煮え切らない俺ら

辛口カレー社長

煮え切らない俺ら

 鍋の具は、俺たちの関係性の縮図だ。

 スーパーの自動ドアが開いた瞬間、十二月の乾いた冷気が、生温かい店内の暖房と衝突して一瞬だけ淀む。その境界線を越えながら、俺はふとそんなことを思った。

 週末のスーパーマーケットは、生活の匂いで満ちている。惣菜コーナーから漂う揚げ油の酸化した匂い、鮮魚コーナーの生臭さ、そして、すれ違う誰かの柔軟剤の香り。それらが混ざり合い、独特の「家庭」という概念の匂いを形成している。その雑多な喧騒の中を、俺たちは言葉もなく歩いていた。


 カートを押す俺の手は冷え切っていた。隣を歩く莉子りこは、厚手のマフラーに顔を埋めるようにして、視線をスマートフォンに落としたままだ。画面の光が、彼女の整った横顔を青白く照らし出している。彼女の親指は絶え間なく動き続け、どこかの誰かの華やかな週末や、あるいは虚構のニュースをスクロールし続けているのだろう。

 俺と莉子の間には、カート一台分ほどの距離がある。手を伸ばせば触れられる距離なのに、そこには透明で分厚い壁が立ちはだかっているようだった。


 野菜コーナーの入口で、俺は足を止めた。

 山積みになった白菜が、青々とした断面を晒している。冬の鍋の王様。でも、今の俺には、その巨大な塊が、処理しきれない義務の塊のように見えた。

 俺は白菜を手に取り、その重みを掌で確かめる。ずっしりとした水分を含んだ重み。

「四分の一か、二分の一か……」

 独り言のように呟くが、莉子からの反応はない。以前なら、迷わず丸ごと一玉か、最低でも二分の一カットを買っていた。付き合い始めた頃の俺たちは、食欲も、互いへの関心も旺盛だった。鍋いっぱいに具材を詰め込み、競うようにして食べたものだ。翌日の朝には残ったスープで雑炊を作り、一玉の白菜なんてあっという間に消えてなくなった。けれど最近の俺たちは、二分の一カットですら、冷蔵庫の野菜室で茶色く干からびさせてしまうことがある。

「四分の一でいいか」

 俺は妥協するように、一番小さなカットを選んでカゴに入れた。小さくまとまってしまった俺たちの生活には、これくらいが丁度いい。その事実を認めることが少しだけ寂しく、同時にどこか安堵してもいる自分がいた。

「今日は何鍋にする?」

 俺は努めて明るい声を出し、隣の莉子に問いかけた。

 彼女の足が止まる。しかし、視線は依然としてスマホの画面に向けられたままだ。画面の中で何かが動いているのか、彼女の瞳が小刻みに揺れている。

「んー……」

 気の抜けた返事。俺の問いかけは、スマホの向こう側の世界に吸い込まれて、消えかかっている。

「莉子」

 もう一度呼ぶと、彼女はようやく顔を上げた。その瞳には一瞬、現実に引き戻されたことへの不機嫌さが宿っていた。

「え、何?」

「だから、鍋。何味にするかって聞いてるの」

 彼女はマフラーの位置を直しながら、面倒くさそうに「ああ」と言った。

「水炊きでいいかな。ポン酢でさっぱり食べたい」

 その答えを聞いた瞬間、俺の胸の奥で小さな落胆が広がった。またか、と思った。

「えー、また? 先週も水炊きだったじゃん。俺、今日はキムチ鍋にしようと思ってたんだけど。寒かったし、ちょっと辛いので温まりたくない?」

 俺はカートに寄りかかり、少しだけ抵抗を試みる。莉子は俺の提案に対し、あからさまに眉をひそめた。

「キムチ? 明日の仕事に響きそうだし、匂い付くの、嫌なんだけど。つーかさ、キムチ鍋にしたいなら、何でわざわざ聞くのよ」

 莉子の目が鋭くなる。

「いやさ、少しは『今日は何にしようかな』とか考えたりしないわけ?」

「しないよ。お腹空いてるし」

 会話が噛み合わない。いや、噛み合わない以前に、同じ土俵に乗っていないような感覚だ。

 この二年で、俺たちの関係はゆっくりと、しかし確実に変化した。

 付き合い始めた当初、莉子は刺激的で、新しい場所や新しい体験を好む女性だった。対して俺は、家で本を読んだり、同じ店に通い続けたりすることを好む、平穏を愛する人間だった。最初は、その違いが魅力だった。俺は彼女に連れられて見たことのない景色を知り、彼女は俺の隣で安らぎを覚えているようだった。だが、生活という現実が長く続くと、その違いは単なる「ズレ」へと変質していく。

 彼女は外の世界に刺激を求め続け、家の中では徹底して省エネモードになる。一方、俺は外での仕事に疲れ、家の中にこそ、ささやかな楽しみや変化、例えば、いつもと違うキムチ鍋を食べる、みたいなことを求めるようになった。

 食の好みの不一致は、そのまま生活のリズムの不協和音となって、俺たちの間に横たわっている。

 ――水炊きか、キムチか。

 それは単なるメニューの選択ではなく、今夜の時間をどう過ごしたいかという意思表示の対立でもあった。


 沈黙が落ちる。スーパーのBGMで流れている軽快なポップスが、やけに空虚に響く。

 俺は溜息を飲み込み、頭の中で妥協点を探った。水炊きのようにあっさりしすぎず、キムチ鍋ほど主張が強くないもの。

「じゃあ、間をとって塩ちゃんこにする?」

 俺の提案に、莉子は瞬きをした。

「塩ちゃんこ?」

「そう。さっぱりしてるけど、出汁の味もしっかりあるし。ニンニクとか入れなきゃ匂いも大丈夫だろ」

 彼女は少し考え込むような仕草を見せ、それから小さく頷いた。

「ん、異議なし」

 彼女はそれだけ言うと、再び視線をスマホに戻した。交渉成立。俺たちの会話はそこで途切れた。


 カートの車輪がカラカラと乾いた音を立てて回る。俺たちは鮮魚コーナーの冷たい光の下を通り過ぎ、精肉コーナーへと向かった。パック詰めされた肉が、赤い照明の下で艶めかしく並んでいる。俺は豚バラ肉の棚の前で立ち止まった。

 莉子は豚肉が好きだ。特に、鍋に入れた時の、脂が溶けて甘くなった豚肉を好む。しかし、ここにもまた、繊細な「莉子ルール」が存在する。

 俺はとあるパックに手を伸ばし、そして戻した。それは脂身が多すぎる。

『うわ、これ脂すごくない? なんかギトギトしてて、後で胃もたれしそう』

 以前、特売のバラ肉を買った時に彼女が放った言葉が、脳内でリフレインする。かといって、赤身ばかりのモモ肉やロース肉を選ぶと、『パサパサしてて喉に詰まる』と不満を言うのだ。

 俺は慎重にパックを吟味する。赤身と脂身のバランスが六対四、あるいは七対三くらいの、美しい層を描いているもの。値段は特売品より百グラムあたり三十円ほど高いが、背に腹は代えられない。

「これか……」

 俺は理想的なバランスの豚バラ肉を手に取り、カゴに入れた。

 ふと、虚しさがこみ上げる。

 俺は彼女の好みを熟知している。彼女が何を嫌がり、何を喜ぶかを知っている。この豚肉選びは、彼女への愛情なのだろうか。それとも、後で文句を言われるのが面倒なだけの、自己防衛的な処世術なのだろうか。かつては、彼女の喜ぶ顔が見たくて選んでいたはずだ。『わぁ、すごいいいお肉!』と笑う彼女の笑顔が、俺の報酬だった。

 今はどうだ。文句を言われないこと。平穏に食事が終わること。それが目的になっていないか。マイナスにならないように立ち回るだけの関係を、「うまくいっている」と呼んでいいのだろうか。


 豆腐、長ネギ、エノキ。

 必要な具材を次々とカゴに入れていく。莉子は後ろをついてくるだけで、商品を見ようともしない。まるで、俺が彼女専属の買い物係であるかのように。

 そして、俺はキノコの棚の前で足を止めた。

 視線の先にあるのは、しいたけだ。肉厚で傘の開いていない、立派なしいたけ。俺の好物だ。鍋に出る深い出汁と、噛んだ時に染み出す旨味。それこそが、鍋の醍醐味だと俺は思っている。

 だが、しいたけは莉子の嫌いなものだ。

『その匂いが無理。食感もゴムみたいだし』

 彼女はしいたけの存在を徹底して拒絶する。鍋に入れるだけで『出汁に匂いが移る』と嫌がるほどだ。だから俺は、長いこと鍋にしいたけを入れるのを我慢してきた。彼女の機嫌を損ねないために。二人の食卓の平和を守るために。

 俺はしいたけのパックを見つめた。六個入り。一人で食べるには多すぎる。

 諦めて通り過ぎようとした時、その隣に「二人用・鍋セット」として、二つだけパックに入った肉厚なしいたけが置かれているのが目に入った。

 手が止まる。

 ――いいじゃないか、別に。

 俺の中で、小さな反乱の火種が灯った。俺は豚肉を彼女の好みに合わせた。鍋の味付けも、彼女の希望に寄せて譲歩した。白菜の大きさも、俺たちの現状に合わせて小さくした。

 ――俺ばかりが我慢している。

 そんな子供じみた被害者意識が、ふつふつと湧き上がる。

 しいたけを二つ。たったそれだけのことだ。俺が俺らしくあるための、ささやかな権利。

 俺は周囲を窺うようにして、その小さなパックをカゴの隅、白菜の葉の陰に滑り込ませた。鍋の中で混ざらないように、俺の陣地にだけそっと沈めればいい。彼女の器には絶対に入れないように気をつければいい。

 そうやって互いの領域を侵さないように、地雷を踏まないように生きること。それが、最近の俺たちが編み出した、摩擦を生まないための「正解」だった。


 カゴの中身はあらかた揃った。あとはレジに向かうだけだ。

 俺がカートの向きを変えようとした時だった。

「あ、これ」

 不意に、莉子が足を止めた。今日初めて、彼女が自発的に商品棚に興味を示した瞬間だった。彼女はスマホをポケットにねじ込み、酒類のコーナーへと手を伸ばす。

 彼女の手には、金色のラベルが輝く缶ビールが握られていた。それは、俺が一番好きな銘柄のビールだった。普段、俺たちが家で飲むのは第三のビールか発泡酒だ。節約のためでもあるし、毎日の晩酌にそこまで金をかけられないという事情もある。この金色のビールは、俺にとっては特別な日にしか買わない贅沢品だった。

「珍しいね。それ、飲むの?」

 俺が尋ねると、彼女は首を横に振った。

「ううん、私のじゃないよ」

 彼女は迷いのない手つきで、その少し値段の張る缶を一本、カゴの中に入れた。

「あんたの分」

「え?」

 思いがけない言葉に、俺は間抜けな声を上げた。

 莉子はポケットから再びスマホを取り出し、画面に視線を落としたまま、ぶっきらぼうに言った。

「先週、仕事がキツいって言ってたでしょ? プロジェクトがどうとかで、ずっと溜め息ついてたし。これ飲んで元気出してよ」

 胸の奥底で、冷え切って固まっていたヘドロのようなものが、ふわりと揺らいだ。

 先週、確かに俺は追い詰められていた。納期直前のトラブル対応に追われ、連日深夜まで残業していた。家に帰ってもパソコンを開き、カリカリとキーボードを叩き続けていた。

 莉子はその間、何をしていたか。

 俺が「疲れた」とこぼしても、「ふーん、大変だね」と生返事をするだけで、テレビを見たり、スマホをいじったりしていた。俺はそんな彼女を見て、なんて冷たいんだろうと思っていた。俺の苦労なんてどうでもいいんだ、と孤独を感じていた。

 でも、違った。

 彼女は見ていないようで、見ていたのだ。俺が眉間に皺を寄せてモニターを睨んでいる横顔を。キッチンで水を飲む時に漏らした深いため息を。背中に滲んでいた疲労の色を。

 彼女は何も言わなかったけれど、気づいていたのだ。

「ありがとう……」

 喉の奥が少し熱くなり、俺は掠れた声で礼を言った。

 莉子は照れ隠しなのか、それとも本当にどうでもいいことなのか、俺の方を見ようともせずに肩をすくめた。

「別に。ついでだし。私がアイス食べたかったから、そのついで」

 彼女の指差す先には、確かに彼女の好物である高級アイスクリームのケースがあった。

「ずるいな。自分の分だけ高いアイス買って」

「労働の対価よ。今週は私も頑張ったんだから」

 彼女の口元が、微かに緩んでいるのが分かった。俺たちの関係は、こういうアンバランスなやり取りで保たれている。

 言葉足らずで、素直じゃなくて、すれ違ってばかり。でも、完全に糸が切れてしまわないのは、こうした不意打ちのような気遣いが存在するからだ。


 レジの列に並びながら、俺はカゴの中身を見下ろした。

 俺が気を遣って選んだ、彼女好みのバランスの良い豚肉。俺たちの妥協点である、塩ちゃんこのスープの素。彼女は嫌いだけど、俺はどうしても食べたかったしいたけ。そして、彼女が俺のために選んでくれた、特別なビール。

 バラバラだと思った。

 統一感がなくて、それぞれの我がままと、それぞれの気遣いがごちゃ混ぜになっている。でも、これら全てが一つの土鍋の中に収まり、ぐつぐつと煮込まれていくのだ。それはまるで、俺たち自身のようだった。

 全く違う人間同士が、一つ屋根の下で、妥協したり、反発したり、許し合ったりしながら、どうにか一つの形を作ろうとしている。不格好だけれど、愛おしいカゴの中身だった。

 スーパーを出ると、外は既に日が落ちていた。

 冬の夜空は高く、澄んでいる。冷たい風が頬を刺すが、来る時ほど寒さは感じなかった。重くなったエコバッグを持つ俺の手には、確かな生活の重みがあった。

「寒っ」

 莉子が肩を縮める。

「鍋であったまろう」

「うん。早く帰ろ」

 彼女が少しだけ歩くペースを速め、俺との距離が縮まった気がした。


 アパートに帰り着くと、部屋の中はしんと静まり返っていた。暖房のスイッチを入れ、俺たちは手分けして準備を始める。

 俺が白菜をざく切りにする音。莉子がテーブルにカセットコンロをセットする音。

 普段はテレビの音がBGM代わりだが、今日は何となく点けないままでいた。

 キッチンに立つ俺の背中で、莉子が冷蔵庫を開ける音がした。プシュッ、と缶を開ける音が続く。

「ねぇ、先に飲んでいい?」

「いいよ。俺もすぐ行く」

 彼女は自分の発泡酒を開けたようだ。俺のビールは、まだ冷蔵庫の中で冷やされているはずだ。食事と一緒に飲むのを楽しみに取っておく。

 土鍋に水を張り、塩ちゃんこの素を入れる。火にかけると、すぐに香ばしい出汁の匂いが立ち昇り始めた。

 大皿に白菜、長ネギ、エノキ、豆腐を盛り付ける。そして、厳選した豚バラ肉を美しく並べる。

 最後に、俺はこっそりと買ってきたしいたけを取り出した。

 莉子はリビングでスマホを見ている。今のうちに、鍋の底の方、俺が座る側の死角へとしいたけを沈める。これは完全犯罪だ。いや、バレたとしても、もう笑って許される気がした。

 準備が整った鍋をカセットコンロに乗せ、火を点ける。青い炎が揺らめき、土鍋の底を舐める。しばらくすると、鍋蓋の隙間から白い蒸気が勢いよく噴き出し、カタカタと蓋が踊り始めた。

「できたよ」

 俺が声をかけると、莉子がテーブルに寄ってきた。

「おお、いい匂い」

 彼女は鼻をくんくんと鳴らす。その顔は、スマホを見ている時の無表情とは違い、素直な食欲に彩られていた。

 俺は両手にミトンをつけて蓋を開ける。もわり、と大量の湯気が立ち上り、一瞬だけ視界が白く染まった。湯気の向こうで、莉子の顔がぼやける。

 ぐつぐつと煮立つ鍋の中で、豚肉が淡いピンク色から美味しそうな褐色へと変わっていく。白菜は透き通り、スープをたっぷりと吸い込んでいる。


「いただきます」

「いただきます」


 二人同時に手を合わせる。

 箸を伸ばすタイミングが重なり、鍋の上空でカチリと乾いた音がした。

「あ、わりぃ」

「先、いいよ」

 譲り合った先で、莉子が最初に掴んだのは、俺が気を使って選んだ豚肉ではなく、くたくたに煮えて形が崩れかけた白菜だった。

 彼女はそれを小皿に取り、ふうふうと息を吹きかけてから口に運ぶ。

「ん、熱っ」

「大丈夫か?」

「うん……美味しい」

 彼女はしみじみと呟いた。

「そう? ただの白菜だけど」

「なんか、味が染みてるわ。塩ちゃんこ、正解だったかも」

 彼女がふっと笑った。その笑顔を見た瞬間、俺の胸の中にあった小さなわだかまりが、湯気と一緒に溶けていくのを感じた。

 劇的な解決があったわけではない。俺たちの趣味が一致したわけでも、将来の不安が消えたわけでもない。スマホばかり見る彼女への不満がゼロになったわけでもない。でも、こうして同じ鍋をつつき、同じものを「美味しい」と感じる瞬間がある。それだけで、明日もまた一緒にいられる気がした。

 俺は冷蔵庫から、例の金色のビールを取り出してきた。プルタブを起こすと、プシュッという小気味良い音が部屋に響く。一口飲むと、ホップの苦味と濃厚なコクが喉を駆け抜けた。

「うまい」

「でしょ? 感謝してよね」

 莉子はニヤリと笑いながら、自分の発泡酒をあおった。


 それぞれの具材が、同じスープの中で熱を帯びていく。

 豚肉の脂が溶け出し、スープに甘みを加える。ネギの辛味がアクセントになり、豆腐が優しく全体を包み込む。

 俺たちは、この鍋の具材と同じだ。溶け合って完全に一つになることはない。俺は俺で、莉子は莉子のままだ。形も食感も違う。それでも、同じスープに浸かり、互いの出汁を吸い込みながら、時間をかけて「二人の味」を作っていくことはできる。

 刺激的なキムチ鍋のような情熱はもうないかもしれない。水炊きのように純粋で無垢な関係でもない。

 少し濁っていて、雑多な味が混ざり合った、塩ちゃんこ鍋。

 それが、今の俺たちの味だ。


「あ、これ何?」

 不意に、莉子の箸が止まった。彼女の箸先が、鍋の底から茶色い物体をつまみ上げている。俺が隠したはずの、しいたけだった。

 しまった、浮き上がってきてしまったのか。

 俺は身構えた。文句を言われるか。嫌な顔をされるか。

 しかし、莉子はしいたけをじっと見つめた後、ぽいっと俺の小皿にそれを放り込んだ。

「あんたの好きなやつでしょ? 私の陣地に入ってきたから返却」

「あ、すいません……」

「まったく。こっそり入れるなんて根性が卑しいのよ。堂々と入れればいいのに」

「え? だって、匂いが移るって……」

「二個くらいなら許容範囲。それに、あんた最近元気なかったし、好きなもの食べた方がいいでしょ?」

 彼女はそう言うと、また豚肉を口に運び、満足そうに咀嚼した。

 俺は自分の器に入れられたしいたけを見つめた。熱々の出汁を吸って、ぷっくりと膨らんでいる。

 ――なんだ、そうか。

 俺が勝手に壁を作っていただけだったのかもしれない。彼女は俺が思うよりずっと、この関係に対して寛容で、そして無関心なふりをして、俺のことを見てくれていたのだ。


 俺はしいたけを口に入れた。

 噛み締めた瞬間、熱い汁がじゅわりと溢れ出す。しいたけの独特の香りと、豚肉や白菜から出た旨味、そして、塩ちゃんこのスープの味が口いっぱいに広がった。

 今まで食べたどんなしいたけよりも、複雑で、深みのある味がした。

「うん、うまい」

「よかったね」

 俺たちは今夜もこうして、ぬるい日常を飲み込んでいく。

 鍋の具は、俺たちの妥協点そのものだ。でも、そのスープの温度は、思っていたよりもずっと温かくて、決して悪くない。

 湯気の向こうで、莉子がスマホをテーブルに置き、俺に向かってビール缶を掲げた。

 俺も自分の缶を掲げる。

 カチン、と軽い金属音が、静かな部屋に響いた。


(了)

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