雁堤の女
増田朋美
雁堤の女
冬がやってきて、寒いなと思われる日であった。もう1日中寒いのかなと思われたが、昼はたいへん暖かく、その割によるが寒いので、それで疲れてしまうという人が続出している。全く、どうしてこうなってしまうのかわからないので、服装などに困ってしまうのである。
その日、杉ちゃんとジョチさんは雁堤という江戸時代に作られた堤防で行われている、直産市を見学するため雁公園に行った。杉ちゃんたちが、用を済ませて、雁公園の駐車場に行くと、一台の車が止まっていた。なんだか、焦げ臭いような変な匂いがしてきたので、杉ちゃんたちは、明らかに練炭を炊いて自殺しようとしているんだと感づいてしまった。これは大変だと思った杉ちゃんは、車の窓ガラスに向かって石を投げて、窓ガラスに穴を開けた。
「こら!そんなことしたらいかん!自分で死のうなんてそんなことはさせないぞ!」
「なんでやっと楽になれると思ったのに邪魔するんですか!」
運転席に座っていた女性は、そう言い返したのであるが、
「馬鹿なことするんじゃないよ!お前さんは、自殺しようと思ってるんだな。それはやってはいけないぜ。」
「そうかも知れないですけど、私は自殺するしかないんです!」
女性はそういうのであった。
「そうかなあ。少なくとも、車を持っているんだから、それを運転してどこかへ行くことができるじゃないか。僕らは、歩けないから、運転なんてできないし、どこかへ行くにも誰かに乗せてもらわないと行けないんだぞ。」
「そうですよ。どうして自殺なんかしようと思ったんですか。そこをちゃんと解決させないといけませんね。ちなみにこの雁堤も、人柱というもので成り立っているんです。生きている人を、地面に埋めて、富士川の氾濫を防ごうとしたんですよ。その人柱になった人は、お坊さんだそうですが、箱に入れられて産められたそうです。彼は、鐘を鳴らし続け、それが21日続いたとかいいますよね。だけど、それは、雁堤が完成するために、公式にやったことであって、あなたのように身勝手に死にたいと言うものではございません。違いをよく考えてくださいませ。」
ジョチさんはそう豆知識を披露した。確かに、この雁堤には、人柱の伝説が昔からあった。しかし、彼女の反応はというと、こうだった。
「それは昔の話ですよね。ブルトーザーもダイナマイトもない頃の、何でも人手でやってたころの話でしょう。そういうときですから、必要ない人がそうやって役に立てたんですよ。でも今は、必要のない人は、どんどん死んだほうが良い世の中です。そうじゃありませんか?」
「そう思うかもしれないけど、でもね、そういう意味で言ったわけではないんだよ。そういうふうにさ、この地域には悲しい過去もあったということだから、やはり人間は生きていなくてはだめだと思うんだよな。ここの人柱になってくれたお坊さんだって、きっと生きたいと思っていたんじゃないのかな?それなのに、みんなのためを思って、自殺したんじゃないのか。それに比べたら、お前さんはあまりにも自分勝手すぎる!」
杉ちゃんがそう言うと、ジョチさんも、
「そうですね、あなたのしようとしていたことは、この富士川の人柱となった人にしてみれば、とても恥ずかしい行為にほかなりません。でもね、自殺しようとするまで追い詰められたことは認めますよ。そういうことなら、多分あなたは、どこへも行くところはないでしょうから、製鉄所で女中さんとして働いてもらいますか。もちろん、壊した車のガラス代はちゃんと払います。」
と、しっかりと言った。
「働くんですか?」
と女性は言った。
「何も大変なことはないよ。ただ、掃除したり、御飯作ったり、水穂さんの世話をしたりするだけのこと。」
杉ちゃんはカラカラと笑った。
「でも私、家事仕事なんてできない。」
女性がそう言うと、
「いや大丈夫だ。そのうちできる様になるから、大丈夫。」
と、杉ちゃんは言った。
「まあそういうことだから、今から製鉄所へ来てもらおうか。それで早速さ、中庭に落ち葉が溜まっちまってるから、それで掃除をしてもらおうぜ。」
杉ちゃんにそう言われて女性は、とんでもないものに出会ってしまったなと言う顔をしたが、小さな声で、
「わかりました。やります。」
と言った。
「お前さんの名前なんていうの?」
と、杉ちゃんが聞くと、
「はい、牧野と申します。牧野やす子。よろしくお願いします。」
と、彼女は名前を名乗ったので、杉ちゃんたちも名前を名乗って自己紹介し、ジョチさんは、名刺を手渡した。それに、福祉法人の理事長と書かれていたので、牧野やす子さんは、更に驚いていた。とりあえず、壊してしまった車の修理代金は杉ちゃんたちが負担することにして、やす子さんは、製鉄所に来てもらうことになった。
杉ちゃんたちは、牧野やす子さんの運転する軽自動車に乗せてもらって、製鉄所へ戻った。杉ちゃんたちは、とりあえず悪いことを考えるやつは腹が減っていると言って、彼女にカレーを食べさせて、お茶も出してやった。杉ちゃんのカレーは美味しかった。牧野やす子さんは、カレーなどレトルトのカレーばかりで、ほとんど食べていないと話した。
「それで、お前さんは何をしていたんだ。なにか仕事でもしていたんだろ?」
杉ちゃんがそう言うと、
「はい。していました。旅館の仲居さんとして、働いていたんです。」
と、彼女は答えた。
「そうなんだ。仲居さんなんて今どきの人手不足で、需要はあると思うけど?」
杉ちゃんが言うと、
「はい。ですが、重大なミスをしてしまって、旅館を退職せざるを得なかったんです。」
と、彼女は言った。どんなことをしたのかとジョチさんが聞くと、
「ええ、エビ・カニにアレルギーのあるお客様に、間違ってエビを出してしまったんです。その時はとても忙しくて、取り違えたことに気が付きませんでした。だけど、あとになって、それがわかって、お客様から、ものすごく叱られました。」
彼女は、申し訳なさそうに答えた。
「はあなるほどねえ。それで自殺しようと思ったんか。まあ、人間だからさあ、そういうすごいこともしでかしちまうんだろうが、それもさ、五秒で忘れると言っていた人がいる。その気持で、頑張れ。生きようとすることを捨ててはいかん。」
杉ちゃんは、そう彼女に言った。
「とりあえず、しばらくここで女中さんとして働いてください。そうすれば、また違った見方が得られるのではないかと思います。」
ジョチさんがそう言うと、牧野やす子さんは、ハイと小さな声で言ったのであった。カレーを食べ終わると、杉ちゃんに指示された通り、庭の掃除を一生懸命始めたのであった。
その次の日のことである。杉ちゃんに、水穂さんにご飯を食べさせてやってくれと言われた牧野やす子さんは、杉ちゃんから渡されたおかゆの皿を持って、水穂さんのいる、4畳半へ向かった。
「失礼いたします。ご飯の用意ができました。」
牧野やす子さんがそう言うと、布団から起き上がる音がした。そしてどうぞという声がしたので牧野やす子さんは、襖を開けて、部屋へ入った。
中にいたのは、思わず皿を落としてしまいそうになるほど美しい男性であった。何でしょうと言われて、牧野さんは一瞬ご飯の用意ができたというのを忘れてしまったほどである。
「あ、あの、あのですね。ご飯の、用意が。」
牧野さんが、しどろもどろにそう言うと、
「昨日から新しい女中さんが来たと聞きましたが、あなただったんですね。どうもありがとうございます。」
水穂さんは彼女に向かって座礼した。
「そんな、頭を下げなくても結構ですよ。それより、ご飯を確実に食べろと理事長さんたちが仰っておられました。」
牧野さんはそう言って、サイドテーブルにご飯を置いた。
「ああ、ありがとうございます。」
水穂さんはそう言って、さじをご飯の中に入れ、おかゆを口にしてくれたのであるが、飲み込もうとすると咳が出てしまって、ご飯を吐き出してしまうのであった。何回やっても同じことだった。牧野さんは、それをわざとやっているのではなくて、やむを得ずやっているんだと感づいた。そして、水穂さんが男性でありながら、女郎さんのように衣紋を抜いている理由もわかったような気がした。
「水穂さんも、私とおんなじようなことで悩んでいたんですか。」
思わず牧野さんはそう言ってしまう。
「ご飯が食べられないのは、自分も存在してはいけないと、自分で暗示をかけてしまっているからでしょう?」
水穂さんは、小さく頷いた。
「実は私も、この世に存在してはいけないんだって、ずっと思ってたんですよ。だって私は、人殺しと似たようなものですよ。エビ・カニをアレルギーのあるお客様に出してしまって、危うく命に関わる騒ぎでしたもの。」
と、牧野さんは、そう言ってしまったのであった。
「そうですか。だけど、あなたは二度と繰り返さないように考えることができるのではありませんか。だから完璧に僕と一緒ではないですよ。」
水穂さんはそう言うが、牧野さんは仲間ができたという気持ちになり、なんだか嬉しそうな顔をした。
「水穂さんは、ご飯が食べられないことを、誰かに見てもらったりしないのですか?」
牧野さんはそう聞いてしまうが、水穂さんは静かに首を振った。
「どうしてです?やはり、してしまったことが大きすぎて私のように立ち直れないのですか?」
牧野さんはそう聞いてみたが、水穂さんは答えなかった。牧野さんは、それを水穂さんが自分の発言と同じだと肯定してくれたんだと思った。なので、それ以上追求することはしなかった。水穂さんは、またおかゆを口にするが、飲み込もうとすると咳き込んでしまう。牧野さんは、水穂さんの背中を擦ってやろうとしたが、水穂さんに振りほどかれてしまった。
「でも、同じことで悩んでいる人がいて良かった。」
牧野さんがそう言うと、
「馬鹿に時間がかかってるな。また食べないのか?」
と言って、杉ちゃんがやってきた。
「ありがとうございます。私と同じように、すごく重大なことで悩んでいる人がいてくれて嬉しいです。」
牧野さんは、水穂さんのことをそういったのであるが杉ちゃんは苦笑いをして、
「まあ、そう思ってくれていいよ。」
とだけ言った。
それと同時に、ジョチさんが、一枚の画板を持って部屋に入ってきた。杉ちゃんが回覧板かというと、そうですと言って、
「実は、最近このあたりで通り魔がよく出るそうなので、気をつけてくれということでした。何でも、ハンマーを持った若い女で、公園で遊んでいた子供さん二人を殴って怪我を負わせたそうです。」
と、回覧板を見ながら言った。
「はあ、また通り魔か。最近くまがよく出るのは聞くが、富士ではくまではなくて通り魔が出るんだねえ。」
杉ちゃんは頭をかじりながら言った。確かに、最近山間部ではくまが人を襲うという事件が頻発している。富士ではくまの被害はまだ確認されていないが、注意してくれと呼びかけられたことはあった。
「ええ。ですから、この周りを散歩される方にも気をつけてもらわないとね。犠牲になったのは、いずれも、5,6歳の子供さんだそうですが、何と言っても、ハンマーを持っていますからね。」
と、ジョチさんは心配そうに言った。
「それにしても、水穂さんは、本当にご飯を食べないんですね。それでは困りますよ。ちゃんとご飯を食べていただかないと。」
水穂さんはうわべだけははいはいと言っていたが、本当はご飯なんて食べたくないんだろうなと、牧野やす子さんは思った。ジョチさんたちが部屋を出ていっても、やす子さんは、水穂さんのそばを離れたくなかった。何故か、水穂さんと言葉を交わしたいという気持ちになったのであった。
「ご飯を食べれないんだったら、運動してみませんか。少し、風を感じて歩いてみるのもいいのではないですか?」
と、牧野さんはそういった。水穂さんがそうですねといったため、牧野さんは喜び勇んで、水穂さんと一緒に、外へ出た。なんだか夢のような時間だと思った。道路を歩きながら、水穂さんといくつか言葉を交わした。自分が仲居として働いていた旅館で、他の仲居さんから、容姿が淡麗でないことを理由に、いじめを受けたこと、お客さんからの注文が多すぎて一人では処理できなかったこと、コンパニオンさんと呼ばれる女性と、客のことで大喧嘩をしたこと。それらを歩きながら全部話したが、水穂さんはそうですかと言って、嫌がらずに聞いてくれたのであった。カウンセリングの先生でもなければ、弁護士のような人でもないのに、水穂さんはきちんと彼女の話を聞いてくれた。それを本当に、牧野さんはすごいと思った。どうして水穂さんにはそんな超能力があるんだろうかと思っていると、突然、道路の向こう側から、女性がやってきた。
「あの、手を洗う場所はありませんか?」
と、女性は聞いた。水穂さんが、公園にならありますよというと、女性は、
「お礼をいいたいのでこっちを向いてください。」
と言った。水穂さんと、牧野さんがそのとおりにすると、女性はいきなり持っていたカバンの中から、ハンマーを取り出した。別に口が耳まで裂けているような、恐ろしい風貌の女性ではないが、彼女こそ恐れていた通り魔なのだとわかった。女性が、ハンマーを振り上げようとしたとき、牧野さんは、女性に頭からぶつかっていつた。それがうまいところに当たったのか、女性のハンマーを落とすことに成功した。牧野さんは、子供の頃に習っていた柔道の技を使って犯人を取り押さえ、その間に水穂さんがスマートフォンで警察に通報してくれたた。牧野さんは、必死な思いで、犯人を警官が来るまで、取り押さえていた。
数分後に、警官がやってきて、犯人の女性を逮捕していった。その女性の顔は、もう魂の抜け殻というような感じになっていた。パトカーに乗って警察署へ連れて行かれるまで、何故か牧野さんも水穂さんも彼女を重罪人とは思えず、仲間のような気持ちで見てしまったのであった。
その女性、石田成美を逮捕したことで、しばらく新聞記事は、そのことばかり報じていたが、やがて報道もしなくなった。もう、石田成美という女性が通り魔事件をやって捕まったことは、忘れ去られてしまった。
ある日、製鉄所に華岡が訪ねてきた。
「石田成美が、今までの悪事を白状してくれるようになってさ。」
と、華岡は杉ちゃんの出したカレーを食べながら言った。
「それがあまりにも身勝手なので俺は呆れてしまってね。なんでも、自分が注目されるには、そうするしかなかったと言うんだ。全くな、子供さんたちに怪我をさせて、ここで働いてくれている女中さんにも大変な思いをさせているのに何だと思ってな。」
「そうなんですね。」
とジョチさんが相槌を打った。それを聞きながら牧野さんは、自分も同じような気持ちを持ってしまっているということを直感的に知った。それでは、自分だって同じことを考えたのではないか。あの時、車で練炭を炊いて死ねば、誰かが自分を見つけてくれるだろうと言う気持ちが無いわけではなかった。もちろん自殺を邪魔されるのは嫌だったけれど、それを見てくれる人は欲しかったのだ。
「きっと、加害者の石田成美さんも、私と同じような感情を持っていたのではありませんか。私は、仕事でミスをしてしまって、もう世の中嫌だと思って、それで自殺しようとしてしまったんです。だけど、その人は、逆に人に復讐してやろうとか、そういう気持ちだったんじゃありませんか?」
思わず、華岡たちに、牧野さんはそう言ってしまった。
「そうですね。きっと、寂しい気持ちをわかってくれる人もいなかったんでしょうね。だから、他人を傷つけてしまったのでしょう。」
ジョチさんがそう言うと、杉ちゃんがでかい声で、
「でも、お前さんは違うよな!」
と言った。そうだなと牧野やす子さんは思った。自分には水穂さんがいる。ああして話を聞いてくれなかったら、今頃ここにいなかったかもしれない。水穂さんは、自分の話を肯定もしなければ否定もしないでただ聞いてくれただけなのだったが、それがどんなにすごいことなのか、それは他の人にはわからないだろう。
「石田成美は、学校でもいじめられて友達はなく、家でも、不自由な暮らしをしていたそうだ。いわば、話せる人など誰もいなかった状態らしい。それでは、行けないよな。そうなると、ああして事件を起こしてしまうんだよ。」
華岡は、考え込むように言った。
「何でも、あの事件を起こした動機として、石田成美は、自分に注目してほしくて、事件を起こしたと言っている。寂しかったからだと。」
「そうなんだねえ。そう思うんだったら、いっそ、誰かのために役にたつようなことをすればいいと思うんだが、そういう気持ちにはなれないんだな。人間って不思議だねえ。」
杉ちゃんと華岡がそう言い合っているのを聞いて、牧野やす子さんは、あの時ジョチさんに聞かされた、雁堤の人柱のことを思い出した。人柱になったというお坊さんは、寂しいとか、そういう気持ちがなく、充実して生きていられたから、そういう事業を引き受けることができたのではないか。それができていないと、先程の石田成美さんのような、事件を引き起こしてしまうのではないか。周りの人間関係とか、そういうものが充実している人でないと、人間、人のためにはなれないのである。
「なんで、人間は、寂しいと悪い方へ悪い方へいってしまうのでしょうね。何処かで誰かが止めてやらないと、人間はどんどん悪い方へいってしまうのですね。」
牧野やす子さんは、そう華岡たちに言った。
「そうなるのもある意味仕方ないな。人間と言うもんは、人の間と書くんだし、それを無視しちゃったら、やっぱり、意味がないよ。」
と、杉ちゃんがそういうのだった。
「だからあたしは、いい人に出会えて幸せだと思わなければならないんですね。」
牧野やす子さんは、そういった。杉ちゃんたちはやっと気付いたかという顔をして、一言、
「そうだよ。」
と言ってくれただけだった。
雁堤の女 増田朋美 @masubuchi4996
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