800mlの証言

水梨五月

800mlの証言

 期末試験明けの、じめりとした火曜日だった。 六月特有の重たい湿気が、古い体育館の床に張り付いている。窓の外はまだ薄暮の名残があるが、館内はすでにオレンジ色の水銀灯が頼りなく照らしていた。


 遠藤涼花えんどうすずかは、バレーボール部でリベロを務める高校二年生だ。他の部員たちは、今日の練習を終え、とっくに帰路についている。しかし涼花は、一人、コートの隅の壁際で自主練を続けていた。


 この練習は、壁に向かって自分でボールを強く打ち付け、跳ね返ってきたボールをレシーブで正確に返すという、リベロにとって最も基礎的で、そして孤独な「壁打ち」だ。


「よし、あと十回。十回だけしっかり。」


 独り言は、がらんとした空間に吸い込まれ、すぐに消えた。ボールが壁に当たる「パン!」という乾いた音と、それを涼花が受ける「ドン」という鈍い音だけが、天井まで届いては、間を置いて「ドオォン」と体育館全体に反響する。


 涼花の足元には、彼女の相棒とも言えるものが置かれていた。大容量の800mlのクリアなペットボトル。カバーも付けずにそのまま置かれているため、中に入ったスポーツドリンクの薄い青色が、蛍光灯の光を反射して不気味に光る。


「あ!ダメダメ!」


 最後のレシーブが乱れ、ボールが勢いよくサイドラインを割った。涼花は息を弾ませながら、ボールを拾いに歩き出す。


 その瞬間だった。


 誰もいないはずの体育館の奥、雑具室の裏側、普段使われない古びた跳び箱や平均台が積まれた一角から、微かな、しかしはっきりとした金属音が聞こえた。


 ――チリン……


 一瞬、涼花は動きを止めた。心臓がドクンと跳ねる。 涼花は壁打ちの壁際から、コート中央を横切り、音のした方向に目を凝らす。体育館の隅は光が届かず、深い影になっている。


「猫かな……?」


 古い体育館には、ときどき野良猫が迷い込むことがあった。涼花はそう結論づけようと努めたが、その音は、猫の立てる音としてはあまりに繊細で、どこか切ない音色を持っていた。


「気のせい、気のせい。」


 涼花は首を横に振り、壁打ちの場所に戻って次の練習を始めようとした。


 そこで、足元のペットボトルに目が留まる。


 キャップは、練習開始時にきっちり閉めたはずだ。確かにきつく締めた、あの「カチッ」という感触を覚えている。だが、ボトルの中のスポーツドリンクの液面が、どうにも低い気がした。


青い液面は、内側から誰かに撫でられたように、わずかに下がっていた。


 練習を始めた時は、飲み口から二センチ下あたりまでドリンクが入っていた。それが今、計ったようにさらに一センチほど減っている。


「え……嘘でしょ。私、飲んでないのに…」


 涼花は焦燥感に駆られ、キャップを緩め、ゴクリと喉を鳴らしてスポーツドリンクを飲んだ。喉は渇いていた。そして、この「減っている」という事態よりも、自分が今感じている既視感のほうが、涼花を強く不安にさせた。


 それは、まるで誰かが、涼花が休憩に入る前に、そっと喉を潤した後のように見えたのだ。


 翌日も、涼花は自主練に残った。昨日の現象を確かめるために。


 部員たちが帰ると、涼花はまず、二階のギャラリーや用具室の扉が全て施錠されていることを確認した。体育館に残っているのは自分一人。周囲の静寂は、耳鳴りのように響く。


 涼花はあえて、昨日と同じ壁際に800mlのペットボトルを置いた。そして、壁打ちを始めた。壁にボールが当たる音が、静けさを切り裂く。


 五分、八分……。汗が目に入りそうになる。


 そして、十分が経過した頃。


 昨日の場所とは少し違う、しかしやはりコートの端、誰も近づかないベンチの裏側から、微かな鈴の音が聞こえてきた。


 ――チリ……リーン……


 涼花は、今度は練習を中断しなかった。全身の毛穴が開くような戦慄を感じながらも、視線だけを音の方向に向け、腕の動きを止めずに壁打ちを続ける。


 音は、一定のリズムを持たない。ときおり途切れ、また再開する。まるで、誰かが静かに移動しながら、その鈴を揺らしているように。その鈴の音は、壁打ちの音の合間に、まるで囁きのように聞こえてくる。


 涼花は、その音の正体が分かっていた。分かってしまったのだ。


 それは、星野紗季ほしのさきの音だった。


 ――星野紗季


 涼花の幼馴染で、親友。そして、昨年の夏に校外で起きた交通事故で亡くなった、元バレー部の絶対的エース。


 紗季は、部活用の大きなスポーツバッグに、小さなエナメル製のキーホルダーを付けていた。それは、ピンク色のバレーボールのチャームが付いた、ごく普通のキーホルダーだったが、揺れるたびに「チリン、チリン」と、他の鈴とは違う、高くて澄んだ音を立てるのが特徴だった。


 涼花は、壁打ちの動作を止め、地面にへたり込んだ。練習の疲れではない、純粋な恐怖で息が詰まる。壁に打ち付けたボールが、虚しくコートを転がっていく。


「紗季……なの?」


 体育館のどこからも返事はなかった。ただ、古びた体育館の換気扇が回る「ゴオォォ」という低い唸りだけが、その問いに答えるように響いた。


 涼花は震える手で、足元のペットボトルを拾い上げた。


 案の定、中のスポーツドリンクは、練習前よりも一センチほど減っている。


「飲んだの……?誰が飲んだの……?」


 涼花は思わずペットボトルを床に落とした。スポーツドリンクが床にこぼれ、ひどく冷たく感じた。


 しかし、その場に留まろうとする力が涼花の中に働いた。もし、本当に紗季なら、紗季はなぜここにいるのだろうか。何が言いたいのだろうか。


 涼花は、この夜から、決意を固めた。この異変を、紗季との最後の対話の機会として受け入れることを。


 翌々日。自主練。


 涼花は。授業を録音するために使っているICレコーダーを取り出した。手のひらに収まるほどの小さな機器。それを、テープで800mlのペットボトルの底にしっかりと固定した。録音ボタンはオンにしてある。


「ごめんね、紗季。でも、私はこれが誰の仕業か、はっきりさせたいの。」


 独り言を言いながら、涼花はペットボトルをいつもの壁際に置き、深呼吸を一つ。


 この日、涼花は、もう一つの決意を固めていた。


 家を出る前、涼花は自宅の自室のクローゼットの奥の、古びたチェストの一番下の引き出しを開ける。その奥には、小さな布製のポーチがあった。ポーチの中に入っているのは、一年間、涼花が封印していたものだ。


 それは、紗季の葬儀の後、「涼花に持っていてほしい」と紗季のお母さんから託された、紗季の部活用のキーホルダー。


 涼花は、そのピンク色のバレーボールのチャームが付いたキーホルダーを取り出した。大切すぎて、そして、それを見るたびに紗季が亡くなった日の罪悪感が蘇るから、涼花はキーホルダーを身につけることも、日常で目に触れる場所に置くこともできなかった。まるで、自分が幸せになることを許せないように、紗季の思い出を自ら遠ざけていたのだ。


 そのキーホルダーを、涼花は今日、あえて部活バッグに付けてきた。


「練習開始!」


 涼花は、昨日までよりもずっと激しく、がむしゃらに壁打ちを続けた。壁に当たる「パン!」、受ける「ドン!」。自分の動く音で、他の音が聞こえないように。恐怖を、運動の激しさでねじ伏せるように。


 五分が経過。涼花の息遣いが荒くなる。


 壁打ちが続く中、涼花はかすかに感じた。自分の動作音、ボールの衝突音、そして遠くの換気扇の音の、隙間を縫うように、微細な音が混じり込んでいることを。


 ――チリン……チリン

 ――……チリン


 そして、その鈴の音と、涼花がボールをキャッチするために一瞬静止したタイミングで、別の音が聞こえた。


 ――ゴクン…ゴクン…


 それは、液体を飲む音。


 人間が喉を鳴らして飲む、あの音。


 涼花は、意識的に壁打ちの動きを止めた。


 ――ゴク、ゴク、ゴクリ……


 音は、まさに足元のペットボトルから聞こえてきた。その音が、体育館の静寂の中で、信じられないほど大きく、生々しく響いた。涼花は息を殺したまま、動けなかった。


 そして、音はピタリと止んだ。鈴の音も、水の音も。


 涼花はフラフラとペットボトルに近づいた。スポーツドリンクは、やはり昨日と同じように減っている。まるで、大口を開けて一気に飲み干した後のように。


 涼花は急いでレコーダーを取り外し、部室に戻ってイヤホンを耳に押し込んだ。


 録音された音は、予想通りの、しかしぞっとする内容だった。


 最初は、涼花の靴が床を擦る音、壁打ちの音、そして荒い息遣い。 そして五分十五秒。


 ―― 『ハァ…ハァハァ…』― 「チリン……」――――― 「ゴク、ゴク、ゴクリ……」―


 自身の荒い息遣いの後に確実に聞こえる鈴の音、液体を飲む音。

 涼花は、ガタガタと震える手でレコーダーを握りしめた。これは、気のせいではない。幻聴でもない。


 紗季が、そこにいる。渇きを抱えながら、練習を見守っている。


 涼花は、この物理的な証拠が、かえって恐怖を増幅させることを知った。この事態を誰かに話しても、狂っていると思われるだけだろう。


「紗季……あなたは何でまだここにいるの?何がしたいの?私を苦しめたいの?」


 涼花の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。それは、恐怖の涙であると同時に、親友を失った悲しみと、再会してしまったことへの混乱の涙でもあった。


 四日目の自主練。


 涼花は、昨日とは違うものを準備した。


 800mlのペットボトルを二つ。一つはいつものスポーツドリンク。もう一つは、紗季が特に好きだった、甘さ控えめのレモンウォーター。


 涼花は、二つのペットボトルを、自分の部活バッグに付けた紗季のキーホルダーと一緒に、いつもの壁際に置いた。そして、体育館の照明を、今日は最大にした。紗季に、隠れる必要はないと伝えるために。


 涼花は、深く息を吸い込んだ。


「紗季。」


 誰もいない体育館に、涼花の声だけが響く。声は震えていなかった。


「わかってるよ。あなたがそこにいるのは、私のせいだって。あなたが事故にあった日、私は顧問に呼び出されてた。あなたが一人で先に帰らなきゃいけなかったのは、私を待てなかったからで……」


 涼花が懺悔のように言葉を吐き出すと、部活バッグのキーホルダーが、激しく、しかし短い間隔で鳴り響いた。それはまるで、涼花の言葉を強く否定するかのように。


 ――チリン、チリーン!チリーン!


「違うの?でも、私、ずっとそう思って……」


 ――チリン!チリン!チリン!


 鈴の音は止まらない。それは、もはや悲しい音ではなく、苛立ちや、何かを強く伝えようとする衝動の音に変わっていた。


 涼花は、涙をぬぐい、壁の前に立った。


「わかった。練習する。あなたがいた頃みたいに、思いっきりやるよ!」


 涼花は、壁打ちを再開した。壁に叩きつけるボールは、怒りのように強く、レシーブは乱れがちだ。


 ――ドン!パン!ドン!パン!


 その時、激しく鳴り続けていた鈴の音が、一瞬、静止した。そして、微かな風が、涼花の横を通り過ぎるのを感じた。


 涼花が壁に強く打ち付けたボールが、壁から跳ね返り、突然、不自然な軌道を描いて、壁際の床を転がっていった。それは、いつもの跳ね返り方とは明らかに違った。


 ボールが止まったのは、壁から一メートルほど離れた、涼花が普段、レシーブを構える立ち位置よりも一歩前だった。


 涼花はボールを追いかけた。転がった先に立ち、ハッとした。


「ここ……?」


 ハッとした。そこは、紗季が壁打ちの練習のとき、いつも涼花に指示していた「正確な立ち位置」だった。


『涼花、リベロはここじゃない!一歩前!壁から跳ね返るボールに臆病にならないで!』


 あの時、紗季はいつもそう怒鳴っていた。涼花は、事故以来、無意識のうちに、紗季が指示したこの立ち位置を避けて、少し後ろで待つようになっていたのだ。ボールに怯えるように。


「紗季……あなた、私に……」


 鈴の音が、今度は優しい音色で鳴った。


 ――チリ……


 紗季は、涼花に謝罪してほしいのではない。事故の責任を感じて、バレーを中途半端にプレイしている涼花を、直してやりに来たのだ。


 幽霊となってまで、親友の欠点を指摘し、正しい立ち位置に立たせようとしたのだ。紗季にとって、涼花がバレーを続けることが、何よりも大切なことだった。


 涼花の中で、恐怖が、一気に温かい感動と、親友への感謝に変わった。


「ごめん、紗季……。ずっと、あなたがいない穴を埋めるのは私じゃないって逃げてた。でも、あなたがいる。あなたはずっとここに、このコートにいたんだね。」


 涼花は、胸が張り裂けそうになるのを感じながら、転がっていたボールを拾い上げ、もう一度、紗季が指示した正しい立ち位置に立った。


「見てて、紗季。もう逃げない。」


 その時、涼花の目線の先、壁のオレンジ色の光が当たった箇所に、薄い光の粒が集まり、紗季の残像が浮かび上がったような気がした。


 その残像は、いつものように、満足そうに微笑んでいた。


 涼花は、壁際に戻った。


 二つのペットボトル。そして、部活バッグに付いた鈴のキーホルダー。


 涼花は、レモンウォーターのペットボトルに手を伸ばした。今日まで、紗季が飲んでいたのは、涼花が練習中に置いていた、もともと減りかけていた涼花自身のスポーツドリンクだけだった。この満タンのレモンウォーターには、紗季は手を付けていない。


 それは、紗季が遠慮していたか、あるいは飲むのに苦労していた証拠のように思えた。


 涼花は、紗季が好きなレモンウォーターのペットボトルを手に取り、キャップを緩めた。


「紗季。あなたが飲んでるの、わかってたよ。でも、いつも遠慮させてごめんね。喉乾いてたよね。これは、あなたが好きなもの。遠慮しないで、全部飲んでいいよ。」


 涼花は、その満たされたペットボトルを、自分のバッグの横にそっと置いた。それは、まるで、親友の渇きを癒し、静かに眠るように促す儀式のようだった。


「もう大丈夫だよ。あなたの気持ちは伝わった。私が、あなたの分まで、バレーをやり続ける。だから、安らかに……」


 涼花がそう告げると、キーホルダーの鈴が、最後の、非常に長く、穏やかな音色を響かせた。


 ――チリリリリリ……ン……


 その音は、体育館の天井に届き、どこまでも優しく、そして完全に静寂の中に溶けていった。


 その瞬間、涼花は、体育館の重たい湿気が一掃され、清々しい風が吹き抜けたのを感じた。まるで、体育館の空気が、一年ぶりに呼吸を取り戻したかのように。


 翌日からも、遠藤涼花の自主練は続いた。


 しかし、体育館に鈴の音が鳴り響くことは、二度となかった。


 そして、壁際に置かれた、紗季のためのレモンウォーターのペットボトル。


 どれだけ時間が経っても、キャップがきつく閉まっているそのペットボトルのレモンウォーターは、一切減ることがなかった。


 涼花は、もう恐怖を感じることはなかった。一人で練習しているときも、彼女の隣には、いつも紗季の視線があるように感じた。そして、壁打ちの立ち位置が少しでも乱れると、あの鈴の音の残響が、脳裏で聞こえるような気がした。


 涼花のレシーブは、驚くほど安定した。エースがいなくなったチームの要として、彼女はチームを支え続けた。


 そして、その年の夏の県大会予選。


 大事な試合のセットポイント。相手の強烈なスパイクが、涼花のコートに飛んでくる。


 涼花は、一歩前に出る。紗季が指示した、あの正しい立ち位置へ。


 ボールは、涼花の正面に吸い込まれるように落ちた。完璧なレシーブ。


 その瞬間、涼花の耳元で、風が囁いたような気がした。


 ――ナイスレシーブ、涼花


 涼花は、天を仰いだ。涙はなかった。ただ、溢れるような温かい力が、全身を駆け巡っていた。


 彼女は知っていた。これは、オカルトでも、幽霊譚でもない。


 これは、コートに残された、消えない絆と愛情の物語なのだと。

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