第2話「三つの訪問者」
最初の訪問者は、予告なしに来た。
というより、予告とは本来、未来からの手紙のようなもので、この家には未来が届かないのかもしれない。郵便ポストは錆びつき、新聞受けには蜘蛛の巣が張り、呼び鈴は鳴らない。それでも人は来る。まるで、この家自体が呼び寄せているように。
その朝、私は庭の足跡を調べていた。
庭にはローズマリーの木が、何事もなかったように立っている。だが私には見えた。木の根元に、小さな足跡のようなものが。
昨夜までは無かった。人間の足跡ではない。何かもっと小さな、軽い存在の痕跡。
私は膝をついて、指で土に触れた。その瞬間、指先から追憶が這い上がってきた。
夏の日、虫取り網を持って走り回る感覚。草の匂い。膝の擦り傷。そして、誰かに呼ばれる声。「お昼よ」という、母親らしき人の声。
私は手を引いた。心臓が速く打っている。これは私の記憶ではない。では、誰の?
「ご挨拶もなしに、土をいじるもんじゃありませんよ」
声に驚いて振り返ると、門の前に男が立っていた。
年齢は六十代後半。郵便配達員の制服を着ているが、サイズが合っていない。袖が短すぎて、手首が露出している。その手首には、植物の蔓のような模様があった。刺青だろうか。いや、よく見ると、皮膚の下を何かが這っているような——
「あなたは?」
「郵便です。月に一度の、生存確認」
男は笑った。笑顔は親切だったが、目が笑っていなかった。いや、目は笑っているのだが、瞳孔が笑っていない。瞳孔には意志がある、と私は初めて知った。
「祖母は亡くなりました」
「知ってます」男は鞄から一通の封筒を取り出した。「だから、これを」
封筒には宛名がなかった。ただ、蜜蝋で封がされている。蜜蝋の色は琥珀色で、中に小さな花が閉じ込められていた。カモミールだ。
「これは?」
「開けちゃいけません」男は言った。「それは、あなたが準備できた時に、自然と開きます。無理に開けると——」
男は言葉を切った。そして、私の目をまっすぐ見た。
「あなたの祖母は、良い人でした。でも正確には、良い人であることを諦めた人でした。善悪の向こう側に行ってしまった。だから私たちは、彼女を尊敬した」
「私たち?」
「月に一度、郵便を届ける者たちです」
男は踵を返して去った。門を出る直前、振り返って言った。
「土の記憶を読めるようになったんですね。祖母と同じだ。でも気をつけて。土は嘘をつかないが、真実は常に残酷だから」
◇ ◇ ◇
二人目の訪問者は、午後に来た。
私は台所でカモミールの茶を淹れていた。蜜蝋の封筒は、テーブルの上に置いてある。時々、封筒が呼吸しているように見える。膨らんで、縮んで。だが目を凝らすと、動いていない。
ノックの音。
ドアを開けると、そこには若い女性が立っていた。三十代前半、黒いワンピース、首に銀のネックレス。ネックレスの先には、小さなガラス瓶が下がっている。瓶の中に、紫色の液体。ラベンダーの精油だろうか。
「初めまして。隣町で薬草店を営んでいる者です」女性は名刺を差し出した。
「店の名前は『言葉の前』。変な名前でしょう? でも、あなたの祖母がつけてくださったの」
私は名刺を受け取った。紙は厚く、植物の繊維が混ざっている。文字は手書きで、インクの色は深緑。まるで、葉緑素で書かれたような。
「お茶、いかがですか」私は言った。
なぜそう言ったのか、自分でもわからない。しかし言葉は、私の意志より先に口から出た。
「ありがとう。でも、私が淹れてもいいかしら」
女性は台所に入ると、私の許可を待たずに棚を開けた。ガラス瓶を一つ取り出す。ラベルには「レモンバーム」と書いてある。
「あなたは今、不安でしょう」女性は言った。
「新しい場所、一人きり、理解できない出来事。レモンバームは不安を和らげる。でも本当は、不安を和らげるのではなく、不安と仲良くさせてくれる。これは重要な違い」
女性の淹れ方は、私と違った。
まず、瓶を開ける前に、瓶に話しかける。「ありがとう」と。それから、葉を取り出す時、一枚一枚、丁寧に。まるで、生きた蝶を扱うように。湯を注いだ後、三分待つのではなく、茶が「準備できた」と告げるまで待つ。
「どうやって、準備ができたとわかるんですか」
「香りが変わります。最初は葉の香り。でも、準備ができると、記憶の香りになる」
二つのカップに注ぐ。液体は透明に近い黄色で、光が通り抜ける。私たちは向かい合って座った。
一口飲む。味は予想と違った。レモンの味ではなく、夏の午後の味。具体的には、昼寝から目覚めた時の、あの少し甘い倦怠感の味。
「あなたの祖母は」女性は言った。
「人を癒しませんでした」
「え?」
「彼女が癒したのは、人と何かの間にある、裂け目です。人と世界の間、人と自分自身の間、人と時間の間。その隙間に、彼女は橋をかけた。薬草を使って」
女性はカップを両手で包んだ。
「私も昔、その橋を渡った一人です。十年前、私は自分の体を憎んでいました。病気ではなく、ただ、この肉体が自分のものだと感じられなかった。誰の体を借りて生きているんだろう、って。あなたの祖母は、私に一ヶ月間、毎日ローズマリーの茶を飲むように言いました。そして言ったの。『体を愛せとは言わない。でも、対話はできる』って」
「それで?」
「一ヶ月後、体は変わらなかった。でも、体との関係が変わった。他人から、同居人になった。完全に仲良しじゃないけど、お互いを尊重する隣人みたいな」
女性は立ち上がった。
「あなたにも、その力があります。血がつながっているから。でも力だけでは足りない。あなたは選ばなければならない。橋になるか、それとも——」
女性は言葉を切った。窓の外を見た。
「庭に、誰かいますね」
私も窓を見た。しかし誰もいない。ただ、ローズマリーの木が、風もないのに激しく揺れていた。
女性は微笑んだ。「彼らも、あなたを見ているのよ。気に入られたみたい」
◇ ◇ ◇
三人目の訪問者は、夕暮れに来た。
というより、来たのではなく、元からそこにいたような気がする。ドアベルは鳴らなかった。ノックもなかった。ただ、リビングに座っていたら、隣のソファに老婆が座っていた。
私は驚かなかった。それ自体が奇妙だった。
老婆は九十歳前後に見えたが、背筋は真っ直ぐで、目は澄んでいた。白髪を後ろで束ね、手には木の杖。杖の先端が、床に触れていない。数ミリ、浮いている。
「あなたは誰ですか」私は訊いた。
「古い友人です。あなたの祖母の」
「名前は?」
「名前は、必要ありません。私たちは名前より前に知り合ったから」
老婆は杖を傾けた。杖の影が床に落ちる。しかし影の形は、杖の形ではなかった。それは人の形をしていた。子供の。
「あなたの祖母と私は、七十年前に出会いました。戦争が終わった年。二人とも、大切な人を失った。私は息子を、彼女は婚約者を。そして二人とも、同じ場所で泣いていた」
「どこで?」
「あの庭です」老婆は窓の外を指した。
「あの頃、ここはまだ庭ではなかった。ただの荒れ地。でも荒れ地だからこそ、泣くのに適していた。綺麗な場所で泣くと、悲しみが場所に似合わない。荒れた場所でなら、悲しみも荒れていていい」
老婆は立ち上がった。窓辺に歩み寄る。杖が床に触れないまま、滑るように。
「ある日、あの場所に、一本の木が生えました。ローズマリー。誰が植えたのか、わからない。でも木は育ち、花を咲かせた。あなたの祖母は言いました。『この木は、私たちの涙から生えたのかもしれない』って」
「それで?」
「それから、不思議なことが起こり始めた。あの木の下で眠ると、夢の中で死んだ人に会える。最初は幻だと思った。でも、会うたびに、悲しみが少しずつ軽くなった。消えたのではなく、形が変わった。石から、布になったみたいに」
老婆は私を振り返った。
「あなたの祖母は、その時に悟ったんです。薬草には、薬効成分以外の何かがあるって。それは、世界と世界を繋ぐ言語だって。そして彼女は、その言語を学ぶことに人生を捧げた」
「あなたは、今もあの木の下で眠るんですか」
「いいえ」老婆は首を振った。
「もう、会う必要がないから。息子の死を、私は受け入れた。受け入れるというのは、忘れることじゃない。それを、自分の一部として抱えて生きることです」
老婆は杖で床を叩いた。今度は、ちゃんと床に触れた。音がした。
「あなたにも、近いうちに選択が訪れます。何を受け入れ、何を手放すか。祖母と同じ道を歩くか、それとも新しい道を作るか」
老婆は消えた。
文字通り、消えた。煙にもならず、音もなく。ただ、そこにいた空間が、急に空っぽになった。残ったのは、床についた杖の跡。それは焦げ跡のようで、草の形をしていた。
◇ ◇ ◇
夜、私は一人でカモミールの茶を淹れた。
三人の訪問者の言葉が、頭の中で渦を巻いている。「善悪の向こう側」「人と何かの間」「選択」。それぞれの言葉は別々のパズルのピースのようで、しかし組み合わせる方法がわからない。
急須に湯を注ぐ。湯気が立ち上る。湯気の中に、何かが見える気がする。形になりかけて、崩れる。
三分待つ。いや、今日は違う方法を試してみよう。
私は急須を手に持ち、目を閉じた。そして、茶に話しかけた。心の中で。
「準備はできた?」
答えはなかった。しかし、急須が微かに温かくなった。それは湯の熱ではなく、別の種類の温もり。生きているものの温度。
目を開けて、カップに注ぐ。
液体の色は、いつもと同じ金色。しかし、カップの底に何かが沈んでいる。最初、茶葉のかけらだと思った。だが違う。それは動いている。
私はカップを顔に近づけた。
底にいるのは、小さな人影だった。
人間の形をしているが、大きさは親指の爪ほど。全身が光っているのか、それとも液体が人の形に光っているのか、判別できない。人影は、カップの底に立っている。そして、ゆっくりと顔を上げた。
私と目が合った。
人影の顔には、目も鼻も口もない。でも、確かに私を見ている。そして、何かを伝えようとしている。言葉ではなく、存在そのもので。
「あなたは、誰?」
人影は答えない。ただ、じっと私を見つめている。その視線には、重さがある。質量のない光が、重力を持っている。
私はカップを持つ手が震えているのに気づいた。恐怖ではない。別の感情。それは、何か重要なことが始まろうとしている、という予感。運命の歯車が噛み合う音。
人影が、手を伸ばした。
小さな手が、カップの内側から、私に向かって。触れようとしている。水面を突き破って。
私は息を止めた。
人影の指先が、水面に触れた瞬間——
カップの中の液体が、一瞬で凍った。いや、凍ったのではない。時間が止まった。液体の時間だけが。
そして、人影は消えた。
後に残ったのは、普通のカモミールの茶。ただし、温度がなかった。熱くも冷たくもない。まるで、温度という概念から切り離されたように。
私はそれを飲んだ。
味は、無だった。何の味もしない。しかし、飲み込んだ瞬間、胸の奥に何かが植えられる感覚。種のような。それはこれから、私の中で何に育つのだろう。
窓の外を見る。月が出ている。
そして月明かりの下、庭で何かが蠢いている。植物たちが、まるで海藻のように揺れている。風はない。では何が彼らを動かしているのか。
答えは、もうすぐわかる気がする。
そして私は、それを知ることを恐れていると同時に、切望している。
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