「ラーメン」
ナカメグミ
「ラーメン」
今日もくさい。プーンとにおう。嫌なにおいだ。ハンガーから取って触る。まだ乾いていない。ほかに着るものがない。ジャージの上下を着る。右ひざに穴があいている。だいぶ前からだ。でも、どうしようもない。
* * *
家はラーメン屋だ。苗字と同じ名前の店だ。
小学校は高台にある。学校の向こう側は、「しんこう住宅地」。きれいな家がたくさんある。習い事をしたり、ジャージではない服を着たり、勉強ができたり。そんな子が多かった。
僕が住むのは、こちら側。警察官舎や市営住宅、炭鉱で働く人たちの住宅もある。家の背中側、少し長く歩けば、海がある。太平洋だ。
* * *
午前中に来るお客さんは、夜中に炭鉱で働いて、朝に仕事が終わるおじさんたちだ。この人たちが来るから、うちはほかのお店より、早い時間から開いている。炭鉱のおじさんたちは、仕事の後、お風呂に入ってから食べに来る。警察官のおじさんたちも、よく来てくれた。「宿直明け」だといい、格好いい制服は着ていなかった。
みんな、おいしそうにラーメンを食べる。丼のスープまで全部、飲む。丼を下げる手伝いをすると、空っぽの底の絵が見える。僕は小学4年生でも体が小さい方だから、まだ全部は飲めない。
うちのラーメンは、「細い縮れ麺のしょうゆ味」だという。「当店自慢 しょう油」。大きく店の壁に貼ってあるから、みんなが頼む。僕も食べる。熱いけど、おいしい。
* * *
小学校4年生の秋。前から楽しみにしていた日。晴れた。青い空が見える。
母さんが、お弁当を作っている。ジャージの上に、薄手のヤッケみたいなものを着せられた。寒いかもしれないという。父さんは店があるから、行けない。母さんと2人。うれしい。
市役所の前の広場。リュックをしょった、たくさんの人がいた。店のお客さんもいた。頭をごしごし、なでられた。えらい人の挨拶が終わった。バスに乗った。バスの窓に書かれている文字。「湿原を歩こう会」。書けないけど読める。
湿原の中の、少し高くなったまっすぐな土の道。みんなで歩く。両側に、白っぽいような茶色いような、背の高い草がどこまでも生えている。建物はどこにもない。たまに枯れた木が見える。
道が土だから、前をたくさんの人が歩くと、ほこりっぽい。何人かだったり。1人だったり。みんな歩く。僕は母さんと歩く。
学校の話。友達の話。遊びの話。勉強の話は出ない。
広場みたいなところに着いた。草の上に敷物を敷いて、リュックを下ろした。肩から下げていた水筒から、思い切り水を飲んだ。トイレが心配だと、母さんに注意された。みんな、お弁当を広げた。いろんな食べ物のにおいがした。
僕も母さんのお弁当を食べる。おにぎり。梅干しとかつおぶし。唐揚げ、卵焼き、ウインナー。それと、茹でたほうれん草と刻んだネギを醤油味で混ぜたもの。ラーメンにのせる具材の残りだ。おにぎりを3個も食べた。母さんもにこにこしていた。
帰り道も土の上を歩く。夕焼け。両側の草がオレンジに見えた。海みたいだった。
* * *
父さんが、右肩を痛くした。麺の「ゆぎり」をしすぎて、上がらなくなったという。店を閉めて、大きな病院に母さんと行った。手術は必要ないけど、肩を大事にしなければだめだという。湿布をもらってきた。お風呂上がりの父さんの肩に、貼ってあげた。いつもは怖い父さんが、うれしそうに頭をなでた。僕もうれしかった。
* * *
父さんの右肩を大事にするために、「店員募集」の紙を、店の外のガラス窓に貼った。しばらくして、若い男の人が来た。炭鉱で働いていたけど、けがをしてやめたという。店で働き始めた。父さんと母さん以外の人が、店にいるのは落ち着かなかった。でも注文を取ったり、運んだり。てきぱきとしていた。僕にも声をかけてくれた。算数の宿題を、お客さんがいない店で手伝ってくれた。
父さんはラーメンにはうるさいから、全部自分でやる。大きな鍋でスープを作る。たこ糸を巻いたチャーシューを、茶色い鍋の中で煮る。麺の上にのせる材料を、透明な箱に並べる。切ったなると。きざんだネギ。茹でたほうれん草。半分に切ったゆで卵。それを仕上げにのせるのが、母さんだ。
父さんはその男の人に、ラーメンの作り方も、少しずつ教えた。ある日、その男の人と母さんは、いなくなった。しばらく待ったけど、2人とも帰ってこなかった。
* * *
小学校から歩いて1時間。炭鉱がある。薄ピンクの壁に、三角の赤い屋根の背の高い建物だ。小学校の写生教室で、みんなで描きに来た。あの建物の地下で石炭が掘られるという。石炭は、建物から飛び出る滑り台みたいなもので運ばれて、黄色いコンテナに山盛りにのせられて、専用の貨車で線路で運ばれる。石炭は「黒ダイヤ」と言うと、社会の時間で習った。小学校の校歌の歌詞にも入っている。
放課後。炭鉱に行く。石炭を運ぶ貨車を見る。飽きたら、道路を挟んで反対側のズリ山に行く。石炭が三角に積まれた黒い山だ。近くを歩く。真っ黒い石が、たまにずりずりと落ちてくる。
ここも飽きたら、海へ行く。歩いて20分くらいだ。崖が出っ張っている下に、体育座りをする。真ん前の海を見る。風が冷たい。来る波。引く波。波打ち際に近づいて水を触る。冷たい。母さんは帰ってこない。
* * *
5年生の春。転校生が来た。大きな会社の転勤族の子だという。色白の顔。白いシャツのえりをのぞかせて、丸首のセーターを着ている。「お母さんが編んでくれた」という。それに裾が開いたズボン。ジャージは体育のある日だけだ。クラスの女子のほとんどは、そいつのことが好きだ。5年生になってから、女子たちが「〇〇は✕✕が好き」という話をするようになった。その話の中心に、そいつが加わった。
* * *
母さんがいなくなったことは、みんなが知っているようだった。
参観日。廊下に集まる化粧くさいお母さんたちが、僕を見ながら話している。突然、近づいてきて、「頑張ってね」と肩に手を置く、だれか知らないお母さん。
父さんは休んでいた店を始めた。おじさんたちが来ても、父さんの元気はない。
店とつながった自宅の玄関は、出しそこねたゴミ袋でいっぱいだ。僕の当番だけど、朝起きられない。ご飯はラーメンでいい。でも着るものが困った。2層式の洗濯機でジャージを洗う。でも十分に水がキレない。乾かないまま、着る。
2学期。席替えがあった。あいつは僕の後ろの席。ある日、言われた。
「おまえ、くさい。ドブみたいなにおいがする」。
うまいこと言うな、と思った。僕の家から海に歩く途中の道にも、ドブ川がある。
その日から、男子が僕を「ドブ」と呼び始めた。苗字は店の名前と一緒で、母さんがいない店と家を思い出すから、「ドブ」でもよかった。なんでもよかった。
ただ、お母さんが編んだセーターを来て、きれいな格好のそいつが憎かった。
* * *
そいつを僕くらい嫌っているやつが、もう1人いた。女子。そいつも同じジャージを着ていて、父親が自殺したという。母さんも「あの子はかわいそう」と、よく言っていた。漢字のテストで、この女子があいつに負けた。あいつは「勝った!。勝った!」とクラス中にふれまわった。それからあの女子は、あいつと口をきかなくなった。2人でこらしめたら、おもしろいと思った。女子に近づいた。
* * *
3月上旬。まだ寒い。ある朝、女子と待ち合わせた。僕の計画を助けるものまで、持ってきてくれた。
この日は6年生の卒業式で、そのほかの学年は下校時間が早かった。2人であいつを、遊びに誘った。白いほっぺたを赤くして喜んだ。3人でその場所に行った。
ピシッ、ピシッ、ピシッ。予定通りの場所で、鈍い音がきこえた。
バシャン。真新しいヤッケを着たそいつは、突然、見えなくなった。
* * *
2年前の3月。新聞を読みながら、母さんが涙ぐんでいた。
「かわいそうに」。
小学校低学年の兄と幼稚園児の妹が、凍った池の上で遊んでいて、割れた氷から池に落ちた。2人とも死んだ。テレビも騒いで、学校からも遊ばないように注意があった。その池は、学校グラウンドの半分くらいの大きさで、学校から離れたところにあった。
* * *
女子は、テレビをよく見ていて、ニュースに詳しい。下校時間が早い明日は、昼間、温度が上がるからチャンスだ、と昨日の夜に電話をくれた。
今日。登校する前の7時、池で待ち合わせた。僕のうちは母さんがいないし、女子のお母さんも、もう仕事に行っている。
小さい方のツルハシを渡した。長い方は自分用だ。
ラーメン屋の入口前は、日陰になっていて氷が張る。それを割る手伝いを、小さなころからしていた。小さな方は僕、大きな方は母さん。2人でよく割った。
氷は色によって厚さがちがう。このへんの子どもは、みんな知っている。透明で青っぽく見える氷は、厚くて安全だ。灰色や白っぽい氷は、雪や空気が入っていて、割れやすい。その場所を選んだ。
1メートルより大きいくらいの円に、ツルハシで割れ目を入れた。落ちないように、ツルハシとできるだけ距離を置いた。まるく円ができた。
女子がリュックから取り出した。大きな魔法瓶が2つ。スケート部のときに、あたたかい飲み物を持っていくためだという。熱い湯を入れてきたという。その湯を、手を伸ばして円状の割れ目にかけていく。
* * *
下校前。あいつに、氷の上を滑って遊ぼうと言ったら、喜んでついてきた。池の真ん中まで、2人で先に滑った。円のある方に滑ってくるよう、声をかけた。喜んで滑ってきたあいつは、うまく割れた円の中に落ちた。
2人でゆっくり、穴に近づく。まだ沈まない。両手で宙をかき、もがいている。2人でしばらく見下ろす。助けてくれないとわかったようだ。目を見開いた。しばらくして、沈んでいった。ヤッケは水を吸うと重たくなるから、仕方ない。
「行こ」。女子が言った。2人で、凍った池の上を歩いて帰る。今日は気温が高いと言っても、まだ寒い。父さんに2人分のラーメンを作ってもらおう。
僕は悪くない。いなくなった母さんが悪い。ジャージの穴は、縫えないよ。
(了)
「ラーメン」 ナカメグミ @megu1113
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