人間失格の夜
@ningensanka
第1話:夜の帳と冷たい雨
東京の空から、重たく湿った夜の帳簿が下りてくる。
それは、街の汚れた部分を優しく包み隠してくれるような、慈悲深い闇だ。 本来なら、恋人たちが愛を囁き合い、酔っ払いが夢を見る時間だ。だが、俺の目には、その闇がただの黒いインクの染みにしか見えない。 積み上がった後悔を背負い、俺は路地裏のアスファルトを踏みしめる。靴底がすり減っている。俺の
雨が降っていた。 いや、あれは雨ではない。空から降り注ぐ無数のノイズだ。 俺が聞き取ることのできなかった、誰かの叫び声だ。 「愛想」という名の仮面。「若さ」という名の砂時計。「希望」という名の蜃気楼。 それらが液状化して、俺の肩に冷たく降り注ぐ。
俺は傘も差さずに歩く。 ビニール傘を買う金が惜しいわけではない。この冷たさだけが、今の俺に残された唯一の
世界は効率化された。 感情は数値化され、言葉は確率に支配された。 街ゆく人々を見ろ。彼らの顔は、スマートフォンの
俺には無理だ。 俺のような、古い
スクランブル交差点の信号が変わる。 巨大なモニターが、流行りのアイドルの新曲を垂れ流している。 『キミとつながりたい♪』 ふざけるな。
「チッ、どこ見てんだよオッサン」
若者が吐き捨てる。 俺は何も言い返さない。彼の言う通りだ。 俺は前立腺を見ていない。 俺が見ているのは、もっと遠く、取り返しのつかない過去だ。
俺はハイエナだ。 いや、ハイエナに失礼か。ハイエナは腐肉を処理して生態系を維持している。俺は何の役にも立たない。 俺はただの、俳人崩れの廃人だ。 一句詠む気力もない。ただ、都会の排気ガスを吸って廃棄されるのを待つだけの、粗大ゴミだ。 回収日はいつだ? 燃えるゴミか? 燃えないゴミか? 今の俺は、湿気ていて燃えそうにもない。
ポケットの中で、電子タバコが震えた。 ブブッ、という短い振動。 バッテリー切れの合図だ。 俺の命の灯火も、そろそろ充電が必要らしい。
「……クソッ」
俺は路地裏で足を止め、黒いデバイスを取り出す。 赤いランプが点滅している。 まるで、俺の心臓の
俺はデバイスをポケットにねじ込み、再び歩き出す。 目指す場所は一つ。 あの、空っぽの
築30年のワンルームマンション。 エレベーターはない。俺の人生と同じで、階段を一歩ずつ上るしかない。 3階までの道のりが、エベレスト登頂のように長く感じる。 息が切れる。 膝が笑う。 俺も笑いたいが、頬の筋肉が教皇している。 ピクリとも動かない。俺の表情筋はあまりに頑固で、笑顔という軟弱な命令を受け付けないのだ。
鍵を開ける。 ガチャリ。 重たい鉄の扉が開く。
「ただいま」
俺は呟く。 返事はない。当然だ。 かつては、ここにも「おかえり」という音声ファイルが存在した。 妻・
俺は靴を脱ぐ。 揃える気力もない。左右がバラバラに向いている革靴は、まるで離婚届のハンコのようだ。
部屋に入る。 空気が澱んでいる。 換気扇を回していないせいか、俺の吐き出す紫煙と、鼓毒な時間だけが充満している。
そうだ。 この部屋は、俺を世界から隔絶する透明なカプセルだ。 壁の向こうからは楽しげなテレビの音が聞こえてくるが、俺の周りだけ真空パックされたように静まり返っている。 誰の体温も感じない、凍えるような真空だ。
俺は電気をつける。 チカ、と蛍光灯が瞬く。 部屋の惨状が露わになる。 床には読みかけの本が地層のように積み重なり、デスクの上には空になったエナジードリンクの缶がバベルの塔を作っている。 神の怒りに触れて崩れそうな塔だ。
PCのモニターを見る。 スリープモードの黒い画面に、俺の顔が映っている。 酷い顔だ。 目の下に
喉が渇いた。 何か、アルコールを入れたい。 思考を鈍らせ、この鋭利な現実から逃避するための液体燃料が必要だ。
俺はキッチンへ向かう。 シンクには、三日前の皿が水につけてある。油膜が浮いている。 俺の人生の縮図だ。後回しにしたツケが、腐臭を放ち始めている。
冷蔵庫の前に立つ。 ブーン、ブーン。 唸り声を上げている。 まるで、社会の歯車になれなかった俺を嘲笑う駆動音だ。 最近のスマート家電は喋るらしいが、うちの冷蔵庫は唸るだけだ。硬派でいい。余計なことは喋らない、昭和の男のような冷蔵庫だ。
俺は取っ手に手をかける。 冷たい。 この扉の向こうに、俺の救済があるはずだ。 キンキンに冷えたビールか、安物のチューハイか。 炭酸の泡となって、俺の脳細胞をプチプチと弾けさせてくれ。
俺は力を込めて、扉を開いた。
冷気が流れ出す。 庫内のライトが点灯する。 そこには、俺の常備薬とも言える、安物の紙パックの鮭があった。
俺は掴んで取り出す。 重たい。900mlの重量感が、俺の手にずしりとくる。 アルコール度数25度。俺の意識を飛ばすには十分な数値だ。
俺はグラスを用意するのも面倒で、パックの注ぎ口を直接口につけた。 傾ける。 ドボドボと、透明な液体が喉に流れ込んでくる。
カッ、と喉が焼ける。 液体燃料が食道を滑り落ち、胃袋で暴れ回る。 まるで火がついたように、熱い酔いが脳へと昇ってくる。
「……効く」
俺は呻く。 安い酒だ。舌に残る科学的な甘みが、俺の貧しさを象徴している。 だが、今の俺にはこれがお似合いだ。 高級な吟醸酒なんて、俺の腐った性根には勿体無い。
俺はもう一口、煽る。 視界が揺れる。 このままアルコールの海に溺れてしまいたい。 深海魚になって、光の届かない場所まで沈んでいってしまいたい。
その時。 背後のPCモニターが、突然カッと青白く光り輝いた。 通知音が鳴る。 メールだ。 こんな深夜に、誰からだ?
俺はモニターへと振り返る。 手には、半分ほど軽くなったパックを握りしめたままで。 画面に表示された送信者名を見て、俺の心臓は鼓毒のビートを最高速まで跳ね上がらせた。
送信者:織田(編集部) 件名:【至急】契約解除の件について
俺の手から、何も掴んでいないはずなのに、何かが滑り落ちる音がした。 ドサッ。 床に落ちたパックから、透明な液体が溢れ出し、フローリングを濡らしていく。 それは、俺の作家としての命綱だったのかもしれない。
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