居酒屋の休憩室
米飯田小町
佐藤と中村
地方の街にある小さな駅の前に位置する居酒屋。店内のキッチンに入ってさらに奥、暖簾の向こうにある休憩室は一部畳となっている。その上に座布団が並び、壁には色褪せたポスターと誰がいつ描いたのか分からない『笑顔で接客!!』の絵が貼られている。
そんな休憩室に、今日も変わらず人がいるようだ。
「お疲れ様でーす。今日は暇だねー」
「聞いてよ、彩花……彼氏と別れたの」
「え、また?」
美咲の声は投げられた石のようにぽとりと落ちる。彩花は慣れた調子でその石を仕方なく拾ってあげる。驚きもせず、怒りもせず、ただ『またか』という顔だ。
「もうほんと最悪。LINEの返事も遅いし、記念日も忘れるし、挙句の果てには『重い』とか言いやがって……こっちがどんだけ気遣ってたと思ってんのよ……」
美咲の愚痴は止まらない。彩花は「うんうん」と相槌を打ちながら、ロッカーの中から小さな鏡を取り出して前髪を整えていた。
その時、外から声がした。キッチンの方からだ。
「中村さーん。賄い」
森田という青年。大学生アルバイトの声だった。
「あ、はーい!」
彩花の目がぱっと輝く。美咲の愚痴はすっかり耳の外だ。彼女はスキップでもしそうな勢いで休憩室を出て行った。
美咲は心の中で『またか』と呟いていた。
彩花が両手でお盆を抱えて戻ってきた。湯気の立つ味噌汁、山盛りのご飯、そして主役のチキン南蛮がまるで宝物のように並んでいる。そして影の主役の野沢菜の漬物も忘れてはいけない。
彼女の目はそれらを見つめてキラキラと輝き、鼻歌まじりに座布団へ腰を下ろす。
彩花はシフトに入るたび、必ず賄いを食べる。どんなに忙しくても、どんなに疲れていても、食だけは絶対に外さない。まるでそれが彼女のバイトの本命であるかのように。
「太るよ?」
美咲が呆れたように言うと、彩花は箸を持ったままにっこりと笑った。
「大丈夫! 私太らない体質だから!」
「……殴りてえ」
美咲がぼそっと呟くが、彩花はもう聞いていない。チキン南蛮を一口頬張ると、目を閉じて天を仰ぎ、
「うまぁぁあ!」
とキムタクのように声を上げた。いや、キムタクはこんなこと言わない。と美咲は思った。
ふと、美咲の頭にある考えがよぎる。言うべきか黙っておくか、ほんの一瞬だけ迷ってからぽつりと口を開いた。
「ねえねえ。森田さんってさ、彼女いるのかな?」
彩花はごはんをかきこみながら、あっさりと答える。
「ええどうだろ。いないんじゃない? 知らんけど」
その言い方には興味の無さがにじみ出ている。美咲は少しだけ肩を落とす。まあ彩花に恋バナを期待するのが間違いだったのかもしれない。
「前からカッコいいって思ってたんだよねぇ。どう思う?」
「ええ、どうって言われてもなぁ」
彩花は箸を止めて、少しだけ考える。確かに顔は整っている。背も高いし、制服もスタイルがいいから似合ってる。でもどこか近寄りがたい。無愛想というか、ぶっきらぼうというか……ちょっと怖い。
そういえば、彼が入ってきたばかりの頃はホール担当だったらしい。でも、接客があまり得意じゃなかったのか、お客さんの評判が悪くて、店長がキッチンに回したって話を聞いたことがある。
「クールでいいよねぇ」
美咲はうっとりとした声で言うが、その目はどこか上の空だった。
彩花はその様子を横目で見ながら(顔が良ければ誰でもいいのでは)と、心の中でつぶやいた。
「美咲ちゃんって年上が好きなの?」
チキン南蛮を半分ほど平らげたところで、彩花がふと思ったことを口にした。何気ない調子だったが、目は美咲の反応をしっかりと見ていた。美咲はうーんと唸って口を開く。
「年上が好きっていうか……それ以外選択肢が無いっていうか」
「? どういうこと?」
彩花は箸を止めて、美咲の顔を見た。美咲は少しだけ目を伏せて、言葉を探すように間を置いた。
「同期の男って、なんていうか……子供じゃない? ノリとか話す内容とか。年下もまあ、同じような理由かな。年上だとクールでカッコいい人が多いイメージあるし」
その言葉に、彩花は「ふーん」とだけ返した。けれど、心の中ではちょっと引っかかっていた。
(年上がクールでカッコいい……?)
彼女の頭に浮かんだのは、父親とその友人たち。月に一度は庭でバーベキューを開き、お酒片手に大声で笑い合う中年男性たち。肉を焼きながら、くだらない冗談を言い合い、時には悪ノリが過ぎて妻に怒られる。あのノリは、どう見てもクールとは程遠い。
(あれはクラスの男子と大して変わらない気がするけど……)
男っていうのは多分、ある程度歳が近いと、みんな子供というか少年になるのだ。彩花はその歳にして、男という生き物の真理の末端に気付いていたのだった。
彩花はなにか言ってやろうと思ったが、口には出さなかった。美咲の中にある「年上=カッコいい」というイメージを、わざわざ壊す必要もない気がしたからだ。そもそも学校が違うし、彼女のクラスの雰囲気を知らない。
「彩花ってさ、恋愛とか興味ないの?」
すると不意に、美咲が問いかけた。彩花は箸を止めて、目を瞬かせる。
「え?」
思えば、美咲は今まで彩花にそんな話をしたことがなかった。いつも自分の恋バナばかりで、彩花のことをちゃんと聞いたことがなかったのだと、今さらながら気づいた。
彩花は少しだけ考え込む。 恋愛───それは、どこか遠いもののように感じていた。めんどくさい。時間が取られる。気を遣う。そういう印象が先に立ってしまう。
必要ある? とすら思ってしまう。でもそれは決して悪い意味ではない。ただ、まだ自分の人生にそれを組み込むイメージが湧かないだけだ。
「まあ、必要ないかなぁ。あんまり考えたことないかも」
彩花はそう言って、味噌汁をひと口すする。その言葉に、美咲は少しだけ眉を上げた。
「大事だよ、恋愛は」
「なんで?」
彩花の問いは、ただの素朴な疑問だった。否定でも肯定でもない、ほんとに「なんで?」っていう感じ。それが逆に、美咲の中のスイッチを押した。
「恋愛ってさ、別に今じゃなくてもできるじゃん? 大人になってからでも。でもね、学生のうちにする恋って、ちょっと違うんだよね」
美咲は腕を組んで、ちょっと遠くを見るように言った。その言い方には、ちゃんと考えてきた感じがあった。
「なんかさ、若いうちの恋って、軽いけど濃いっていうか。大人になると、いろいろ考えなきゃいけないこと増えるし、勢いだけじゃ動けなくなるじゃん。でも今は、ただ好きとかかっこいいってだけで突っ走れる。そういうのって、今しかできない気がするんだよね」
美咲は、若さの価値を知っている。
青春の恋っていうのは、大人の恋愛よりもずっと尊いものだと思っている。
「へぇ〜……そんなこと考えたことなかったかも」
彩花は素直にそう言った。美咲はちょっと得意げに笑って、肩をすくめる。
「大事だよぉ? 特に私、専門行ったら恋愛してる余裕ないと思うし」
「あぁ絵の学校なんだっけ?」
「そうそう。俗にいう夢ってやつだね」
美咲はイラストを描くのが好きで、ネットにも作品を投稿している。それが趣味から夢になって、今は本気で仕事にしたいと思っている。希望してる専門学校も、そういった絵の勉強ができるところだ。在学中は絵のこと以外は考えないつもりでもある。だからこそ、今のうちにできることはやっておきたい。そう思っている。
「大人になってからあの時やっとけばよかったって思いたくないんだよね」
その言葉には、ちょっとだけ本気のトーンが混じっていた。彩花は何も言わずに、またチキン南蛮に箸を伸ばした。
だが、さっきよりも少しだけ、噛むスピードがゆっくりになっていた。
「あ、休憩終わりだ。じゃあ私戻るね」
美咲がスマホの時間をちらりと見て、立ち上がる。
「あ、うん。いってらっしゃい」
彩花は手を振った。美咲はエプロンを直しながら、いつもの調子でホールへと戻っていく。その背中が、なんだかいつもより少しだけ大人びて見えた。
休憩室にひとり残された彩花は、ふぅっと息をついた。
なんだか、心の中がぐるぐると渦を巻いている。
ちょっと意外だった。いつも恋バナばっかりしてる印象だったけど、その裏では将来のこと、そして今のこと、ちゃんと見据えて考えていたということに。
なんだか、自分がぼんやりしてるように思えてきた。
(恋愛は……まぁいいや。一旦置いておくとして)
今、彩花の頭に浮かんでいるのは、将来のことだった。自分は、やりたいことが特にない。夢って言えるようなものもない。だから、無理せずに指定校推薦で進学しようって思ってる。それでいいと思ってた。でも───本当に、それでいいのかな。
勉強も、運動も、それなりに頑張ってきた。親はちゃんと褒めてくれるし、学校生活も不自由なく過ごしてきた。今だって毎日が平和で楽しくて、何も困っていない。
でもそれは、家が裕福だから?
生きるために必死になったことがないから?
たぶん、それもあるかもしれない。でも、それって悪いことなのかな。必死にならなくても済んできたことは、ありがたいことのはずだ。怠けてたわけじゃない。成績はずっと上位をキープしてるし、毎日ちゃんと勉強もしてる。
だけど───
(このままでいいのかな、私)
ふと、そんな思いが胸の奥に引っかかった。冷めてるわけじゃない。
でも、熱くなれたことがない。それがちょっとだけ、寂しい気がした。
「ふぅー、発注発注っと」
扉が開いて、店長が入ってきた。白いシャツの袖をまくり上げ、額にうっすら汗をにじませながら、休憩室の隅にあるデスクトップPCの前へと向かう。その机は、社員専用のスペース。発注やシフト管理、帳簿のチェックなんかをするための場所だ。
「ん〜〜〜♪」
鼻歌まじりに椅子へドカッと腰を下ろすと、マウスをカチカチと動かし始めた。
「……ん?」
店長がふと横目で彩花を見る。ごはんが進まない中村さんなんて、珍しい。と思った。
「中村さん? お箸止まってるけど?」
店長の声に、彩花はゆっくり顔を上げた。
「……店長」
その一言に、店長はピタリとマウスを止めた。声のトーンで、ただ事じゃないと察したのだろう。椅子の向きを少しだけ彩花の方へ向ける。完全に話を聞くモードだ。
「なに、なんか悩んでるの?」
休憩室に、しんとした空気が流れる。 ホールからは食器の音、キッチンからは油のはねる音。でも、この部屋だけは、時間が止まったみたいだった。
彩花はしばらく黙っていたが、ふぅっと小さく息を吐いて、口を開いた。
「おかわりしてもいいですか」
「どんだけ食うんだよ」
居酒屋の休憩室 米飯田小町 @kimuhan
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