地獄行燈
扇風機すずし
地獄行燈
飽きたのならそうとおっしゃってください。飽きてしまわなければ……
※※※
私がまだ幼くて頑是のなかったころ、そのころはまだ振り分け髪のてっぺんに角のようなひとつむすびを一本生やし、洟垂れのまま野山を駆け巡って遊んでいた。けれど、いつのころからか慎み深くなり、母さんの手伝いにちびっこの世話に駆け回って、いつしか一人前の娘になってしまった。
なってしまった、と言ったけれど、不思議なことに、私はいまだ大人になり切れないでいる。そう思っているのは私だけで、ほかの誰もが大人だとほめそやすけれど、それは誰もが私の秘密を知らないでいるからに他ならない。
今日はそれについて書き記そうと思う。私が一目垣間見た、地獄行燈の玉についての話を。
※※※
それは山遊びに飽きた冬の朝のこと、その日は雪もなくよく晴れて、なぜか青草が道端で強く強く生え残っていた。私は一番早くに起きて、まず外に出ると軒先の、空っぽになった燕の巣をぼうっとながめていた。すると天から太陽のような火が降り立ち、たちまち私の家の前で止まると、中から、炭の燃えるように赤黒い着物の、きれいな姫様が現れた。私がその不思議さに目を奪われていると、姫様は私を見つけて、「やあ」と笑いかけた。
「こんにちは」
と私は答えた。恐れ多いと思いつつ、答えずにはいられなかった。すると姫様はにこりと笑い、私の方に何か赤い玉を投げてよこした。
「閻魔様が仰せだ。貴方が預かるといい」
幼い私には意味が分からず、玉を受け取ってもなお、姫様の方を見てぼうっとしていた。姫様は少しだけ首をかしげると、やがて火の玉に乗りかかりながら(さながら牛車にでも乗るように乗り上げて)、
「七日だよ、七日。七日で飽きたのならあげてもいい」
そう言い残し、炎に包まれてまた天まで上ってしまった。
何が起きたのかよくわからず、私は天を見てぽかんと口を開けていた。けれど母さんが戸口から呼んだので、返事をしながら玉のことはいったん忘れてしまった。
日も暮れて布団に寝そべった時、懐に何か堅いものを感じて、ようやく玉のことを思い出した。取り出してよくよく見ると、透き通った赤色の中に夕日にたなびく雲のようなすじの入っていることが、暗闇の中でもよくわかった。そうしてよく見て気づいたのだが、この玉は暗闇の中でも、自ら光を放って周囲をほのかに照らしていたのだ。初めてそれに気づいたときはぱっと玉から手を放し、この気味の悪いものどうしてくれようか、安値で村のおばあ様に売ってみようかとも思いさえした。このおばあさんは高利貸しで名が知れていて、今はもういないけれど死ぬ間際まで人に恨まれて仕方のない人だった。けれど、そんな汚いひとにあげるくらいなら、と思いなおしたから、私は玉の中をもう一度覗き込んだ。
するとよくよく眺めるうちに、白色のすじがさあっと晴れて、玉の中がちかちかと強く光りだした。なぜか心を惹かれて覗き込むと、突然、玉の一番上の方にちかっと強い光が瞬き、あっという間に炎となって、輝く橙色に燃え出した。燃えているのは傾きつつある何か黒い塊で、それがだんだんと倒れ行くうちに隣の同じ塊にも火が付き、燃え上がる。私は沸き立つような好奇心に駆られて、一心に玉をのぞき込んでいた。見つめるごとに炎は赤、黄色と色を変え、ますます激しく燃え立ち、黒い塊の何かを焼いていった。そうして見るうちに寝入ってしまい、気づけばの朝日の中で中で布団にくるまり、眠たい目をこすっていた。
あれは何だったんだろう、と思って枕もとを漁ると、もう色を失った、正確には薄赤ばかりで輝きを失った玉が転がっている。拾い上げるうちに母さんに呼ばれて──(もう寝坊ですよ!)──その日もまた玉のことは忘れた。
そうして夜になって、今度は自分から思い出し、もう一度玉をのぞき込んだ。朝の通りの薄赤の玉が、私の手の中に包まれてあった。じっと見つめて見つめ続け、昨日のあれは夢だったのかとふと思い起したその時、赤色の玉がほのかに輝きだし、やがて玉の中の雲が再び晴れていった。
そのあとは──そう、その時は、光る筒から炎を打ち出す、数多の人々の影を見た。ある時は燃え上がる空を、ある時は木でできた屋根屋根の上に、分厚い炎が駆け巡り、屋根が次々に打ち倒されるのを。
ある時は山が燃え上がる泥を噴き上げるのを、吐き出された炎と岩に包まれる石の街を。ある時は旋風が炎となって森と山に打ち付けるのを。ある時は閉じ込められた石の建物の中に炎が荒れ狂うのを。ある時はただただ、火を噴きあう空の夢を。
いろいろなものを見た。そのどれもが面白かったと今でも感じている。
二日目、私は昼に起きた。三日目になって母さんから小言を言われ、四日目にみんなが誘うのを断って、一日中家の中にいた。玉のほかに面白いものがなくなっていたのだ。私はただただ、赤く燃え上がる玉を見つめ続けた。見るごとに玉はますます強く燃え上がった。握りしめる手に熱すら感じるほど。
五日目になってようやく、この玉が借り物と思い出した。この玉はあの赤黒い、燃えるような姫様の物で、あと二日たてば取り返しに来るのだ。そう思うとひどく恐ろしくなった。何が恐ろしかったのかはわからない。玉を返さなければならないことではなく、あの姫様に会いたくなかったのでもない。ただ、玉を「返したくなかった」のだと思う。けれど、「玉を返さなければならないこと」よりも「玉を返したくない」という心にあふれ、恐怖のつのっていくあの感じを、今の私はどうにも思い出せない。もう失ってしまったのだから。
とかく、当時の私は玉を返さなければならないことが恐ろしく、六日目は玉を眺めながらあれこれ画策して過ごした。そうして来る七日目の朝、私の家の扉をたたく人があった。
どうしてか家にはだれもおらず、私は意を決して外に出た。
果たして、そこには燃える炭のように赤黒い着物の、世にも美しい姫様がいた。薄ら笑いで私を眺めながら、
「やあ」
と言う。そして顎を引くようにし、こう続けた。「約束だ。あの玉を持っておいで」
私は二、三度、息をした。その時の風景をよく覚えている。いつも遊びまわる小さな庭と、遠くに見える青草の畑、今は白い雪が少し溶け残っている田んぼ、それから目の前の女の着物の、地割れのような、傷跡のような赤い線の模様。それから彼女の背後で燃え上がる、ごうごうと燃え上がる、母の背後から見たような、かまどの中のような炎。
「違う。私そんなもの持っていません」
私は彼女の眼を見たままそういった。その意味は子供心ながらよおくわかっていた。
姫様は、いや、地獄の女人は、その紅蓮の瞳を煌々と燃やし、目を見開いて私を見た。だが全身に鬼神のような覇気をまとわせると、燃え上がる炎のように浮き上がり私の両肩をつかんだ。
「だから間違いだと言ったんだ!」
恐ろしい表情で彼女は叫んだ。そこにはいない誰かに言っているようでもあった。少し下へと視線を逸らすと、彼女の足元をすり抜けて、みみずのような炎の筋が私の家の中に入り込んでいた。だめ、と言おうとした。けれど声は出なかった。
「子供心でも無邪気なわけではないだろうに、少し目をかければこのざまだ。馬鹿らしい!」
やがて炎の一筋が、あの、赤く輝く玉を携えて姫様の頬をかすめていった。私が反射的に手を伸ばすと、姫様は合点がいったようにそれを取り上げて、ひらひらと振った。
「童、あんたに教えてやろう。これは地獄の行燈と言ってね、閻魔様が地獄を見るときに使う。澱みがたまってしまったので、磨ける者を探していたのさ。お前ではなかったようだけれど」
姫様はひどく不愉快そうに笑い、「ああ」と声をあげてからこう付け加えた。
「お前にこの玉はいらないよ。この玉がなくたって、いずれは炎を見ることになる」
その言葉の意味が分からず、私は姫様の顔を一瞬見張った。その視界の中で姫様は微笑むと、背後の炎に包まれて、まるで木切れのように燃え上がった。
業火はどれほど続いていただろう。気づけば何事もなかったかのように、玉も、炎も、あの女人も、すっかり姿を消していた──
※※※
以上が、私の見た「地獄行燈」の話である。
彼女がああいったのとは裏腹に、私はめっきり炎を見なくなった。近場の火事も、遠くの戦火も、知ることはなく私は大人になっていった。
けれど、私のまなうらには、あの炎が未だ輝いている。燃え上がり、食いつくし、地獄の門が開く日を祈りながら待っている。
だから私はいまだ大人ではなく、
※※※
「極楽に行くこともできなくなったのです」
娘はそうつぶやき、書きかけの文をぱたりと閉じた。
地獄行燈 扇風機すずし @fin_senpu-ki4327
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