僕らは雪道を逃亡する。落語を聞きながら。

花澤しらたき

第1話 借金と噺の日常

1999年の冬。俺は夜の歌舞伎町を足早に歩いていた。

マフラーと白い息が後ろにたなびいていく。


イルミネーションやツリーは少なく、代わりに風俗店のチラシや電柱広告が街を埋め尽くし、「クリスマス特別サービスしますよぉ!」とキャッチの男がサンタの格好で声を張り上げていた。もう何年も前から外国人女の店ばっかりだ。すでにこの街の夜は、「国際色豊か」になっている。



俺はMDウォークマンのイヤフォンで賑やかな街の音をシャットアウトし、雑踏を小柄な体で縫うように歩く。耳のイヤフォンからは三代目志ん朝の、低く渋い声が聞こえて身体に響く。


『……ふと、足元に黒いもんが落ちててな。革の財布だよ。開けてみりゃ、中に金がぎっしり……五十両!』


この頃の俺は、借金のカタにパチンコのサクラや打ち子の仕事をしていた。大抵そのまとめ役は後ろ暗いお仕事されてる方で、俺を呼び出したのも【ヤ】のつく特殊なお仕事の人だ。

こんな稼ぎ方ではあったが、先日無事に悪徳金融にすべて借金を返したのだ。そろそろ危ない仕事から足を洗おうと思ったところに、この呼び出しだった。

スカジャンの裾を翻して、事務所の階段を上り始めた。階段の軋みが、胸に響く。


『……家に飛んで帰って、女房に言うんだ。"おい、これ見てみろ! 金だ、金!"……』


志ん朝の演じる勝五郎の息を切らしたような職人技な喋りを消すのは惜しいが、怖い人の前で両耳にイヤフォンしたまま平気でいられるほど、俺の心臓には毛は生えてない。スカジャンのポケットにMDを突っ込み、トートバッグを肩に掛け直す。少し深呼吸すると、白い息が震える。

それから事務所の扉をノックして、中の返事を待つ。周囲のガラケー着信音や日本語ではない言語のざわめきに混ざって、「入れ」ってガラガラした声がした。


「……お邪魔しますー。山本さん、用ってなんすか」

「おお、南雲か! 早かったな! まあここに座れよ」


そう広くない事務所には、俺に仕事を直接割り振っていた山本の他に、日本人っぽくない女と浅黒い肌をした細身の男がいた。女は見たことがなかったが、男は何度かこの事務所で顔を合わせたことがある。山本の付き人のような男。外国の言葉でもカタコトでもなく、流暢な関西弁をしゃべっていた気がする。

なんとなく男に会釈をすると、にこやかに会釈が返ってくる。男はキッチンへ動き、なにかを用意してくれるようだ。

俺は、そのまま山本の指したソファに腰掛ける。

向かいのソファに山本と女が座っていた。空気が、重い。


「あー、言っとくけど、俺の女じゃねえよ?」

「……知ってますよ。山本さんの好みはグラマーな歳上美女でしょ?」

「もちろん、マリアちゃんも可愛いけどな。これから一緒にお仕事する相手だからよ。」


山本が女の肩に手を置くと、彼女は俺に向かってお辞儀をした。


「マリア、がんばって、オシゴト、するヨ。よろしくネ」

「そうだ、マリアちゃんに出来るだけ頑張ってもらいたくてな。それで―――南雲って結婚してなかったよな?」

「えっ?はぁ……してないッスけど……」

「どうだ? マリアちゃんと結婚してくれねえかな?」


浅黒い肌の男が出したコーヒーを受け取り、飲もうとしたがさすがに咽る。突拍子のない言葉が聴こえた気がする。


「なっ、何言ってるんすか?!無理っすよ!」

「実際にしなくても、戸籍を借りるだけだ。偽装のヤツ、だ。礼金にこれくらいは用意するぞ」


山本の指が3本立てられる。

その指が、太く、威圧的だ。


「……えっ、30マンッスか?」

「馬ッ鹿野郎!銃じゃあるめぇし、そんなに安くねえよ。三百だ、三百。」

「さんびゃっ……!」


偽装結婚に300万は高いけど、その前の拳銃30万にも驚き口を抑える。えっ、安すぎる……。とは言え余計なことは、ここで声に出さないほうが良い。

汗が、背中を伝う。


「 あー、いや、申し訳ないんすけど……。借金はもう返したんで、そろそろ実家に帰ろうと思ってるんですよ」

「そうかー。だが、今、ちょうど戸籍空いてるやつがあんまいなくてなあ……。実家、遠くても構わないんだぜ? 新潟だろうがよ」


しばらく山本に偽装結婚のメリットを滔々とうとうと説明されるが、これ以上ヤバ目なオシゴトを受けたくなかった俺は冷や汗をかきながら断り続ける。

心臓が、早鐘のように鳴る。


「あー、そこまで言うなら無理かぁ。おっしゃ、南雲は今の話は忘れてくれよな?」

「はい、もちろんですよ、山本さん」

「――景は無理なんだったか?」


山本は振り向いて浅黒い肌の男に声をかける。キッチンで洗い物をしている彼は、水道を止めて話に加わる。水滴の音が、妙に響く。


「無理ですわ。俺、戸籍どうなってるか分からへんのですわ」

「だが、母親はまだいるんだろ?」

「家を出て、何年経ってると思てるんですか? 今更、オカンなんて会われへんですわ。それにうちオカンはちゃんとしてない人やから、最悪、もう勝手に戸籍が埋まっでるかも知れへんですし」

「そういうこともあるかもなあ。―――景は大阪だったか?」

「いえ、京都ですわ。生まれも育ちも。こんなナリやけど、京都弁しか喋られへんのですわ」


ニコリと笑う景と言う男は、なるほど、京都出身だからなんとなく柔らかい……いわゆる"はんなり"しているのか、とコーヒーのお代わりを頂きながら思う。

目の前のマリアという女は、猫舌なのかコーヒーカップにふうふうと息を吹きかけている。

この子の出身はどこかなとぼんやり思うと、彼女と目が合った。とりあえず俺は曖昧に笑う。

笑い返してくれたマリアは、ずいぶん幼く見えた。さすがに、こんな子供と偽装とは言え結婚は考えられない。


「アイツはダメなんですか?」

と、俺をこの事務所に紹介してくれた男の名前をあげた。大学で知り合った俺をパチンコ連れて行った元凶の友人。大学も中退し借金まみれになった俺を、稼げると事務所に連れてきたヤツだ。たぶん借金は俺よりかなり多いはずだ。


「ああ、アイツは……――まあ、別件で、な。しばらく連絡取れないだろ?」

「あー確かに、最近ケイタイが繋がらないですねえ」

「今はきっと無理だなあ」


山本の濁し具合で、あまり突っ込んで聞かないほうが無難かと思い口を噤むと、一瞬の沈黙が生まれる。


その時に俺の背にしていた、入り口のドアが乱暴に開く。金属の軋みが、骨まで震わせた。


「――ヤマモト!!!Die!!!!シネ!!!!」


聞き慣れない訛ったような言葉と共に、男が乱入してきた。黒いコート、目が血走ってるのが見え、男の右手が、素早く上がる。

そして、間の抜けたパンッという音がした。


山本の額に赤い穴が空くのを見て、それがサイレンサーのついた銃で撃たれた音なのだと悟る。鉄臭い匂いが、瞬時に広がる。

まるでスローモーションで山本の目が虚ろになっていくのが見え、血しぶきが俺のスカジャンに飛び散る。温かい飛沫が、頰を打つ。


「伏せろっ……!」


混乱の中、景の声に俺は床に伏せ、目の前の少女を引きずる。彼女の体が、軽く、震えていた。

目を閉じると、後ろで鈍い音が数発し、何かが割れる音。最後にさっきと同じパンッという音がした。

ドサリと崩れる音も聞こえた気がするが、自分の心臓の音のほうが大きく聞こえる。


「―――オニイサン、敵、やつけたヨ……」


マリアの声に目を開いて振り向くと、景が拳銃をハンカチで丁寧に拭いているところだった。足元には血を流している男がいた。その体が、痙攣してる。

景はよく拭いた拳銃を、倒れている男に握らせていた。その手が、わずかに血で汚れている。

景の目が、俺を捉える。冷静だ。だが、額に汗が光るのが見えた。


「そのうち、 上手くやったか確かめに誰か来るかもしれん。とりあえず逃げよ、嬢ちゃん兄ちゃん。外や」


景の言葉に、体が勝手に動く。自分のトートバッグを右手に、マリアを左手につかむと事務所から逃げ出した。

前を走る景に付いていくと、路地に停まった傷だらけの古びたハイエースのドアを開ける。エンジンの匂いが、鼻を突く。


「この車は?」

「山本さんの車のひとつや。午前中使ったから、ちょうど鍵を預かってて。お前、運転できる?」

「え、まあ」

「俺、今ちょっと、運転できへんかも――手が、止まらへん」


弱々しく笑っている景の手を見ると、細かく震えていた。

――そりゃ、そうだ。殺したばかりだ。俺も、巻き込まれた。

俺は頷いて運転席に乗り、景は助手席、後ろにマリアが乗った。ドアの閉まる音がする。


アクセルペダルを踏み込むと、ハイエースはエンジン音を咆哮し、俺たちの逃亡劇が始まったのだ。


――雪の予感が、街を覆い始める。



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僕らは雪道を逃亡する。落語を聞きながら。 花澤しらたき @waniyukimaru

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