嘘をついていたかった

神鷹慧

嘘をついていたかった

 1936年、11月の倫敦ロンドンは腐った牛乳のような霧に沈んでいた。私はハーレー街にある重厚なオーク材の扉を叩く。この扉の向こうには、私の真実が待っているのだ。診療室は薄暗く、香のような匂いが漂っている。部屋の主、S先生はいつものように暖炉の前の革張りの椅子に深く腰掛けていた。上等なダークグレーの三つ揃えスーツが、先生の権威をよく示していた。揺らめく炎が、先生の銀縁眼鏡に反射して踊っている。それは命の輝きである。先生は私を一瞥する。レンズの奥の鉛色の瞳が私を射抜く。自分の世界がすべてそこに吸い込まれていってしまうような不安と恍惚感に包まれる。先生はすぐに目を逸らして、インクのシミ一つないその手に持った万年筆を微かに動かした。それが「始めろ」の合図だった。


 ふんわりとした上質な寝椅子ディヴァンに身体を預ける。心の中をゆっくりと下降していく。天井の漆喰細工のシミを見つめながら、私は今日も最愛の人について語り始める。


「先生、最近私を慕ってくれる女性がおりましてね。ライラという資本家の娘です。ライラは本当に……私の理解者なのです。唯一の理解者です。世界で最も、正確に、ちゃんと私を愛して……私を見てくれるのです。可憐で……」


 やや言葉に詰まる。彼女の姿を心に強く浮かべる。


「くすぐったそうに笑うのが、私はとても好きなのです。当初から私が彼女に応えたわけではありません。私は別に親しくしていた女性がありました。その人は私には眩しすぎるくらい、実際眩しすぎたのですが、そのくらい純真という言葉が似合う女性でした。しかし、ライラはもっと私に似ていて、親近感がありました。私の苦しみにそっと寄り添ってくれた。私が別の女性と親しくしている間も、ライラはずっと私だけを見ていてくれたのです」


 先生は恐ろしい沈黙で以て応える。私から、先生の姿は見えない。姿が見えずとも、その重圧が空気を介して私に伝わってくる。それが私の魂を悦ばせるのである。先生が、喉を鳴らす音が聞こえた気がした。いや、それは暖炉の薪が爆ぜた音だったかもしれない。あるいは、私の鼓動が勝手に作り出した幻か。先生は長い沈黙の後、低く、しかし驚くほどに響く声で言った。


「ライラ、か」


 その発音は、私が夜ごとに口にしてきたどの音よりも肉感的で、冒瀆的なほどに実在感を持っていた。あるいは、実在そのものであったのかもしれない。先生の口に乗った瞬間に、ライラはあられもない姿で解剖台に乗せられたのだ。先生が身動みじろぎする気配がした。革の擦れる音が、鞭のように私の耳朶じだを打つ。


「彼女はきみの影を踏んでいるね。眩しすぎるというその女性が光ならば、ライラは影だ。だがね、影が本体よりも鮮明に見えるとき、光は既に消えているものだ。……きみのその太陽は、本当にまだ空にあるのかね」


 心臓が早鐘を打つ。だが、私は認めない。認めないぞ。だから、私は一層滑らかに音を重ねる。


「あの女性、その、メアリー嬢は、社交界の太陽は、私を焼き尽くそうとしています。だからこそ、ライラの冷たい手が必要なのです。ライラも綺麗な女性ですが、メアリー嬢とは違う。ライラは、私が何も持っていなくても許してくれる。すべてを受け入れてくれるのです。それに趣味も合う……。先生のお父上はフリードリヒ・ニーチェと親交を持たれていたとお聞きしました。私もライラもの哲学者には興味がありましてね。高貴とは何たるかという……いや、私はあの大陸の、野蛮な連中を支持しているわけではないのですが」


 先生はただ一度、咳払いをした。それはやけに重苦しく響いた。


「……それにしても、陛下の例の、王冠を賭けた恋ですか。私も分かるのです。私もまた、眩しい世界を捨てて、真実の愛を――つまりはライラを選んだのです」


「結構」


 宣告である。重く低い声。それは、いつも唐突に訪れる切り上げの合図だった。



 ***



 空気の凍てつく12月の夜。私は身分不相応な幸運――あるいはそれは不運だったのかもしれない――によって、バークレー・スクエアにあるコンラッド男爵邸で催された夜会に招かれていた。三流記者の私が招待状を手にできたのは、取材という名目の下、数合わせの道化として呼ばれたに過ぎない。だが、私は上機嫌だった。私にはライラがいるのだから。私には遠く及ばない世界にでも、彼女と一緒なら踏み込める。私は、どこへでも行ける。彼女は踝まである黒いドレスを纏っている。バイアスカットが彼女の女性らしい身体つきを美しく際立たせる。ライラほど、黒の似合う女性はいないだろう。彼女の細い腕が、私にしっかりと絡められている。この重みと体温だけが、私をこの華やかな場所に繋ぎ留めてくれるのだ。


「慣れないね」


 私がそっと言うと、彼女は背伸びして、私の耳元で「緊張しちゃうわ」と囁いた。その吐息は少し震えていた。私は彼女の冷たい手をそっと上から包み込む。ふと、会場の奥に目をやると、人垣の向こうにメアリー嬢の姿が見えた。彼女は数人の紳士に囲まれていたが、私の方を向いていた。その瞳が、悲しげに揺れた気がした。私がライラを選んだことへの無言の非難だろうか。私は罪悪感を覚えつつも、ライラを抱き寄せる手に力を込めた。もうメアリー嬢を見ることはできなかった。あのアーモンド色の瞳を直視してしまえば、私は愛に吸い込まれてしまうだろう。だから、私はもう、何も見たくはない。


 その時、広間の空気が一変した。ざわめきが、波の引くように静まった。静寂。みなの視線が一点に吸い寄せられる。それは美しさの極限であった。メアリー嬢でも、ライラでもない。綺麗な紳士であった。冒瀆的なほど肉欲的な色気がじんわりと広間に染み渡る。その場の紳士たちは恐れ入り、淑女たちが貞操さえも投げ出しそうなほどだ。しかし、誰一人言葉を発することはない。


 ――それは、先生だった。九代目キングミット伯爵ソロモン・アイザック・フォン・デア・プファルツ=ステュアートだ。魔術の王と犠牲の象徴をその名に冠する男。彼は、診療室の外にあっても絶対的な支配者なのだ。全知を思わせる、圧倒的な存在感。夜のように黒い髪を後ろに撫でつけ、眼鏡を外している。曇天色の瞳がすべてを吸い込んで渦巻いている。周囲がやっと呼吸を取り戻す。貴族たちが媚びるような笑みを浮かべて近づいていく。なぜ、先生がこんなところにいるのか。伯爵であることは知っていた。しかし、コンラッド男爵家はそこまでの家格ではないはずだ。心臓が強張る。


「あの人、怖い……」


 ライラの爪が、私のジャケットの袖に食い込んだ。大丈夫だと伝えようとしたその時だった。灰色の瞳が、群衆の中の私を正確に射抜いた。先生は微かに眉を上げただけだった。だが、その視線は私の全身を剥ぎ取り、私の隣にいるライラをも検分するように舐め回した。――見られた。先生の瞳は、何も語らなかった。ただ、圧倒的な「現実」としてそこに在った。その視線の圧力に、ライラが小さく悲鳴を上げた気がした。血が吹き出したかのように、みるみると彼女の顔が青くなっていく。


「お願い。帰りましょう」


 ライラが懇願する。溶かされてしまう。私はグラスをウェイターの盆に戻すと、ふらつくライラを支えて、逃げるように会場を後にした。背中に突き刺さる灰色の視線が、熱い烙印のように私の心臓を焦がしていた。



 ***



 私が再びハーレー街のあの重厚な扉の前に立ったのは、一週間後のことだった。扉を叩く。いつもの匂い。いつもの薄暗がり。先生は変わらぬ姿勢で、静かに暖炉の前に座っていた。私は寝椅子に身を横たえる。沈黙が痛い。


「先日は、失礼いたしました」


 私は努めて明るい声で切り出す。


「お声掛けしようかとも思ったのですがね、ライラが、彼女が急に貧血を起こしてしまいましてね。先生の威厳に少し当てられてしまったようで。人混みは苦手だと言ったのに、私が無理をさせたせいなのです」


 先生の方から、衣擦れの音がした。先生は眼鏡を外し、その冷たい指先でレンズを拭いているようだった。


「きみは」――低く、乾いた声が響く――「きみは、その『不在』を、実によく飼い慣らしている」


 それは賞賛なのだろうか。それとも、解剖医が珍しい病変を見つけた時の驚嘆なのだろうか。しかし、私は先生の言葉の意味を図りかねる。不在とは何のことだろうか。ライラはあんなにも震えていたのに。


「どういうことでしょうか」


 私の問いは虚しく響く。返事はない。汗がじんわりと滲むのを感じる。


「ライラは、人混みが苦手なんですよ。あまりに多くのことに気を回してしまう性質たちですから。慣れない場で余計に緊張していたみたいで。そこに、社交界でも噂の先生の美貌を目にしたものですから、私なんかも、このように薄暗ければまだ平気でいられますが、不意にお目にかかったもので、いや、私も、ええ……」


 必死で弁明する私に対し、先生は重い口を開いた。


「なぜ、きみはそこまでして、私を欲望させようとするのかね」


 来たばかりなのに、先生は唐突にこう告げた。


「今日はここまで」



 ***



 私はその日、初めて気づいた。先生はずっと分かっていたのだ。分かっていて、私に語らせてくれたのだ。先生は気づいていた。


 ――ライラの『不在』。私だって知らなかった。知りたくなかった。ライラなんて女性は存在しなかった。否、否、否。いたのだ。いたのだ! あそこにライラはいた!


「私はずっとあなたのことが大好きですよ」


 ライラの細くて綺麗な声が、聞こえる。そんな、嘘をついていたかった。

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