第一節
不穏な風が吹き抜けていった。ワラミネは神殿の一室で目を覚ますと、石柱に巻きついた蛍光チューブが明滅するのを横目に身震いし、恐るおそる息を吸った。草木の甘い匂いがした。再び眠りに誘うような危険な香りだった。彼女は身体を起こして、チューブの電圧が安定するまで、瞼を閉じて坐っていることにした。頭がずっしりと重かった。昨夜は遅くまで仕事に取り組んでいて、あまり寝ていなかった。その上にこの嫌な空気と来た。
頼まれた仕事は確かに終わらせたのだと思い出して、彼女は自分を元気づけた。ちょうど一か月ほど前のこと、ソリドノから古い蓄音機を直してほしいと頼まれて、それ以来ずっとこの機械に苦しめられていたのだった。彼はそれまでも、何度か彼女の部屋を訪れては、いろいろなものの修理を頼んでいた。それらはいずれも用途のわからないがらくただった。今度も例外ではなく、彼女は最初、蓄音機とは何なのかわからなかった。尋ねると、ソリドノはそれが蓄電器と似たものであると言った。発音が似通っているからその関連は明らかであると。そして蓄音機と蓄電器が、それぞれグラモフォンとキャパシターの翻訳であるとつけ加えた。
「もともとは全然違うじゃない」と、ワラミネは指摘した。
「きっと翻訳者が優れていたんですよ」と、彼は言った。
「知らないものの修理はできないわ」
「私の近所にも機械いじりの得意な男がいましてね。どんなにぼろぼろの機械でも元通りにすると評判の人物なんですが、この蓄音機を修理してくれないかと彼に尋ねたら、おおよそ半年の納期で引き受けると言うんです。それに加えてまだ動くサンプルを探してこいとね。『とんでもない!』と、私は返してやりました。ワラミネさんはご存知ないかもしれませんが、私の使命は非常に重要で、ことによると一日の遅れが致命的な失敗に繋がるんです。それから、詳細な理由を言うのは控えますが、同時に世話係の目の届かないところで進める必要があります。したがって大切な機械が他人の手元にある期間は短くなければいけません。私も含めて、神殿の住人はみんな、世話係に唆されたらまともではいられませんからね。自己保身に走らざるを得ないんです。しかしあなたは私の知り合いであり、このように説明すれば急いでいる事情をわかってくれると思っていました。それから万が一の際、友情を思い出して世話係に抵抗してくれるのではないかという少しの期待もあります」
彼はこう言うと、両手に抱えていた蓄音機を自分の足元に置いた。数秒の間、太った体躯を優雅にねじってそれを見つめると、話は決まったという風に部屋を出て行こうとした。ワラミネは慌てて機械に駆け寄った。縦横が四十センチメートル、高さがその半分ほどの筐体の上に、真鍮のホーンがついていた。大きな力を加えられて上部が潰れており、萎れかけの花びらみたいだった。鉄針もどこかに行ってしまっていていた。アームの中央は筐体に擦れるほどに曲がっていて、背面のネジは錆びて役目を果たしておらず、力を込めるとすぐに板が外れた。内部のありさまはひどいもので、振動板が破れているだけではなく、得体の知れない木片と金属片が散乱していた。そのなかで何匹かの蜘蛛が蠢いているのを認めつつ、少なくとも修理には一か月かかるだろうとワラミネは言った。
「それならぴったり一か月でお願いします」
ソリドノはこう言って、今度こそ部屋から退散したのだった。
彼女がそこまで思い出したとき、ずっと遠くの方で足音が聞こえた気がした。馬の蹄の音のようによく響いたが、注意深く聞くと、人間の素足と柔らかい土とが触れ合う音だった。たくさんの人間が走ってこちらに近づいてきていた。彼女はじっとしたまま、正面を凝視し、ついで視界の端に意識を集中させた。人の動く姿はまだなく、ただ彼女の部屋を区切る四つの石柱が見えただけだった。これは基盤の上に柱身が乗っている、典型的な古典主義の柱だった。上に向かってやや膨らみながら伸びているのだが、どれだけ蛍光チューブが明るく照らしても、最後は闇のなかに消えていた。彼女の部屋の外にも柱の列は続いていた。それらは縦と横に均等の間隔で並んでいて、見渡す限り途切れることはなかった――つまるところ、彼女の部屋が際限なく連なっているような具合だった。
嫌な予感がした。この場から離れた方がいいだろう、と彼女は直感的に思った。ゆっくりと立ち上がり、そのまままっすぐ、部屋の反対側に据え置いてある栗の木の作業台に歩いていった。天板の上に、返却しなければならない工具や予備の部品が無造作に置かれていた。椅子の背もたれにはプリーツ入りの上衣が、四つ折りになってかけてあった。彼女は白い亜麻の下着の上からそれを羽織った。足音はいっそう大きくなって、地面は地震が起きたかのように揺れていた。彼女はぐるりと周囲を見渡した。依然として人の姿は見えなかった。ワラミネは足音が聞こえてくるのとは反対方面に部屋を出た。しかしちょっとも歩かないうちに、突然、左手から大勢の住民が飛び出してきた。ワラミネを見つけると、逃げられないように彼女を取り囲んだ。隊列を率いていた最前列の女が一歩前に進み出た。女は痩せていて背が低く、つむじがワラミネの鼻あたりの高さにあった。顔色が悪くて、パニックに陥っているのか全身震えていた。鳶色のちじれた髪、細い鼻と唇をもち、しきりに目をしばたいていた。女は群衆に加わるように彼女を促した。ワラミネはとっさに首を振った。すると女は、助けを求めるように、一歩引いて構えていた筋肉質の男の方を見やった。
「彼女は違うのか?」と、男は女に尋ねた。
「私たちはどれだけ走ってきたのかしら」と、女が言った。
「わからない。数時間だったと思うが。ちょうどさっきそのことで議論したところだ。四日だと言う者もいれば、一週間も走り続けたと主張する者もいる」
「あの子をずっとひとりにしておくわけにはいかない」
女は揺れる目でワラミネを見つめた。意を決して彼女を軽々と抱え上げると、人の群れのなかに投げ込んでしまった。ワラミネは声も出なかった。筋肉質の男が駆けつけて、彼女を群衆の中央に引きずっていった。彼女は彼の腕を振りほどいて、いったい何が起こっているのか尋ねた。
「彼女が君は医者だと教えてくれた。いまから患者のもとに向かう」
「何を企んでいるか知らないけれど、私は何も治せないわ」
「なるほど」と、男は言った。
群衆が出発した。男はワラミネに走るよう言った。そうしなければ後続の人びとに踏み潰されるぞと。先ほどの女が先頭で、群衆は彼女を頂点とする正三角形の隊列を組んでいるようだった。彼女は人びとの正体を正確には知らなかったが、検討はつくと思った。おそらくは二種類の人間に分けられる。ひとつはワラミネと同じく、不意をつかれて仕方がなくついてきている人びと。女は医者を探していて、医者ではないとわかった人間に対しても、何かの役に立って欲しいと言って連れ去っているに違いない。誰彼構わず他人に頼るほど切迫しているのだ。もうひとつは純粋な野次馬で、これだけの騒音を聞きつけて、何ごとかと出てきた連中だ。どちらも最終的には女の役に立たず、いつまで経っても目的が達せられない彼女は、ワラミネのことを顔見知りの医者の誰かと間違えたのだろう。願望が現実の側に抜け出てきたのである。彼女はこれが勘違いであることを伝えようと、再び男に向かって口を開いたが、彼はちょうど群衆に対して、大声で宣言するところだった。
「医者が見つかった!」
人びとは両手を上げて喜んだ。もはや彼女が何を言おうと無駄だった。隊列は速度を上げ、群衆の頭越しに見える石柱はものすごい勢いで過ぎ去っていった。右に折れたかと思えば左に折れ、隊列は複雑な道のりを進んだが、その間、三角形はほとんど崩れなかった。そうしてあっという間に目的地についてしまった。そこは石柱とチューブに囲まれた代わり映えのしない部屋で、チューブのひとつはすっかり壊れている上に、留め具が外れて斜めにずり下がっていた。女は住民の群れに分け入ってワラミネを連れ出した。
正面のベッドに少女が横たわっていた。彼女は突如として現れた多くの群衆に驚いて、結界を張るように彼らを見据えた。人びとは怯えて後退した。押し合いへし合い、遠巻きに見守った。部屋の反対側に置いてある作業机に登る者さえ現れた。筋肉質の男がワラミネのそばにやってきて、こう忠告した。
「俺が母親からの話で推察することろ、彼女には精神的な問題があり、対処してやらなければならない。君の義務を忘れるな」
彼女がベッドの前に立ったとき、少女は助けを借りずに上体を起こして、群衆に向けたのよりは穏やかな視線でこちらを見た。顔色はよかった。母親が娘の背中をさすりながら、症状を話すように促した。ずらりと並ぶ人びとの気配に圧倒され、娘はしばし躊躇していた。しかしじきに口を開いた。
「あたし、きっともうすぐ森に乗っ取られるの」
ワラミネは彼女の言っていることが理解できずに母親の方を見た。彼女は相変わらず青白い顔で腕を組んでいて、自分の子供を見つめていた。ふと、朝起きたときに感じた甘い不気味な匂いが、ここでは一層濃くなっていることに気づいた。それはいちど意識すると無視できないほどに強力で、彼女の頭から、いま見えている神殿の構造物、家具、人びとを追い出し、代わりに甘さへの陶酔で満たしてしまうほどだった。ワラミネは鼻からゆっくりと息を吸い、続きを聴くために少女に向き直った。少女は言った。
次の更新予定
2026年1月4日 21:00
神殿(連載版) 赤坂栗助 @chriske
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