乗っていきなさい株式会社
猫専用
乗っていきなさい。
─プロローグ─
朝の通勤ラッシュは、いつも同じ匂いがした。
アスファルトに染みついた昨夜の雨と、排気ガスと、誰かの焦げついたトーストの香り。
信号待ちの交差点で、俺はハンドルを握りしめたまま、横断歩道を駆け抜ける人影を追っていた。
スーツの背中が汗で貼りつき、ネクタイが肩に跳ね上がる。カバンは半開きで、書類が一枚、風に飛ばされて舞い上がった。誰も拾わない。
(寝坊か? 電車に乗り遅れるのか? それとも……)
脳裏をよぎるのは、いつもと同じ想像。
親の危篤。子どもの熱。決して取り戻せない一度きりの面接。
走る人はみんな、何かを失う寸前にいるように見えた。
俺はアクセルを踏むのをやめた。
車はゆっくりと進み、走る人の横をすり抜ける。
窓越しに、荒い息遣いが聞こえる気がした。
──声をかけたら、迷惑だろうか。
──不審者だと思われるだろうか。
指がハンドルを叩く。
助けたい。たったそれだけなのに、声は喉の奥で腐っていく。
その日も、結局何もできずに会社に着いた。
デスクに座って、毎朝のルーティーンであるメールソフトを開く。
でもマウスを握る手が震えていた。
もう我慢できなかった。
俺は立ち上がった。
俺はいつもスーツの内ポケットに忍ばせておいたしわくちゃの辞表を叩きつけ、その足で会社の登記へと向かった。
俺は会社を興した。もう屋号は決まっていた。
──乗っていきなさい株式会社──
設立登記をした日、俺は生まれて初めて、自分の人生に意味があると思った。
いつもの国道沿いに、ピカピカに磨き上げた白のセダンを停める。
ボディには控えめに、しかし確かに社名がペイントされている。
待つこと10分。車のデジタル時計は9:05と表示されていた。
その時、走る人が現れた。
若い女性だ。スニーカーの紐が解けていて、髪は乱れ、目は泣き腫らしている。
右手にはスマホをぎゅっと握っている。
俺は数メートル先に車を滑らせ、助手席の窓を開ける。
女性が横を通り過ぎる、ちょうど半歩前。
深呼吸して、静かに、でも確かに声を放つ。
「乗っていきなさい」
女性は立ち止まる。
驚いたような、救われたような顔で、こちらを見た。
俺は微笑んだ。
これでいい。
これが俺の、たった一つの正義だ。
助手席のドアが、ゆっくりと開かれる。
朝の陽射しが、革シートを優しく照らしていた。
─1.母と仕事と─
「乗っていきなさい」
初老の男性に助手席の窓越しで声をかけられた。
「えっ? あの……」
女性はいきなり声をかけられて困惑した。
「いいから早く!」
何か鬼気迫るものを感じ、促されるがまま助手席のドアを開けた。
運転席からこちらを見る男性。歳は40代中盤くらい、見立て通り初老の男性。スーツをピシッと着て、清潔感さえ漂う。
その姿は、小学校の頃たまに廊下ですれ違う教頭先生のような……そんな謎の存在感を示していた。
革シートの匂いがした。新車のそれではなく、少しだけ馴染んだ、清潔な匂い。彼女がいつも嗅いでいる湿った紙とコンビニのビニール袋の匂いとは全く違う。
女性は何故か安心した。
そして言われるがまま、助手席のシートに滑り込む。
──バタン
ドアを閉めた瞬間、外の喧騒が遠のいた。車内の静寂が、彼女の荒い呼吸だけを強調する。
「ありがとうございます……」
細く、掠れた声だった。彼女はまだ顔を上げられない。スニーカーの紐はやはり解けたままで、髪が視界を遮っている。
「どこまで送っていきますか?」
運転席の男の声は、予想していたような親切な温かさではなく、驚くほど事務的だった。それが逆に、彼女の警戒心を少しだけ緩めた。彼は慈善事業家やナンパ師ではなく、本当に「何かを運ぶ」人間のように見えた。
彼女はスマホを握り直す。どうやら着信しているようだ。微かにバイブ音が耳につく。
「……会社です。あの高いビル……。今日は、どうしても行かないといけなくて」
追いつめられた朝
聞けば誰もが知っている大手企業の若手社員だった。彼女が走っていたのは、会社へ向かう為だ。
(寝坊……それで走っていたのか?)
そんな考えを見透かすようにこう言い放った。
「私、学生の頃から無遅刻無欠勤だったんです」
「今日も朝早く起こされたんです」
「でも、もう9時からの会議に間に合いません……」
そうか、間に合わない、か。
だがそれでも必死に走る彼女はやはり、真面目で責任感のある女性なのだろう。
遅刻常習者ならあんなに必死に走らない。彼女は半分泣いていたのだ。
それくらい、遅刻を憎んでいるのがわかる。
先ほどから鳴り止まない着信は会社からか?
出ないのはやはり、怖いからだろう。俺も覚えがある。
「では、いきましょう」
車に備え付けられているデジタル時計は9:10と表示されていた。
──まて、今『起こされた』と言ったか?
こんなに責任感がある彼女が『起きた』ではなく『起こされた』と。
─
今日は彼女が任されているビッグプロジェクトの会議があった。昨晩遅くまで入念に準備を重ね、今日を迎えた。
寝不足とはいえ、5時半にはキッチリ目覚める。アラームさえいらないほどにキッチリと目覚める。
しかし今日は一本の電話で起こされた。
時間は5時10分、病院からだった。
──お母様の容態が急変されました。すぐに病院へ来てください。
難病で入院している母親の危篤を報せる連絡だった。
父を早くに亡くし、女手ひとつで自分を育て上げた母。大好きな母。
そんな母が危篤だと言うのだ。
彼女はすぐさまその辺の服を適当に着て病院へ向かった。
少し大きめのバッグにビジネススーツを詰めて……
今日はどうしても外せない会議がある。
病院に着くと一目散に集中治療室へ。
医師や看護師が慌ただしくしていると思ったが、やけに静かだ。
──まさか
不安がよぎるが、近づいてきた看護師は「容態は安定しました」と事務的につたえてナース室へと戻っていった。
よかった。
ぼーっと母を見る。頬は痩せこけ、管が何本も付けられ「ピッピッ」と脈拍を調べる機械がリズムよく鳴っている。
時計に目をやる。
8時20分。会議は9時から。ギリギリ間に合う……?
娘は「もう少しだけ、頑張ってお母さん……」
そう呟き病院を後にした。
走り出したところで気がつく。
靴だ。普段着用のスニーカーを履いてきている。
ビジネスシューズは家の玄関でひんやりとしたままだ。
家になんか戻っている暇はない。店もまだ開いていない。
仕方がない。会社へ着いたら、その時だけ同僚から貸してもらおう。
そして、彼女は走った。母の病院とは真逆の会社に向かって。
─2.本当の目的地─
ハンドルを握る男は、ちらりとルームミラーを見た。彼が運転しているのは、ただのセダンではない。その車は、必死に走る人のために用意された手段だ。
「あのビル……ですね」
男はそう確認してから、穏やかに尋ねた。
「あの。一つだけ、不躾なことを聞いてもいいですか」
女は息を詰めた。申し訳ないが、今、何の会話もしたくなかった。
「その……走っている理由、つまり、あなたが行きたい場所は……本当にあそこですか?」
女の心臓が止まった。 なぜこの人が、自分の本当の気持ちを知っているような口を利くのだろう。
彼女は顔を上げ、運転席の男を見た。瞳の奥に、同情ではなく、ただ理解しようとする静かな光があった。
彼女の握りしめたスマホが、微かに震える。
男が横目でチラリと見る。
「中央病院」と表示されていたが、程なく『不在着信』として処理される。
そして、すぐさま「中央病院」から着信が入る。
二度、三度と着信しては切れ、着信しては切れる。
その画面を見ながら"グッ"と唇を噛みしめ、そして口を開いた。
「……違います」
彼女の目から、堰を切ったように涙が溢れた。
「私が行きたいのは……病院です。母のところに、行きたいんです!」
男は、無言で、右ウィンカーを上げた。そして、次の交差点で、会社へ向かう道とは真逆の方向へ、静かに車を滑らせた。
「目的地変更ですね」男は言った。
「乗っていきなさい株式会社は、あなたの本当の目的地へ、お連れします」
その時、朝の陽射しがフロントガラスを透過し、彼女の顔を優しく照らした。まるで、何かから解放されたかのように。
─3.旅立ち─
病院の駐車場で電子タバコを咥え、ふうと一息つく。
彼女は間に合っただろうか?
母親の状態と彼女の気持ちは、溢れ出た涙と彼女の決断で全て理解した。
「なんにせよ、後悔はしてほしくない」 そう願わずにはいられない。
どれくらいそうしていただろうか。
こちらへ歩いてくる女性がいた。彼女だ。
時間は昼前になっていた。
彼女はもう走っていなかった。歩みは静かで、顔は泣き腫らしているが、どこか穏やかだ。
俺の前に来ると、頭を下げる。
「ありがとうございます。おかげで間に合いました」
そうか、よかった。
「母は……」
彼女はそこで言葉を詰まらせる。口が言葉にならない言葉を発しようとプルプルと震える。
言葉を選んでいるようにも見えた。
「……母は、眠るように、旅立ちました」
俺は電子タバコを消し、静かに頷いた。
「最期に、私の顔を見てくれたんです」
「『ありがとう』って言ってあげられました」
「最期に……最期に、笑って……」
思い出してしまったのだろう。泣き出してしまった。
「ごめんなさい……」
"ズズッ"と鼻を啜り彼女は続ける。
「声にはなりませんでしたが、口元が微かに動いて……確かにこう言ってくれてました──
──『きてくれて、ありがとう』って」
「間に合わなかったら……たぶん、後悔して、今日の会議に出た自分を一生憎んだと思います」
彼女は再度、深々と頭を下げた。
「乗せていただいて、本当に助かりました。本当に……」
彼女は、バッグからビジネススーツに紛れていた財布を取り出し、小銭入れを握った。
「あの、これ、運賃を……」
「いりません」
俺は即座に断る。
「『乗っていきなさい株式会社』は、運賃は取りません。取れるのは、あなたの──
俺は少し間を置いて伝えた。
──後悔しない──という決断だけです」
彼女は驚いたように顔を上げた。
「私の……決断」
「ええ。あなたは、一度仕事を選び、その結果に責任を持とうとしました。でも、本当に大切なものに気づいた時、会社を、キャリアを、全ての責任を投げ捨てて、別の道を選んだ」
俺は車体の横に回って、控えめな社名ロゴに指を這わせた。
「俺にも過去に、投げ捨てられなかったものがあった。その結果、ずっと後悔の日々だ」
彼女の目に、また涙が滲む。今度は共感の涙だった。
「だから俺は、この会社を興した。誰かの『本当の目的地』への、たった数分、数十分の助け舟になるために」
彼女はスニーカーの解けた紐を見下ろした。彼女はもう、あの高いビルへ向かうために急いで走る必要はない。
このスニーカーは、ビジネスシューズに履き替えられることなく、彼女の新しい人生の旅路を歩くための靴になった。
「先ほど会社から電話がありました。何か事情があるのだろう。と」
「私はこれから一度、会社に謝罪をしに行きます」
「どう受け取られるかは分かりませんが……けじめはつけなくちゃ。ですよね」
彼女はバッグを肩にかけ直し、きゅっと紐を結んだ。
「今日、私を『乗せていって』くれてありがとうございました。今度は、自分で歩いていきます」
昼の陽射しが、彼女の顔を照らしていた。もう涙は拭われ、そこには確かな光が宿っている。
俺は満足して頷いた。
「はい。いってらっしゃい」
彼女は少しだけ恥ずかしそうに笑顔になると"うん"と頷き、
「いってきます」
といい病院の門を出て、人波へと消えていった。その足取りは軽く、もう焦燥の色はない。
俺はセダンに戻り、エンジンをかけた。
今日の仕事は終わった。また明日、誰かの「本当の目的地」を見つけるために、国道沿いに車を停めるだろう。
今日、俺は、俺自身のたった一つの正義を信じ、やり遂げた。
それはそうと、腹が減った。昼飯でも食いに行こう。俺は愛車のアクセルをそっと静かに踏み、厳かに病院を後にした。
─エピローグ─
いつもの国道沿いに、ピカピカに磨き上げた白のセダンを停める。
決して新しくはなく、それでいて古臭くもない。
爽やかな革のシートの匂いがする車内には、歳は40代中盤くらい、見立て通り初老の男性。
スーツをピシッと着て、清潔感さえ漂う。
その姿は、小学校の頃たまに廊下ですれ違う教頭先生のような……そんな謎の存在感を示していた。
車のボディには控えめに、しかし確かに社名がペイントされている。
そして彼は急ぎ走る人にこう声をかける。
「乗っていきなさい」
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