嘘をついていたかった
神鷹慧
嘘をついていたかった
1936年、11月の
ふんわりとした上質な
「先生、最近私を慕ってくれる女性がおりましてね。ライラという資本家の娘です。ライラは本当に……私の理解者なのです。唯一の理解者です。世界で最も、正確に、ちゃんと私を愛して……私を見てくれるのです。可憐で……」
やや言葉に詰まる。彼女の姿を心に強く浮かべる。
「くすぐったそうに笑うのが、私はとても好きなのです。当初から私が彼女に応えたわけではありません。私は別に親しくしていた女性がありました。その人は私には眩しすぎるくらい、実際眩しすぎたのですが、そのくらい純真という言葉が似合う女性でした。しかし、ライラはもっと私に似ていて、親近感がありました。私の苦しみにそっと寄り添ってくれた。私が別の女性と親しくしている間も、ライラはずっと私だけを見ていてくれたのです」
先生は恐ろしい沈黙で以て応える。私から、先生の姿は見えない。姿が見えずとも、その重圧が空気を介して私に伝わってくる。それが私の魂を悦ばせるのである。先生が、喉を鳴らす音が聞こえた気がした。いや、それは暖炉の薪が爆ぜた音だったかもしれない。あるいは、私の鼓動が勝手に作り出した幻か。先生は長い沈黙の後、低く、しかし驚くほどに響く声で言った。
「ライラ、か」
その発音は、私が夜ごとに口にしてきたどの音よりも肉感的で、冒瀆的なほどに実在感を持っていた。あるいは、実在そのものであったのかもしれない。先生の口に乗った瞬間に、ライラはあられもない姿で解剖台に乗せられたのだ。先生が
「彼女はきみの影を踏んでいるね。眩しすぎるというその女性が光ならば、ライラは影だ。だがね、影が本体よりも鮮明に見えるとき、光は既に消えているものだ。……きみのその太陽は、本当にまだ空にあるのかね」
心臓が早鐘を打つ。だが、私は認めない。認めないぞ。だから、私は一層滑らかに音を重ねる。
「あの女性、その、メアリー嬢は、社交界の太陽は、私を焼き尽くそうとしています。だからこそ、ライラの冷たい手が必要なのです。ライラも綺麗な女性ですが、メアリー嬢とは違う。ライラは、私が何も持っていなくても許してくれる。すべてを受け入れてくれるのです。それに趣味も合う……。先生のお父上はフリードリヒ・ニーチェと親交を持たれていたとお聞きしました。私もライラも
先生はただ一度、咳払いをした。それはやけに重苦しく響いた。
「……それにしても、陛下の例の、王冠を賭けた恋ですか。私も分かるのです。私もまた、眩しい世界を捨てて、真実の愛を――つまりはライラを選んだのです」
「結構」
宣告である。重く低い声。それは、いつも唐突に訪れる切り上げの合図だった。
***
空気の凍てつく12月の夜。私は身分不相応な幸運――あるいはそれは不運だったのかもしれない――によって、バークレー・スクエアにあるコンラッド男爵邸で催された夜会に招かれていた。三流記者の私が招待状を手にできたのは、取材という名目の下、数合わせの道化として呼ばれたに過ぎない。だが、私は上機嫌だった。私にはライラがいるのだから。私には遠く及ばない世界にでも、彼女と一緒なら踏み込める。私は、どこへでも行ける。彼女は踝まである黒いドレスを纏っている。バイアスカットが彼女の女性らしい身体つきを美しく際立たせる。ライラほど、黒の似合う女性はいないだろう。彼女の細い腕が、私にしっかりと絡められている。この重みと体温だけが、私をこの華やかな場所に繋ぎ留めてくれるのだ。
「慣れないね」
私がそっと言うと、彼女は背伸びして、私の耳元で「緊張しちゃうわ」と囁いた。その吐息は少し震えていた。私は彼女の冷たい手をそっと上から包み込む。ふと、会場の奥に目をやると、人垣の向こうにメアリー嬢の姿が見えた。彼女は数人の紳士に囲まれていたが、私の方を向いていた。その瞳が、悲しげに揺れた気がした。私がライラを選んだことへの無言の非難だろうか。私は罪悪感を覚えつつも、ライラを抱き寄せる手に力を込めた。もうメアリー嬢を見ることはできなかった。あのアーモンド色の瞳を直視してしまえば、私は愛に吸い込まれてしまうだろう。だから、私はもう、何も見たくはない。
その時、広間の空気が一変した。ざわめきが、波の引くように静まった。静寂。みなの視線が一点に吸い寄せられる。それは美しさの極限であった。メアリー嬢でも、ライラでもない。綺麗な紳士であった。冒瀆的なほど肉欲的な色気がじんわりと広間に染み渡る。その場の紳士たちは恐れ入り、淑女たちが貞操さえも投げ出しそうなほどだ。しかし、誰一人言葉を発することはない。
――それは、先生だった。九代目キングミット伯爵ソロモン・アイザック・フォン・デア・プファルツ=ステュアートだ。魔術の王と犠牲の象徴をその名に冠する男。彼は、診療室の外にあっても絶対的な支配者なのだ。全知を思わせる、圧倒的な存在感。夜のように黒い髪を後ろに撫でつけ、眼鏡を外している。曇天色の瞳がすべてを吸い込んで渦巻いている。周囲がやっと呼吸を取り戻す。貴族たちが媚びるような笑みを浮かべて近づいていく。なぜ、先生がこんなところにいるのか。伯爵であることは知っていた。しかし、コンラッド男爵家はそこまでの家格ではないはずだ。心臓が強張る。
「あの人、怖い……」
ライラの爪が、私のジャケットの袖に食い込んだ。大丈夫だと伝えようとしたその時だった。灰色の瞳が、群衆の中の私を正確に射抜いた。先生は微かに眉を上げただけだった。だが、その視線は私の全身を剥ぎ取り、私の隣にいるライラをも検分するように舐め回した。――見られた。先生の瞳は、何も語らなかった。ただ、圧倒的な「現実」としてそこに在った。その視線の圧力に、ライラが小さく悲鳴を上げた気がした。血が吹き出したかのように、みるみると彼女の顔が青くなっていく。
「お願い。帰りましょう」
ライラが懇願する。溶かされてしまう。私はグラスをウェイターの盆に戻すと、ふらつくライラを支えて、逃げるように会場を後にした。背中に突き刺さる灰色の視線が、熱い烙印のように私の心臓を焦がしていた。
***
私が再びハーレー街のあの重厚な扉の前に立ったのは、一週間後のことだった。扉を叩く。いつもの匂い。いつもの薄暗がり。先生は変わらぬ姿勢で、静かに暖炉の前に座っていた。私は寝椅子に身を横たえる。沈黙が痛い。
「先日は、失礼いたしました」
私は努めて明るい声で切り出す。
「お声掛けしようかとも思ったのですがね、ライラが、彼女が急に貧血を起こしてしまいましてね。先生の威厳に少し当てられてしまったようで。人混みは苦手だと言ったのに、私が無理をさせたせいなのです」
先生の方から、衣擦れの音がした。先生は眼鏡を外し、その冷たい指先でレンズを拭いているようだった。
「きみは」――低く、乾いた声が響く――「きみは、その『不在』を、実によく飼い慣らしている」
それは賞賛なのだろうか。それとも、解剖医が珍しい病変を見つけた時の驚嘆なのだろうか。しかし、私は先生の言葉の意味を図りかねる。不在とは何のことだろうか。ライラはあんなにも震えていたのに。
「どういうことでしょうか」
私の問いは虚しく響く。返事はない。汗がじんわりと滲むのを感じる。
「ライラは、人混みが苦手なんですよ。あまりに多くのことに気を回してしまう
必死で弁明する私に対し、先生は重い口を開いた。
「なぜ、きみはそこまでして、私を欲望させようとするのかね」
来たばかりなのに、先生は唐突にこう告げた。
「今日はここまで」
***
私はその日、初めて気づいた。先生はずっと分かっていたのだ。分かっていて、私に語らせてくれたのだ。先生は気づいていた。
――ライラの『不在』。私だって知らなかった。知りたくなかった。ライラなんて女性は存在しなかった。否、否、否。いたのだ。いたのだ! あそこにライラはいた!
「私はずっとあなたのことが大好きですよ」
ライラの細くて綺麗な声が、聞こえる。そんな、嘘をついていたかった。
嘘をついていたかった 神鷹慧 @Albion_U_N_Owen
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