ホワイトムスクのラストノート~好きが言えない2人~

 蛍雪

第1話仮初めの同居

 恋は甘くてキラキラしたモノだと思っていた。

一度燃え上がってしまえば苦くて消えない焦げになると知るまでは──




 心臓が激しく脈打つのは走っているせいか、それともあんな光景がフラッシュバックしたせいか、おそらくは半々だろう。


 深夜3時、私、浅野鈴音あさのすずねは小雨の中、路地裏を傘もささずに走っていた。

この先の店を目指して。


 ムーディーな照明が漏れ出るバーのドアを開けると、アルコールとホワイトムスクの香りが鼻腔を擽る。

 

 ドアベルの音に気が付いたバーテンダーと目が合った次の瞬間、カウンター越しに顔に向かってタオルを投げつけられた。


「拭け。店内を汚すんじゃねぇ」


 低く尖った声で吐き捨てたのは三原楓みはらかえで この店の店長で大学時代の先輩だ。

 



「先輩…またダメでした」

「今回は?」

「…浮気です」

「相変わらず見る目ねぇな、お前」


 雨粒を拭い去り、注文したホットワインを片手にポツリと溢した弱音を先輩は事もなさげにバッサリと切り捨てた。


 男を見る目がないのは事実だから耳が痛いけど、もう少し優しくしてくれてもいいのにと思う。

 

 先日、私が久しぶりに定時で帰ると玄関に知らないピンヒールが置かれていた。

悪い予感の答え合わせをするように寝室のドアを開けると、知らない女が彼氏と交わっている所に鉢合わせた。

その光景が度々脳裏をよぎっては吐き気を覚える。


 先輩は私の視線を避けるようにグラスを磨きながら口を開いた。


「そいつと同棲してたんだろ。今はどうしてんだ?」

「会社近くの快活に泊ってます。新居の入居日が月曜なので」


 私の答えに先輩は何も言わず、カクテルを作り始めた。

窓を打つ雨音とテンポの良いシェイカーを振る音だけが2人きりの店内にこだまする。


「これは?」

「リラックス効果がある」


 私がグラスを受け取ると先輩は目線を落としたまま静かに言った。


「入居日まで私の家に泊めてやる。くだらない男の話をしないなら、な」

「え?良いんですか」

「…嫌ならいい」

「いえ!泊めさせてもらいます。よろしくお願いします。」


 今は1人でいたくなかったから、これ以上に嬉しい誘いはない。

やっぱり、ここに来てよかった。


「飲み終わったら帰りの支度をしろ。閉店する」


 


***




 店を出た頃には雨は止んでいた。


 私服に着替えた先輩に連れられて10分程歩く。

到着したのは古びたアパートの1階の角部屋だった。


 玄関を開けると、まるで自身のテリトリーを主張するかようにホワイトムスクの香りがした。


 室内は綺麗にモノトーンでまとめられている。

物が少なくて生活感があまりない、ミニマリストってやつだろうか。


「先輩らしい良い部屋ですね」

「お世辞はいい、何か飲むか?」


 先輩が開けた冷蔵庫の中には所狭しと酒瓶が並べられていた。


「先輩と同じやつをお願いします」

「わかった」


 先輩がダイニングテーブルにグラスを2つ置いて、私に向かいへ座るように促す。


「ありがとうございます」

 

 苦い記憶と一緒に液体を流し込み、しばらくの沈黙を誤魔化す。

 

「それで…お前、これからどうするんだ」

「明後日の午前中に元彼の家から荷物を持って来ようと思います。それ以外は特に」


 あの家には1秒も居たくないけれど私物をかなり置いてきてしまったから取りに行かざるを得ない。合鍵も返さなくちゃいけないし。


「なら私も行く。車出してやるよ」

「え?」

「浮気野郎と2人で合わせたくない」

 

 先輩らしくない直球な物言いに思わずドキっとした。

 

「家を空けてもらうので彼と顔を合わせることは無いですよ」

「なんで浮気する奴の言うことを鵜呑みにするんだよ。バカ」


 相変わらず口は悪いけど、全部私のことを想っての発言だから愛されてるなぁ、と今だけ自惚れてみることにした。


「なに二ヤついてんだ。気持ち悪ぃ」

「ひど…」


 私の抗議を無視して先輩は和室の布団を広げて寝転んだ。


「もう寝る」

「じゃあ、私も…あれ?他に布団は?」


 布団は見る限り、先輩が寝ている1枚しかない。


「これしかない。嫌なら床で寝ろ」

「えぇ…わかりましたよ。ちょっと詰めてください」

 

 布団に入ると先輩とホワイトムスクの香りが混ざった匂いがする。

安心する香りと疲れと酒が入れ交ざり、ウトウトする間もなかった。




***




 午前7時、習慣的に目が覚めてしまったので朝食を作ることにした。

布団を抜け出し、襖を静かに閉めて冷蔵庫を開けると少しの調味料と酒しか置いてない。


 炊飯器も置いてないし先輩の食生活が心配になる。


 玄関のラックにかけられた鍵を拝借して近場のコンビニへ食材を買いに行くことにした。


 先輩の家には電子レンジも電気ケトルも置いていないので自動的にフライパンとやかんがあれば作れるものに選択肢が絞られる。


 結局私は数種類の野菜とホットケーキミックス、鶏卵、牛乳を買って帰ることにした。


 バックを持って来るべきだった。重さで伸びたビニール袋の持ち手が指に食い込んで痛い。


 ドアを静かに開閉して家に入り、さっそく準備に取り掛かる。


 サラダの準備が終わったところで背後の物音に振り返ると、寝ぐせのついた髪の先輩が欠伸をしていた。


「おはようございます。起こしちゃいましたか?」

「早えーよ何してんだ、お前?」


 先輩が乾燥した喉で不機嫌そうに呟く。


「ホットケーキを焼いています。もう少し待って貰えますか?」

「…ならシャワー浴びてくる」


 先輩はフラフラとした足取りでシャワールームへ向かう。


 彼女が戻って来てから朝食を2人で黙々と食べた。


 空いた食器を片付けていると、先輩が煙草を吸いながら聞いてきた。


「お前、今までの男にも朝飯作って、片付けまでしてやってたのか?」

「え?はい」

「ダメンズメーカー」


 自分のついでに先輩の分も一緒にやっているだけなのに。心外だ。


「先輩はどうなんですか?」

「は?」

「好きな人の為は色々やってあげたい、とか思わないんですか?」


 あれ?これじゃあ私が先輩を好きみたいじゃん。いや、先輩として好きだけども。


「さぁな……二度寝する」


 先輩は気まずい沈黙を破るように襖の奥に行ってしまった。


 先輩が再び目を覚ましたのは17時前だった。

のそりと起きたかと思えば、そそくさと準備を済ませて出勤してしまった。


 1人になった部屋で私は近くのコンビニで買ってきたジャージに着替えて先輩の匂いに包まれて寝ることにした。


 大学時代から変わらないホワイトムスクの香りに。 










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