここを追い出されたら、またいちから仕事を探さなければならない。

 もう夜の仕事はしないからやめさせないでくれと泣きながら頭を下げると、元締めはまた面倒くさそうに息を吐いて、火をつけたばかりの煙草の灰を俺の頭にぽんぽんと散らして、


「もういいって」


 蹴飛ばすみたいにして、俺を事務所から追い出したのだった。



 どうしよう――あっという間に冷えていく缶コーヒーを手に、俺は道端に座り込んだまま茫然としている。

 どこからともなくクリスマスソングが聴こえてきて、ああもうそんな季節だったか、と視線をあげると、真黒な空にちらほらと白いものが舞い始めていた。

 街を行き交う人々は寒さのせいで早足になっているか、あるいはパートナーと親密そうに肩を寄せ合っているかのいずれかで、俺のように歩道の片隅に座り込んでいるようなやつはいない。いや、少し離れた場所に1人だけ――家のない老人が背中をまん丸にして、地面に敷いた新聞紙の上に座り込んでいる。

 俺には今のところ帰る家がある。それでも見た目はあの家なき老人と同じだ。


 寒さのせいか鼻が、つん、とした。


 どうしてこうなったんだろう、と思い返す。

 運動神経抜群の兄への劣等感から勉強に打ち込み、誰もが知る旧帝大に進学した。高卒どころか妊娠をきっかけに高校を中退した両親は、親戚から「お宅の息子は出藍の誉れ」とストレートにけなされても、その意味さえ理解できずににこにこしていた。


 運動神経以外に長所のない兄は、しかし顔はよかったので常に女がそばにいて、大学在学中に恋人と籍を入れた。そのまま企業の実業団に入り、子供が生まれ、たまに俺と顔を合わせては「早くひとり立ちしろよ」と子供を抱きながら得意げに言っていた。

 それでも俺は、三流の名ばかり大学にしか入れなかった兄を見下していたし、そんな兄に影のように寄り添う義姉のことも内心馬鹿にしていた。

 あんな安っぽい家族のどこがいいのか、わからなかった。

 だから、ずっとずっと――そうだ、ずっと頑張っていたはずなのだ。

 兄のようには、父のようには、母のようにはなりたくなかったから。


 なのにどうして俺は今、こうしてホームレスと肩を並べて、惨めに座り込んでいるのか。


 鼻持ちならない兄が死んだのは、俺が大学を卒業して、世界的に有名な外資金融系企業に勤め始めた翌年のことだった。

 確か、ちょうどこんな雪の降る夜のことだったはずだ――兄は雪の積もった道で足を滑らせ、転倒した先にあった縁石で頭を強打し、2週間意識が戻らずそのまま逝った。

 子供のためにクリスマスプレゼントを買いに行く途中だったという。

 まだ、30歳だった。


 そのときの俺は、何を感じていたのか、正直あまり覚えていない。

 ただ若くして喪主になった義姉が泣くまいと気丈にしていた姿と、父の死を理解せず母の膝に縋りつく幼子の声だけは、なんとなく思い出せる。

 両親に似て馬鹿な兄のことは大嫌いだったはずなのに、思い出すのは不思議と幼い頃一緒に遊びまわっていた明るい記憶だけだ。


 兄が死んでから、家は火が消えたようだった。

 明るさだけがとりえの両親は、別人のように無口になり、俺の顔を見ても嘆息するばかりだ。

 そうか、兄ではなく俺が死ねばよかったのか――ひねくれた考えかもしれないが、そのときの俺はそう思ってしまった。

 トンビが鷹を産んだと言われ続けた両親は、無知なりにずっと思うところがあって、ついに鷹を我が子と思えなくなったのだろう、と。


 交際していた相手から結婚をほのめかされるようになっていたこともあって、俺は実家を出て小さなマンションの一室を借り、同棲を始めた。

 24歳で結婚はまだ早い、とあちらの親には少々嫌な顔をされたが、交際相手が妊娠したのを機に籍を入れた。

 妻が子供を産んだあとに、こじんまりとした結婚式を挙げた。

 この頃ようやく両方の親たちとは関係が改善していて――主に孫可愛さからだ――、式にも笑顔で参列してくれた。


 俺は、一流大学を出て世界的な企業に勤めている自分に酔っていた、と思う。妻はそこまで高学歴ではないが、留学経験のある賢い女で、同僚でもあった。

 妊娠を機に退職せざるを得なかったけれど、子供が2歳になる頃には、国内でも名の知れた同業他社への再就職を決めた。

 まさに理想的な家族だ、と思っていた。


 理想的な夫婦のもとに生まれた娘は、恐らく理想的でも特別でもなかったが、それなのに可愛かった。それこそ目に入れても痛くないほどで、離婚して親権を元妻にとられたあと、しばらく生きる気力をなくしたくらいだ。

 職場でも荒れてしまい、その結果いらぬ喧嘩を周囲に売って辞めざるをえなくなったのだが。


 兄が得意げに子供を見せびらかしていた理由が、今になってわかった気がした。


(……なんで急に兄貴のことを思い出したんだろうか)


 今まで、命日になってもほとんど思い出さなかったのに。

 命日。

 そうだ、明日は兄貴の命日じゃないか。


 ふと何かの影がかぶさってきて、手元が暗くなる。

 顔を上げると、あの怪しいおっさんがすぐ目の前にわいて出るみたいに立っていた。


「なんだか大変みたいだな」


 まるでからかうような、それでいてすべて見透かしているような口調に、しかし俺は腹を立てる気力もなかった。

 おっさんがしゃがみこんで、俺と目を合わせる。無精ひげの目立つ顔が、童話に出てくる化け猫みたいににんまりと笑みを作った。


「ドライバーとして最後の仕事だが、行けるかい?」

「……最後?」

「ああ。これを無事にやり遂げられたら、きみをもっといい立場に置いてあげよう。使い走りなんぞではなく、そう、走らせるほうだ」


 なんでもいいや、と俺は何故かおざなりな気持ちで立ち上がった。振り返ると、おっさんの姿はない。

 きっとまた軽バンの助手席に、へたくそなかかしの描かれた箱が置かれているに違いない。

 新聞紙の上で丸まった老人のもとへ歩み寄り、すっかり冷めきった缶コーヒーを彼の前に置いた。老人はしじみのような目に疑り深そうな色を浮かべたのち、一転して媚びるような笑みを浮かべて礼を述べた。



 最後の配送先として指定された場所には、一度行ったことがあった。

 同じ場所に荷物を届けるのはこれが初めてだ。

 おんぼろアパート2階の一番端っこ、階段から一番遠い角部屋の、205号室。

 住民の女の名前は――なんだったか思い出せないけれど。


 深夜1時半。

 スタッドレスタイヤなんて気の利いたものを買う余裕はないので、中古のチェーンを巻いただけの軽バンは、何度か危うい挙動をしながらも、なんとか俺を目的地に連れてきてくれた。

 こんこん、といつかのように控えめに扉を叩くと、ゆっくりと扉が押し開かれた。


「こんばんは。お荷物のお届けです」


 帽子のつばに手をかけて笑顔で告げると、住民の女は長く垂れ下がった髪の間から、探るような目で俺をじっと見つめた。


「……少し、お話していきませんか」


 女は荷物に手を伸ばそうともせずに、ひどくひび割れた声でそう言った。

 いつもならば断わる場面だが、俺が拒めなかったのは彼女が、


「今日は夫の命日なんです」


 なんてことを言ったからだ。



 離婚してから女の家に上がり込むのはこれが初めてだ――というほど色気のある話ではない。

 女は終始うつむきがちで、長い髪で表情はよくわからない。ちらりと見えた顎のラインから察するに、俺よりも5歳かそれくらい年上だろう。丸められた背中のせいで、茶の用意をしている後ろ姿は老婆のようにも見える。

 せっかく女の一人暮らしの家にいるというのに、部屋と女本人から漂う饐えたにおいのせいで、俺の男としての本能は反応できないでいる。


 初めて足を踏み入れた客の部屋は、俺の暮らすアパートと大差のない狭さだった。

 畳敷きの6畳一間に申し訳程度のキッチン。女がお湯を沸かす音と、古い冷蔵庫が低くうなるのが、やけに大きく聞こえる。


 現実味がないほどに物がほとんどない部屋の中で、ひときわ存在感を放っているのは、真っ黒な仏壇だった。彼女の夫を弔うものだろう。

 仏壇の蓋が閉められていたので、俺はとりあえず目礼だけをしておく――名も知らぬ故人の妻の家に上がり込んでいるのだという、妙な罪悪感と、故人に見張られているような緊張感があった。


「粗茶ですが……」


 女が出してくれた茶に礼を述べて口をつけた。

 ひどく苦いし、なんだか生臭いようにも思う。


 女は俺の左隣に腰を下ろした。それだけ近くにいるにもかかわらず、俺には彼女の顔もよく見えないし、体温を感じることもできない。

 エアコンが稼働しているはずなのに、古い建物であるせいかいまいち温まらない――寒い。

 異臭と寒さの中、俺はどうして上がり込んでしまったのだろうと、自分の浅慮を後悔した。


 茶をすすりながらしばらく、2人とも無言だった。

 話をしたいからと俺を引き留めた張本人から話を切り出すべきなのに。

 ちゃぶ台にぺたんこの座布団、それから箪笥と仏壇しかない、女の1人暮らしにしてはあまりに殺風景で生活感のない、それでいて生活の果てを思わせるにおいの立ち込めた部屋。

 髪の乱れた中年の女。


「……夫が死んだ日も、雪が降っていました」


 絞り出すような声が耳に忍び込み俺は、はっ、と女のほうを振り返った。


「……その、ご愁傷様、です」

「…………ありがとう」


 女の視線が仏壇を撫でるように見た。


「……よかったら、ご主人にお線香をお供えさせていただいても?」


 礼儀としてそう切り出すと、女は骨ばった肩をほんの少しだけ揺らした。


「お気持ちだけ頂戴します」


 まさか断られるとは思っていなかったので、俺は居たたまれない気持ちになった。

 それをフォローしようというつもりではなかったのだろうけれど、女が言葉をつなげた。


「私たちには、娘がいたんです」


 娘がという言い方に、俺は少しだけ違和感を覚えてもう一度部屋を見まわした。

 とても子供がいるような部屋とも思えない。

 女は俺の視線に気づいたのだろう、垂れ下がった長い髪の向こうでわずかに笑った気配がした。


「娘は、夫の両親のもとにいます……私が、こんなん、だから」


 こんなん、という意味はすぐに察せられる。よれて黄ばんだ毛玉だらけのセーターに、いつ手入れをしたのかも定かではない脂まみれの長い髪。

 まともな人間ならば、子育てのできる状況ではないと判断するに違いない。


「寂しい、ですよね」


 女のすがるような目から逃れられなかったのは、もしかしたら同病相憐れむというやつかもしれない。俺は思わずそう口にしていた。


「俺も娘がいます。会えないんですけど」

「………どうして?」

「俺が、まあ、別れた嫁さんを殴っちゃって、接近禁止ってのを出されちゃったんですよ。子供の目の前だったもんだから、怖がられちゃって、面会もできなくて」


 話すぎたかもしれない。

 少なくとも女は驚いたのか引いたのか、小さく身じろぎをしてから黙ってしまった。


「すみません、その、嫌な話を聞かせてしまって……」

「いえ…………」


 女は一度うつむき、それから何か言いたげに顔を上げてみせた。


「何度も主人の後を追おうと思いました。でも、娘がいたからできなかった」

「……はあ」

「だけど、今の私にはその娘さえもいない。もう、終わりにしようと思ったんです――でも、未練があって」


 そんなんじゃ成仏できませんよね、と女が声をひきつらせて笑った。

 俺はどうにもそわそわして、残り少ない茶を干した。ねっとりとした茶が喉に絡みつくような嫌な感覚を、この部屋の違和感とともに一息に飲み下した。


「旦那さんは、ご病気だったんですか」

「いいえ、事故でした――いえ、殺されたといっても、いいのかもしれません」


 殺された、とは何とも不穏なことを言うものだ。

 女は一度立ち上がり、新しい茶を淹れて戻ってきた。

 俺は改めて礼を口にして、茶をすする――どういう淹れ方をしたら、こんな漢方みたいな苦さになるというのだろう。

 それでも何故か飲まないという選択肢は、この時の俺の頭にはなかった。


「殺された、というのは、その、交通事故とかそういうことですか?」

「いいえ」


 彼女は、はっきりと否定した。

 その目が一瞬強く光を孕んだように見えたけれど、すぐにそれは暗く萎えていった。


「……いえ、恐らく相手は自分が夫の死に関係していることさえ、知らずにいるでしょう」


 女はやや弱い声音で、ほんの少しだけ泣くのを我慢しているような鼻声で、呟くように言葉をつなげた。


「夫は、雪道で転んで、打ちどころが悪く……その怪我がもとで死んだんです」


 どこかで聞いた話だ、と俺は兄の顔を、次いで喪服姿の義姉の姿を思い浮かべる。

 細い肩を震わせ、それでも娘の母親であるために背筋を伸ばして、泣きもしなかった女。


「では、やはり事故では」

「ええ、警察も、病院もそう言いました。あれは、不幸な事故だった、と」


 だけど、と女が渇いた唇を噛む。ひどくひび割れた声が、わずかに湿り気を帯びて聞こえた。


「夫と一緒にいた方が教えてくれました。酔っ払いが煙草の箱を握りつぶして投げ捨てたんです。夫は、それに気づかず踏んでしまい、ほら、道が雪で滑りやすくなったでしょう? いつもならなんてことのない、よくあるポイ捨てです。夫はその日に限って、古びたスニーカーを履いていて、滑り止めが効かなくて、箱の包装のビニールが……――すみません、ちょっと顔を洗ってきます」


 必要以上に詳しく説明をしているうちに感極まったのだろう、ぐす、と鼻をすすりあげて、女が立ち上がった。

 小さなキッチンの隣の扉の先が、トイレと洗面所になっているようで、大きく水の跳ねる音が響いた。


 ――酔っ払いが煙草の箱を握りつぶして投げ捨てたんです。


 なんとなく俺は彼女の夫が死んだ場面を想像した。

 俺の吸っているのと同じ、白地に星の模様が印字された箱が、道路にほとりと落ちる。

 それを踏みつけた男が、漫画のようにバランスを崩して「あ」と口を大きく開いたまま後ろ向きに倒れていく。

 はらはらと白い雪を舞い落とす真っ黒な夜空が、男の見た最期の景色となったのだろう。


 頭蓋を砕いて鼻から血を流す男の死に顔が、兄のそれと重なった。


(……妙なことを考えるな)


 俺は目を手で覆って頭を振った。

 雪道での転倒なんてありふれた事故だ。

 それで死ぬ人間だって、どれくらいいるのかは知らないけれど、決して珍しいことではあるまい。


 なんとなく尻が落ち着かず、座り直した弾みでポケットの中からスマホが転がり落ちた。

 時間を確認する――深夜2時5分。


 ――2時から2時半までは、特にだめだよ。


 不意に、おっさんから言われた言葉が思い出された。

 2時から2時半といえば……そうだ、丑三つ時だ。

 そのことに気づいて、思わず全身に鳥肌が立った。


 ふと――仏壇の載った台の向こうに、どこか見覚えのあるように感じられる段ボール箱が、隠すように置かれている。

 なんとなく――そう、本当になんとなく気になってしまい、体をねじって箱を覗き込む。

 側面にへたくそなかかしのイラストが描かれている――心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。


(いつだったか、俺が運んだ荷物――)


 半開きになった箱の隙間からは、幼児が好みそうな色合いの、ピンク色の装飾がごてごてとついた細長い棒が飛び出していた。


「それを、夫は買いに行っていたんです」


 女の声に、俺は飛び上がるほど驚いた。

 私物を漁っていたことへの罪悪感、本人に見つかってしまったことへの焦り。

 だが女は俺に頓着せず、傍らに音もなく膝をついて、箱からずるりとその棒を取り出してみせた。変身スティックとでもいえばいいのだろうか、女児向けのアニメに出てきそうなもので、かなり古いものなのか、プラスチックの部分が黄色く変色しているのがわかる。


「娘への、クリスマスプレゼントだそうです」


 女の声は相変わらずひび割れていて、淡々と俺の鼓膜を打った。

 枯れ木のように変色した手で、愛おしげに玩具の持ち手を撫でる。


「これを夫が買ったわけではないのですけれどね。買う前に死んでしまったので……」

「は、はあ……でも、娘さんには渡せたんですね」


 なんのフォローにもならない言葉に女は、しかし、長い髪をだらりとさせたまま小さく頭を振った。


「渡せませんでした……だから、死ぬに死ねなかったんです、私。これが、きっとこれが私の未練だと思って――」

「未練」


 何故だろうか、その単語を聞いた瞬間、俺はこめかみを冷や汗が伝うのを感じた。胃の中で先ほどの茶が急激に腐っていき、鼻から口から飛び出していきそうな、そんな不快感。

 ぐるん、と女が予備動作なくこちらを向いた。

 真っ黒な髪の隙間から、真っ黒な穴ぼこみたいな目で、こちらを向いた。


「あなたは、でしょう?」


 女が慈しむように玩具を撫でている。その乾いた指先が俺の頬を撫でているように錯覚し、俺はかすれた悲鳴を上げた。

 上げたつもりなのに、喉から出たのは枯れ葉がこすれるときに発する音に似た、異様な音だけだった。


「最初に届けてもらったこれが、私の未練だと思っていたけれど、未練ではなかった……だから、考えて、また届けてもらったの」



 



 ごう、と激しい音とともに、狭い部屋を突風が吹き荒れた。

 目が痛くなるほどの腐臭。

 ばさばさと音を立ててカーテンがめくれ、女の長い髪も幕のように広がった。


 今度こそ俺ははっきり、女の顔を見た。


 ぎゅるぎゅると音を立てて記憶が、視界が、映画の逆再生のように巻き戻っていく。

 黒い、黒い、喪服。震える細い肩。白くなるほど握り締められた手。

 幼子の声、坊主の読経。

 安い棺の中で硬く目を閉じた死に顔。

 鼻と口に伸びる白濁したチューブ。

 消毒用アルコールのにおい。

 半ば凍ってじゃりじゃりした雪が覆った歩道、そこに刻まれた長く伸びる足跡と赤い水玉。

 ぺたんこに潰された煙草の箱。

 土埃で汚れて爪先が薄くなったスニーカーが、箱を踏みつけて、ずるりとバランスを崩す。

 雪のちらつく夜の道で、酔った男が何気ない仕草で煙草の箱を握りつぶし、投げ捨てる。

 酔っ払いが振り返る――


 その顔には嫌になるほど見覚えがあって――


「――――――――――――――!!!!」


 俺が、兄貴を殺したんだ。


***********


「こりゃまた変な現場ですねえ――おっと」


 新人刑事が転びそうになって間抜けな声を上げるのを、俺は「荒らすなよ」と咎めた。

 鑑識が作業するのを眺めながら顎をさする。

 それにしても、確かにあいつが言うように変な――いや、異様な現場ではあった。


 現場になったのは、古びたアパートの一室だ。

 住んでいたのは大村という女性で、死後かなりの時間が経過していると思われる――検死はこれからだが、真冬に暖房のついていない安普請の室内で、すでに骨が露出するほど腐敗が進行しているのだ。昨日今日の仏さんではあるまい。

 奇跡的に表情がわかる程度には顔に肉が残っており、壮絶な死体の様子とは対照的に、安らかな微笑みさえ浮かべているように見えた。


 だが異様なのは、彼女の死に様ではない。

 まるで仲睦まじい恋人同士が戯れているかのように、もう一体の死体が転がっていたのだ。

 40がらみの男の死体だ。こちらはまだ死後間もないようで、死者特有の肌色でなければ、眠っているだけと勘違いしそうなほどだ。

 ポケットに入っていた財布から出てきた運転免許証には「佐藤修二」とあった。


「女の方の仏さんの親戚と連絡が取れたそうです」


 新人が手帳に何やら書き込みながら言う。そんなことをしながら歩くから、転びそうになるのだ。

 俺は渋い顔で新人の手から手帳を取り上げた。リスに似た童顔に気まずげな笑顔を浮かべて、新人が精いっぱい背筋を伸ばした。


「親戚つうのは?」

「仏さんのご両親で、ああ、あと娘がいるみたいですね」

「娘? 仏さんの?」

「ええ。旦那さんが死んで、精神を病んで子育てができなくなったから、一時的に引き取ったようです。治ればまた一緒に暮らさせるつもりであったと」


 ああ、なるほど、と俺は部屋を見まわした。

 人間が1人生活していたとは思えないほど物がなく殺風景な部屋だが、キッチンとトイレにだけは使っていた痕跡があって、いずれもいつ掃除したのかもわからぬほどどろどろ汚れ、異臭をまき散らしている。遺体の腐臭と相まって、なかなかにつらい。

 新人が話しながらたまにマスクを押さえているのは、においに耐えかねてのことだろう。


「じゃあまだ娘ってのは小さいのか」

「いえ、もう高校生だそうで。一時的っていってももう10年以上別居してるそうなんで、困惑してたみたいですよ。あまり交流してなかったんですかねえ」

「ふうん」


 新人刑事の手帳には、非常に読みづらい字で、死んだ夫のものと思しき名前も書きこんであった。


「ん?」


 夫の名は「佐藤亮一」。


「あ、男のほうの仏さんと名前が似てますね」

「……だな」


 佐藤亮一と佐藤修二。

 佐藤という苗字はありふれすぎていて、同じだからどうだということでもないけれど。


「……関係、調べるか」


 俺の脳内には、夫の死後、一人遺されて精神を病んだ女を夫の弟が献身的に支え、慈しんでいる図が浮かんだ。

 そうでなければ、絡み合うツタのようにぴったりとつながった2体の遺体の説明がつかない。


「そういえば、あれ、なんなんですか?」


 新人が指す先に落ちているのは、ところどころ茶色く変色した白い封筒だ。

 中には6枚の穴あき硬貨が紐で連ねられて入れられていた。古びた硬貨にはところどころ緑青が浮いている。


「古銭だな」

「コセン?」

「古いゼニだよ。江戸時代に使ってたような。日本史でやらなかったか?」

「あー……すみません、わかりません」


 ぼりぼりと新人が頭をかく。無知ではあっても、わからないことをわからないと言えるのは、この若者の美徳だ。


「ああやってな、一文銭を六枚そろえると六文銭っていってな、三途の川の渡し代にするために、死者に供える風習が昔はあったんだ」

「へえ、よく知ってますね」

「常識だよ、常識」


 とはいえこの世代には、常識というほど知られていないのかもしれない。

 そんな的外れなことを考える俺の耳に、新人ののんきな声がするりと入ってきた。


「じゃあちょうどいいですね」

「ちょうどいい?」

「だって、仏さん2人に、ロクモンセン? が2組。2人分ですね」


 新人の目線の先には、先ほどとは別の白い封筒と、その中からこぼれ落ちた六文銭があった。

 生活感のない部屋の中で、明らかに異質な六文銭。それが、2組も。


 鑑識の作業が終わり、2体の遺体が現場からそれぞれ運び出されていく。

 担架に横たえられた女の遺体が、満足げに笑っているように俺には見えた。


***********


 一仕事を終えて帰ろうとした俺の視界に、大嫌いな男の姿が飛び込んできた。

 帰宅ラッシュのこの時間帯、大した規模の都市ではないとはいえ、ターミナル駅前はそれなりに混雑する。人混みの中に溶けてしまいそうな希薄な気配で、男はどこか消沈した顔をして佇んでいる。

 そんなところに立っていたら通行の邪魔でしかないはずなのに、誰も男を気にするそぶりはない。誰も男の存在を気に留めず、何気ない動きでよけて通り過ぎていく。


 無視して立ち去ろうとしたが、ふと男の顔が上がって目が合ってしまった。

 海外の童話に出てくる化け猫みたいに、男の口がにんまりと裂けて笑みを作った。


「よう」


 ざわざわとうるさい街中で、男の厭味ったらしい声がすんなりと耳に届いた。俺は男を無視するのを諦め、人をかき分けるように彼のそばへと歩み寄った。


「まだ悪さしてんのか、おっさん」

「悪さってな」


 子供のいたずらを咎めるように「悪さ」という単語を使われたことが、男は気に入ったようだ。化け猫の笑みが一層深くなる。


「期待の新人がいたんだがな、だめだったよ」

「……俺んとこにいたやつのことか、それ」


 やめさせないでくれと無様に泣き顔を見せていたドライバーの顔を思い出した。

 この男に魅入られたが最後、もう手の施しようがないからと突き放したが、やはりろくな結末にはならなかったようだ。

 だけれど、仕方がないのだ――沈み込むほどに業の深い人間にしか、この男の姿は見えないのだから。あのドライバーがこの男の姿を見て、会話をしてしまったということは、もうその時点で、手遅れだったのだから。


「そう、おまえんとこから引き抜いた例の下請けドライバーくん。最後の配達を乗り越えられれば、になれると思ってたんだが。思ったよりも脆弱だったのは残念だ」


 俺は思い切り顔をしかめて男を睨みつけた。周りには怖がられる俺の風貌も、この男相手にはまったく通用しないのが癪だ。


「もうそういうのはやめろ」

「やめたい、で辞められる稼業ならとうにそうしてるよ……おまえも、もう少し辛抱して俺についてきてくれたらなあ。いいになったものを」


 男の骨ばった手が俺の肩を叩く。力いっぱい払いのけてやると、男はかえって機嫌よさげに声をあげて笑った。


「まあいつでも戻ってこい。おまえなら歓迎だ」


 男はそう言って、ポケットから取り出したものを不意に俺に向かって投げつけた。赤い組紐でくくられた6枚の古銭が、俺の手の中で硬い音を響かせる。

 いらねえよと投げ返そうとしたときにはもう、男の姿は雑踏に紛れて見つけられなくなっていた。

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未練お届け人 吉冨諒 @noranekoya

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