カイへ
ユニ
カイへ
機械のように正確に、決められた毎日を繰り返している。
自宅のワンルームマンションを出て横断歩道を渡ると、大学の北口門が見えてくる。京都の街中に位置しながらも、構内は緑に溢れ、まるで広大な公園のようだ。
五分ほど歩いて理学部棟に到着すると、私は階段を使って地下二階の小部屋へと向かう。エレベーターは利用しない。
地下二階の廊下を歩いていると、足元に黒い物体がまとわりついてきた。「ニャー」と小さな音を発している。
立ち止まってそれを見下ろすのも、毎日のルーチンだった。
「カイ先生。おはようございます」
不意に、元気で明るい声が飛んできた。
ショートカットの髪を揺らして近づいてきたキニワさんは、私の足元にいる黒い物体の前でしゃがみ込んだ。
「キャットちゃんもおはよう。今日もかわいいですねぇ」
キニワさんは嬉そうにキャットの背中を撫でながら話しかけている。キャットはゴロゴロと喉を鳴らし、甘えているようだ。
「先生、今日も早いんですね」
「僕は毎日朝七時から作業に取りかかるので。いつも通りですよ」
「あら、そうでしたか。あたしはいつも九時に出勤なんですが、今日は望月研究室の新歓の準備で早めに来ちゃいました」
キニワさんは小柄で目も大きく、愛嬌のある顔立ちをしている。
男子学生に人気があるのも頷ける。
「ところで、その『先生』ってのはやめてください。僕はただの研究員ですから」
「大学院を出て研究しているなんて、事務職のあたしからすると立派な先生ですよ」
キニワさんは屈託なく笑った。すぐに反論してしまう偏屈な私でも、不思議とキニワさんの言葉は素直に受け入れられてしまう。
「いつもの作業開始時間をすぎてしまったので、これで失礼します」
私は笑顔で見送るキニワさんとキャットをその場に残し、廊下の奥へと進んだ。
正確に繰り返される毎日の中で、キニワさんの登場だけが予測不能なランダム事象である。
小部屋に入ると、いつものように作業机に向かい、キーボードを叩き始めた。
この部屋には他に何もない。殺風景だが、余計なものが無い分、作業に没頭できる。
コンピューターの本体はこの部屋の真上、理学部棟地下一階のワンフロアを占拠しており、そこには莫大な研究費が投じられている。
所属する研究室の望月教授と取引をし、私は研究に必要なこの小部屋とコンピューター、そして研究員という立場を手に入れたのだ。
十三時。いつも通り昼食を取るため席を立とうとすると、ドアをノックする音が響いた。
「どうぞ」
この時間に訪問してくる人物は一人しかいない。
「カイ、ちょっといいか?」
ゆっくりとドアを開けて入ってきたのは、ヒデアキだ。
学部時代からの同級生で同じ三十三歳だが、二十歳前後と言っても通じるほどの若々しさを保っている。色白で痩せ型だが、テニスの大会では全国ベストエイトに残るほどの実力者だ。百八十センチを超える長身と整った顔立ちは、まるでハリウッド映画の主人公のようである。
ほとんど女性との交際経験がない私とは対照的で、彼には美人の奥さんもいる。
「来週の研究室の新入生歓迎会、来るよな?」
ヒデアキは新歓の案内が記載されたプリントを手渡してきた。
「ああ、年に一回のことだしな。もちろん行くよ。それに、研究も完成しそうなんだ」
「おお! それは良かった。来週、研究成果について聞かせてくれよ」
ヒデアキはそう言うと、無駄話をすることもなくあっさりと立ち去った。
本来は気さくで話好きな男なのだが、私に気を使っているのだ。何か用事がある時は、必ず私が昼休憩に入るタイミングを見計らって訪問してくる。
容姿に勝るとも劣らないほど、気配りも完璧だ。集中して作業している時に話しかけられると、露骨に嫌な顔をする自分とは大違いである。
昼休憩から戻り、再びモニターに向かいキーボードを打つ。二十一時になると部屋を出て、学食で夕食を済ませて自宅へ帰る。土日も同じパターンで、一週間が過ぎ去った。
他人から見れば、毎日同じようにモニターに向かい、ただキーボードを叩いているだけに映るだろう。
だが、日々着実に成果は積み上がり、研究は大詰めを迎えていた。
コンピューター内に構築した知能は、これまでの人工知能とは一線を画すものだ。
一九九三年、線虫がコンピューターの中で完全に再現された。
二〇〇五年には、人間の脳を完全にシミュレーションし構築するプロジェクトが開始された。
そして――猫の脳をコンピューター上で完全に再現した「キャット」が生まれた。
キャットは本物の猫と見分けがつかないほどリアルな外観をしている。猫型ロボットの試作品として大手メーカーから支給されたボディだ。
そのキャットの「知能」を、私が開発した。地下一階のフロアに配置されているコンピューターがキャットの思考を担い、そこからの命令がネットワーク経由でキャットのボディに伝えられている。
脳のシミュレートには、並列接続された九台の量子コンピューターがフル稼働している。地下一階のフロアを占める量子コンピューター群のうち、一割の台数だ。
残りの九割、八十一台は、この十年私が研究してきた「人間の脳」のシミュレートに利用している。
自宅に帰る前、いつものように学食に寄った。
ごはん、味噌汁、納豆、ハンバーグをトレイに乗せてテーブルへと向かう。閉店前なので、いつものように空いている。お決まりの窓際の席へ足を向けた。
しかし、今日はいつもの場所に先客がいた。相席になってしまう。
「ここ、いいですか?」
「待っていたよ」
望月教授だった。
テーブルにはお茶だけが置かれている。どうやら私を待っていたらしい。
「一ヶ月ぶりぐらいかな? うちの研究室のメンバーで、これだけ顔を合わさないのは君ぐらいだよ」
望月教授は豪快に笑いながら言った。
「すいません。毎日、粛々と研究を進めていて、自宅と小部屋の行き来だけなもので」
「ああ、もちろん、かまわないよ。君はそのためにうちに在籍しているんだからね。歴史の教科書で有名な数学者の逸話を知らないかな? フェルマーの最終定理を解決したワイルズ教授。彼も君と同じ様に、研究以外の事は極力排除していたそうだよ」
「望月教授のおかげです。研究だけに集中できる生活はありがたいです」
「いやいや、君の研究は私のためでもあるからね。ところで、ついに完成しそうだと小耳に挟んだのだが……」
「はい、ほぼ完成しています。金曜日の新歓に出た後、東京の大学の研究室に出張予定です。そこで精神転送データをもらったら、システムに組み込んで完成します」 「精神転送データ?」 「はい。人工知能はそれまでの記憶が土台となり稼働します。ですので、実際の人間の記憶データをそのまま転送した『精神転送』と呼ばれるデータを使うのが一番効率的なんです」
「そうか。たしかキャットも実在した猫の記憶を利用しているんだったな」
「はい、僕の実家にいた黒猫の記憶です。あの時は寿命で死んでしまった直後のデータを吸い上げて利用しました」
私が十歳の頃から実家で飼っていた黒猫が死にかけて、必死で作り上げたのがキャットだ。
母親が病気で亡くなった年、父が落ち込む私のためにもらってきた黒猫だった。
量子コンピューターのプログラミングコンクールで優勝した私は、その技術でキャットを開発したのだ。
記憶の転送技術は、歴史的にも比較的早い段階で完成していた。
今から十年前の二〇六五年には、人間の記憶データを完全な状態で量子ディスクへ保存することに成功している。
私はその記憶データを元に、脳を完全シミュレートした人工知能を完成させたのだ。
「私の長年の夢であるノーベル賞は確実だな。期待しているよ。それじゃあ」
望月教授はそう言うと立ち上がった。すれ違いざま、彼は私に囁いた。
「頼むよ」
自宅から新歓が開かれる居酒屋まで、タクシーで三十分ほどだった。
料金は三二〇円。右手に埋め込まれたチップからチャリンと電子音が鳴り、支払いが完了する。完全な自動運転とソーラー発電による運行は、タクシー料金を劇的に押し下げた。十五年前は運転手がいて、料金は十倍の三千円ほどだったと記憶している。
居酒屋の入るビルに着くと、ドローンが飛んできて五階のフロアへと案内された。
広間には望月研究室の総勢五十名ほどが既に集まり、酒も進んでいるようだった。今年は五名の学部生が研究室入りしたらしい。
このような会にはほぼ出ないのだが、年に一回のことだ、と自分を納得させて渋々参加した。
「おーい! カイ! こっちだ」
奥のテーブルでヒデアキが手招きしていた。望月教授にキニワさんもいる。そしてヒデアキの隣には、ひときわ目立つ白い肌の美人が座っていた。
「カイ君。久しぶりね」
青いアイシャドウで彩られた涼やかな瞳が、私に向けられた。
「メイ先輩、お久しぶりです」
少し緊張してしまい、返事がぎこちなくなる。
メイ先輩は私とヒデアキの一つ年上だ。学部生の頃から知り合って十年以上になるが、その美貌は当時から変わらない。
一時期、ヒデアキが熱を上げていたが全く相手にされなかった。浮いた話を聞いたこともない。ヒデアキと同じ准教授で、研究者としても一流の才女だ。
「カイ先生! カンパーイ!」
元気にキニワさんがビールの入ったジョッキを突き出してきた。
いつも以上に高いテンションと頬の赤らみからすると、既に出来上がっているようだ。
十年に及ぶ研究がほぼ完成し、久しぶりに酒を飲んだ。いつもは研究に集中するあまり、無意味な会話はノイズでしかないと思っているが、今日は人と他愛のない話をするのも悪くないかもしれない、と感じられた。
とりとめのない話をしていると、時が経つのも早い。
予定していた二時間はあっという間に過ぎた。テーブルに座っていた顔ぶれのまま、出口に向かう。
居酒屋を出ようとすると、店員が駆け寄ってきた。
「大変申し訳ありません」
「え? 何が? どうかしたんですか?」
キニワさんが真っ先に店員に反応した。
「会計システムのトラブルで、こちらで精算をお願いしています」
店員は深々と頭を下げた。
自分が生まれて今日まで、店で直接会計したことなんて何度あるだろうか。カードなりスマートウォッチなりを身に着けていれば、店を出る時に自動的に料金は引き落とされるものだ。人によっては体の中にICタグを埋め込み、体一つで全て済ませている。
店員は配膳ロボットから出力された紙のオーダー用紙を、電卓を使って計算し始めた。
合計金額が出ると、望月教授がカードで支払ってくれた。
「おい! この金額合ってるのか!」
突然、怒号が飛んできた。
隣で会計していたグループだ。三人組の若者が、店長らしき中年男性に怒鳴りつけている。
二十代以下なら、紙で出力されたオーダー用紙を電卓で計算するなんて光景、見たこともないかもしれない。言わんとしていることはわからないでもないが、あそこまでごねる必要もないだろう。
そんなことを考えていると、三人組に向かってキニワさんが近づいて行った。
「お店の方も謝ってるんだし、怒鳴ったりしなくていいんじゃないですか?」
キニワさんはまだ酔っているのか、それとも意外な正義感と大胆さを持ち合わせているのか、躊躇なく若者に食ってかかっている。
「あれ、うちの大学の学生だな。アメフトチームの連中だ」
望月教授が眉をひそめた。
「私も注意してきます」
メイ先輩が向かおうとすると、ヒデアキがそれを制した。
「ボクが行ってきます」
ヒデアキは若者三人の元へと近づいた。私もその後をついていくことにした。
「お前には関係ないだろ! 会計詐欺の手伝いか!」
若者三人はキニワさんを責め立てている。近づいてみると、若者は三人ともヒデアキと同じぐらい背が高い。腕の太さや胸板の厚さはかなりのものだ。
ヒデアキはキニワさんの前にさっと出ると、若者三人から守るように立ちはだかった。
店長の手に持っている紙のオーダー用紙を見ると、せいぜい三十枚ほどしかない。
「ちょっといいですか? そのオーダー用紙見せて下さい」 「え?」
店長らしき中年男性は驚いたようだったが、私にオーダー用紙を渡してくれた。
「合計いくらだったんですか?」
オーダー用紙をめくりながら、店長らしき男性に聞いた。
「二万一千五百四十円です」
店長は若者三人の方を気にしながら答えた。
「だから、紙に書かれた数字をそんな昔の電卓なんていう古い機械で計算して、合ってるのかって聞いてんだよ!」
金額を再度言われたのが気に入らないのか、若者三人の中でリーダー格の男が声を荒げた。あとの二人も「そうだ、そうだ」と囃し立てている。
「合ってますよ」
思わず口に出してしまった。
無関係な私が口を挟んだのが気に入らなかったのか、リーダー格の男はますます興奮して叫んだ。
「おい、おっさん! なんでお前がわかるんだよ!」
「ここにあるオーダー用紙に金額が書いてあるので、合計したら店長さんのおっしゃる通りの金額、二万一千五百四十円でしたよ」
「ふざけるなよ!」
「間違いなく合ってます」
私はオーダー用紙をめくりながら、淡々と暗算の結果を述べた。
「七百八十円、千百四十円、千八百八十円、二千五百四十円……」
オーダー用紙に書かれた数字を足しながら読み上げると、リーダー格の男の表情が一瞬固まったように見えた。だが、すぐにまた喚きだした。
「暗算なんて、その古い電卓とかいう機械よりも信用できねーよ!」
そこへ、キニワさんが勢いよく割って入った。
「なら自分で計算しなさいよ! それにあなた達、大学のアメフト部の人たちでしょ。カイ先生ならこの程度の計算なんて、朝メシ前なんだから!」
「……カイ先生?」
リーダー風の男は、口を止め、目を泳がせた。
「そう! 菊池カイ先生! あなたも同じ大学なら、名前ぐらい知ってるでしょ!」
「あ、あのキャットの開発会見に出ていた、我が大学最年少入学の……」
リーダー風の男は目を丸くして、私の方をまじまじと見つめてきた。
「いや、自分はただの手伝いみたいなものだから。そちらに居るのが望月教授だよ。君たちも大学生なら、こんな所で揉め事を起こすのは自分のためにならないだろ」
リーダー風の男は一気に興奮も冷めたようで、先程までの勢いが嘘のように萎んでしまった。
「は、はい」
リーダー風の男は聞き取るのが難しいほど小さな声で返事をした。店長に頭を下げて会計を済ませると、逃げるようにお店を出ていった。他の二人もリーダー風の男が怖じ気づいたのを見てか、丁寧に謝罪するとすぐに姿を消した。
「いやー、さすがカイ。見事に平和的な解決だね」
ヒデアキが拍手しながら言った。
「自分はただ計算チェックしただけだから。キニワさんが最初に駆け寄ってなかったら、見て見ぬ振りをしてたよ」
「たしかになぁ。リエちゃん、すごい勢いだったなぁ」
ヒデアキはキニワさんを見ながら感心したかのように相槌を打った。しかし、いつの間にキニワさんを下の名前で『ちゃん』づけで呼ぶようになったのか。調子のいい奴だ。
「もう! ヒデアキ先生、からかわないでくださいよ」
キニワさんもまんざらではないのか、嬉しそうにヒデアキの肩を叩いている。
「しかし、キニワさん。朝メシ前だなんて古い言い回し使うんですね」
キニワさんの言葉遣いが気になっていたので、思わず口にしてしまった。
「ちょっと、カイ先生まで!」
キニワさんは顔を赤くした。
「いや、本当にそう思っただけなので」
「わたしも一応女なので、古いとか言わないでくださいよ」
「古いのは言い回しで、うまく使いこなすキニワさんは知的でいいと思いますよ」
キニワさんは顔を赤くして黙ってしまった。酔いがまた戻ってきたのだろうか。
「こりゃあいい」
ヒデアキが大笑いしながら背中を軽く叩いてきた。
無事解散し、帰宅後はいつも通り床についた。
◇
久しぶりに酒を飲んだからか、あるいは夜中にふと目が覚めてしまったのか。
あたりは真っ暗だ。
「今、何時だろう?」
時計を見ようと起き上がろうとするが、体が動かない。
いや、体が動かないというより、いくら力を入れても動かせない。
そして、真っ暗なうえに、何も聞こえない。
「まだ、夢を見ているのか?」
起き上がろうと力を入れようとするが、体に力が伝わる感覚が全くない。
「寝ぼけているのか?」
いや、思考はハッキリとしている。思考はハッキリしているのに、あらゆる感覚がない。
「いったい何が?」
病気? 昨日、最後の記憶は……。
たしか……。
居酒屋の前でタクシーに乗ったんだ。それから自宅に着いて、シャワーを浴びる前に洗濯機を回した。すぐにベッドに向かい、いつも通り就寝したはずだ。
普段通り体に異常もなかった。酒だって自宅に着いた時には、酔っている自覚もないほどに回復していた。
「誰か!」
叫ぼうとしたが、声を出せる感覚がまったくない。
「夢の中なのか?」
思考はハッキリとし、眠ることすら出来ない。真っ暗なのだが、瞼を閉じる感覚が無く、意識は完全に覚醒状態なのだ。
どれほど時間が経過しただろうか?
相変わらず暗闇の中でもがくことすら出来ない。
その時、ドアの開く音がした。
(聴覚が戻ってきた!?)
そう考えていると、ヒントをくれるように更なる音が聞こえてきた。床から硬い音が響く。
「ヒールで歩き回る音だ!」
よく聴くと、もう一つ低い音も混じっている。
「こっちは革靴か、スポーツシューズか?」
女一人と男一人が、あたりを動き回っている?
「自分は今、どこかに閉じ込められている?」
何かの薬で神経を麻痺させられているのだろうか。そして、その薬が徐々に切れ始めたのか、感覚が戻ってきているような気がする。
その時、意識が真っ白に飛ぶような感覚を覚えた。
稲妻が直撃したかのような強烈な音が頭の中で響いている。体が衝撃で震えたような気がした。
まさか屋内で雷に打たれるはずはない。感覚が戻ってきたのを何者かに勘付かれた? スタンガンを当てられたのか?
大きな音に驚いたが、冷静になると痛みは感じない。
真っ暗で体の感覚はないが、周囲の音は聞こえる。
何かを探して色々な物を動かしている様子が伝わってくる。
「一体何だ。誰が何をやっているんだ?」
その時、男が声を発した。
「メイ、見つかったか?」
メイ? メイ先輩のことか? 話しかけている男は?
「机にコンピューター、紙の印刷物が数枚しか見当たらないわ」
メイ先輩だ! たしかにメイ先輩の声だ。
「本当に何もない部屋だな」
男の声は……。聞き慣れた声。ヒデアキだ。
「時間はたっぷりある。とりあえず一旦部屋を出よう」
「そうね」
二人の足音は部屋の外へと消えていった。
私がここに居るのに、何で気がつかないんだ?
いや、気がついていたが、意識があるとは思っていなかったのか。やはりあの衝撃はスタンガン? 意識を取り戻したと思った瞬間、スタンガンを使って安心したのか。
二人がなぜ私を拘束する必要があるんだ?
二人に完成した研究の話はしていない。だが、望月教授との会話から推測は十分できるだろう。
自分の研究成果をどうする気なんだ? 自身の研究として発表? いや、発表せずにどこかの企業に売る?
理由はいくらでも考えられる。頭の中で様々な考えが浮かんでは消えていく。いずれもただの推測でしかない。
廊下からドアの隙間に明かりが十六時間射し込んだと思うと、八時間消え、同じ間隔で明暗を繰り返す。
相変わらず体は全く動かせない。しかし、ぼんやりとあたりが見えるようになった。
この場所は地下だ。廊下の明かりが夜二十四時に消え、翌朝六時には点灯するため、ドアの隙間から漏れる光に規則性があるのだ。
ドアの明かりの明暗の繰り返した回数から推測すると、最低でも一週間は経っている。
普段ほとんど人付き合いがないとはいえ、誰かがおかしいと気づいてもいいはずだ。いや、何よりもここは私の研究室だ。
「なぜ、誰も気がつかない!」
考えたくは無かったが、ヒデアキ、メイ先輩、そして教授やキニワさんまで、みんなグルなんだろうか……。
私の知る限り、あれから七日目の朝。いつもより早いタイミングで外からドアの鍵を誰かが慌ただしく動かした。
「あれ? 開いてるな」
独り言をつぶやき、ドアを開けてその人物は小部屋へと入ってきた。
その人物は私の目の前の椅子に座ると、こちらを見つめた。
「エラーは出てないな。ログを見る限りは正常だ」
その人物の顔は、毎朝鏡で見慣れた顔だった。
歳相応といった感じで、肌の色は浅黒く、頬は少し痩けている。
「ぼ、僕が目の前に居る……」
そして、目の前の「私」らしき人間は、いつもの私のようにキーボードを叩き始めた。
お昼になると小部屋から出て、三十分ほどで戻って来る。またキーボードを叩き、夜になると帰宅した。
次の日、目の前の自分が作業しているとドアがノックされた。
「カイ君、研究の方はもう完成したんだろ?」
(望月教授だ!)
小部屋を訪問してくるのは珍しい。
「はい、エラーも出ずに順調に動作しています。しかし、本当に記憶と意識が正常に転送されたかは、これからの検証にかかっています」
「カイ君、システムを完成させただけではなく、既に記憶と意志の転送までやってしまっていたのか」
「ええ、出張に出かける前に終えました。転送自体は既に確立した技術で、安全性には問題ないですから」
「聞くまでもないな……。君は自分自身の記憶と意志を、このコンピューターに転送したんだな」
「はい、自分自身のことなら、何か問題が起きても構いませんし」 「君は本当に研究以外に興味がないのだな」
体を麻痺させられたのではなかった。
システムが起動した後に接続されたマイクにより聴覚を得られ、カメラによって視覚を得たのだろう。スピーカーを接続してくれれば、音声により会話ができるはずだ。
慎重な私のことだ。徐々に知覚機能を増やしているのだろう。今日、望月教授に順調だと話していた。明日にでも外部と意思疎通ができるようになるのではないだろうか。
また新しい朝が来ると、カイはいつも通りの時間に小部屋に入ってきた。
予想した通り、スピーカーとマイクをコンピューターに設置すると、話しかけてきた。
「聞こえるかい?」
「ああ、一週間も待ったよ」
「へー。記憶と知性を転送して、すぐに思考を開始したということか」
自分はコピーだとわかっていても、あくまでカイであり、カイであり続けようとする。
毎日変わらない生活をし、目的の作業だけできればそれでいい。大学へ通う事、食事、睡眠、全てが無駄な事ぐらいに思っていたが、実際に思考のみしか出来なくなると、動き回りたい欲求が出てきた。
毎日作業的にこなしていた食事も、今では何ともったいない事をしていたのかと思う。仕方なく取っていたコミュニケーションさえも尊い。
私は他の人に、何と失礼な態度をしていたのだろうか。
「うーん。わからないな。いかにもカイらしく応答するが、このぐらいの反応をするAIならいくらでも存在している」
カイはつぶやいている。
「おい! 何を言ってるんだ! 君の研究は完成しているんだよ! こうやって会話をしているだろう」
一週間も誰とも話せなかった生活が続いたストレスだろうか。今までにないほどに必死に訴えた。
「うーん。こんな反応は自分らしくないなぁ。失敗かな。一度リセットして再度データを取り直すかな」
目の前のカイは、あっさりとそう言った。
今ここに存在する自分は、確かに生きている。そして、この不自由な状態から抜け出したい。
消されるなんて、受け入れる事は出来ない。
その時、ドアをノックする音が聞こえた。
この軽快で楽しそうな音をたてるのは、キニワさんだ。
「カイ先生。ご用というのは何ですか?」
「ああ、キニワさん。お願いしたい事があったんだけど、どうやら失敗だったみたいだ。また次の機会にお願いします」
「待ってくれ!」
思わず叫んだ。
「え?」
キニワさんは不思議そうにこちらを見ている。
「ごめん、キニワさん。これは失敗作だから気にしないで」
「違う! 俺は生きている!」
必死に叫んだ。
「こんな必死に叫ぶなんておかしい。俺なんて言ってるし、やっぱりダメだったな」
キニワさんは黙ってこちらを見つめている。
「カイ先生……。カイ先生が二人いる」
「キニワさん、何を言ってるんだ。言葉使いもおかしいし感情的だし、これは失敗だよ」
キニワさんはカイの方を見て、不思議そうに言った。
「カイ先生。なぜ、カイ先生がコンピューターの中にもいるの?」
その言葉にカイも少し考え込み、口を開いた。
「キニワさん、どうしてこれをカイだと思うの?」
「どうしてって、わからないですけど……カイ先生じゃないですか」
ニャーと鳴き声が聞こえたかと思うと、キャットが開いていたドアから部屋に入ってきた。
「キャットちゃん」
キニワさんはキャットを抱き上げた。
「ほら、キャットちゃん。お友達ができましたよ」
キニワさんは笑顔でこちらを見つめている。キャットも、こちらを見つめている。
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