母のオムライス

菊池まりな

母のオムライス

 私の母は、正直に言って料理が上手な人ではなかった。

包丁を持つ手つきもどこか頼りなくて、火加減もいつも勘まかせ。気づけばよく焦がして、「あっ」と小さく声を上げては慌てていた。

そんな母の作る料理の中で、子どもの頃の私が一番好きだったのは、なぜか「オムライス」だった。


母のオムライスは、決してきれいな見た目ではない。卵はお店みたいにふわふわでも、とろとろでもなく、いつも少し固くて、端っこはゴワゴワしていた。ところどころ、茶色い焦げ目までついている。

中のケチャップライスの具も、ほんの気持ち程度だ。細かく刻んだ玉ねぎと、冷凍のグリーンピース。それから、申し訳なさそうに混じっている小さな鶏肉。

それでも私は、そのオムライスがどうしようもなく好きだった。


夕方、学校から帰って玄関のドアを開けると、ケチャップを炒める甘酸っぱい匂いが、ほわっと鼻に届くことがあった。その匂いを嗅いだ瞬間、「あ、今日はオムライスだ」と、なぜかすぐにわかった。

ランドセルを放り投げるようにして台所へ駆けていくと、エプロン姿の母がフライパンを振りながら、ちらりと振り返って笑う。


「今日の晩ごはん、オムライスだよ」


その一言だけで、胸の奥がぱっと明るくなった。

その日は一日、どんなごちそうが待っている日よりも、うれしい気持ちになれた。


出来上がったオムライスは、大きな白いお皿に、こんもりと盛られていた。卵の端が少し破れて、中のケチャップライスがのぞいている。

母はその上に、チューブのケチャップで、ぎこちないハートマークを描いてくれた。


「ちょっと、いびつになっちゃったね」


そう言って照れたように笑う母の顔を、私は今でもはっきり覚えている。


一口食べると、甘い香りと、ほんの少しの焦げた苦みが、口の中に広がった。ケチャップの酸味も、炊きたてのご飯の香ばしさも、全部がごちゃまぜになって、それが不思議とおいしかった。

学校で嫌なことがあった日も、友だちとケンカして泣きたい日も、このオムライスを食べると、さっきまでの気持ちがすっと軽くなる気がした。


「おいしい?」と母が聞く。

私は口いっぱいに頬張ったまま、何度も何度も頷く。

それを見る母は、少しだけ肩の力を抜いたように笑って、自分の分のオムライスを前に座った。


私たちは並んで、同じオムライスを食べた。

母は時々、「ちょっと焦げすぎたかなあ」と言いながらも、自分の分も同じように食べて、同じように笑っていた。


思えばあの頃の母は、まだ若かった。

仕事と家事に追われて、決して余裕があったわけじゃない。それでも私のために、台所に立って、毎日フライパンを振ってくれていたのだと思う。

料理が得意じゃないことは、たぶん母自身が一番わかっていた。それでも──私が喜ぶ顔を見たくて、あのオムライスを何度も作ってくれていた。


今、私はもう大人になり、自分で料理をするようになった。

レシピ本を見れば、卵がとろりと半熟に包まれた、お店みたいなオムライスだって作れる。バターでライスを炒めて、ジューシーなチキンや、色鮮やかなパプリカを入れることもある。

それなりに「おいしい」と言ってもらえるものも作れるようになった。


けれど、どんなに手をかけても、どんなに上手に作れても、あの頃の母のオムライスには、どうしても敵わない。


焦げた卵の味も、少し水っぽいご飯の食感も、あの時の台所の音や匂い、母の笑顔や、私の気持ちまでもが、全部一緒に溶け込んでいたからなのだと思う。

私が恋しいのは、たぶん「味」そのものじゃない。

あの時間、そのものなのだ。


先日、久しぶりに実家へ電話をかけた。

母は、「最近はもう、あんまり料理もしなくなっちゃって」と、少し寂しそうに笑った。父が亡くなってから一人きりになり、簡単なもので済ませることが増えたのだという。

その声を聞いたとき、私は思わず、口にしていた。


「今度帰ったとき、オムライス作ってくれない?」


電話の向こうで、母が小さく笑った。


「あんな、へたくそなオムライスでいいの?」


「うん。お母さんのが食べたい」


そう答えると、母は少し間をおいてから、「……わかった」と、やわらかい声で言ってくれた。


実家に帰ったら、また「オムライス作って」と頼んでみようと思う。

きっと母は、あの頃と変わらない手つきでフライパンを振って、あたたかくて、少し焦げたオムライスを作ってくれるだろう。

そして私は、何十年も前と同じ気持ちで、一口目を頬張るのだ。


もしかしたら今度は、私も母の隣に立って、一緒に作るかもしれない。

「こうやって作ってたんだね」と言いながら、母の手元をのぞき込んで。

そうして、また二人で並んで、同じオムライスを食べられたなら──それはきっと、新しい思い出になる。


でも、変わらないものもある。

母の笑顔と、甘酸っぱい匂いと、あの少しいびつなハートマーク。

そして何より、胸の奥に残っている、あのあたたかな味だけは、これからもずっと、変わらないままだと──私は、そう信じている。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

母のオムライス 菊池まりな @marina_kikuthi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画