カモミールを1杯
U木槌
第1話「祖母と裏庭」
私の舌が最初に覚えた味は、カモミールではなかった。それは母の乳房の味で、甘くも苦くもなく、ただ生存に必要な温度を持っていた。だが二番目に覚えた味がカモミールだったことは、私の人生を決定づけたと言っていい。まるで、最初のキスより二度目のキスのほうが人を恋に落とすように。
あの日、私は七歳で、膝を擦りむいて泣いていた。
祖母は台所から戻ってくると、白い湯気を立てるカップを私の前に置いた。「飲みなさい」と言って。液体は金色で、太陽を溶かしたみたいに光っていた。一口含むと、花が喉を通って胸の奥に植えられる感覚がした。痛みは消えなかったが、痛みと私の間に、薄い布が一枚敷かれたような気がした。
「これは何?」
「カモミール。忘れるための飲み物よ」
祖母はそう言ったが、私が忘れたのは膝の痛みではなく、痛みを恐れる心のほうだった。これは重要な違いだ。世界には、痛みそのものを消す薬と、痛みへの恐怖を消す薬がある。前者は医者が処方するが、後者は祖母だけが知っていた。
それから十八年が経ち、私は祖母の家を相続した。実際には、祖母が相続したのは私のほうだったかもしれない。彼女は死ぬ三日前、ベッドの上で私の手を握って言った。「あの子たちをお願い」と。
あの子たち。
祖母が「子」と呼んだのは、裏庭に植えられた薬草たちのことだった。カモミール、ラベンダー、レモンバーム、ローズマリー。それぞれが土に植えられているというより、土から生えているというより、むしろ土の中に溶けかけている絵の具のように見えた。風が吹くたび、庭全体がゆらゆらと揺れて、液体と固体の境界が曖昧になる。
私は植物学を専攻していたから、それらの学名を知っていた。Matricaria chamomilla、Lavandula angustifolia。しかし学名とは、生き物に墓標を立てる行為に似ている。名前をつけた瞬間、それは分類され、整理され、理解されたことになる。だが理解とは、本当は誤解の洗練された形式に過ぎない。
祖母の家は街の外れにあった。だが、外れという言葉は正確ではない。街が終わる場所ではなく、街が始まる前に諦めた場所、とでも言うべきか。バスは一日三本しか来ず、最寄りのコンビニまで徒歩四十分。郵便配達員は月に一度、祖母が生きているか確認するかのように訪れた。
引っ越して最初の夜、私は眠れなかった。
都会の騒音に慣れた耳には、静寂が騒がしすぎた。これは矛盾しているようだが、真実だ。静けさの中で、私は自分の心臓の音、血液が体を巡る音、まばたきする時の眼球の動きまで聞こえる気がした。人間の体は、こんなにも多くの音を立てながら生きているのか。
私は起き上がり、階段を降りて台所へ向かった。
月明かりが窓から差し込み、床に長方形の光を描いていた。私はその光を踏まないように歩いた。なぜなら、それは光というより、床に開いた穴のように見えたから。一歩間違えれば、私は月の世界に落ちてしまう。そう思った。
棚を開けると、ガラス瓶が並んでいた。それぞれにラベルが貼ってあり、祖母の几帳面な字で名前が書かれている。私は一番左の瓶を取り出した。カモミール。
茶を淹れる手順を、私の手は覚えている。手が勝手に動く。祖母の手が私の手の中に入り込んだように。小さじ一杯の乾燥した花を急須に入れ、沸騰直前の湯を注ぐ。三分待つ。待つ間、時計を見てはいけない。時計を見ると、時間が待つことをやめてしまうから。
カップに注いだ液体は、記憶と同じ金色をしていた。
一口飲んだ瞬間、私は七歳に戻った。いや、七歳の私が二十五歳の私の中に入ってきた。時間とは直線ではなく、折り畳まれた布なのかもしれない。ある点とある点が、偶然触れ合う。
カモミールの味は、花の味ではなかった。それは「花の味がする」と期待する人間の味覚の味だった。つまり、私が飲んでいるのはカモミールではなく、カモミールを飲む私自身だった。これは哲学的な話ではなく、舌が教えてくれる単純な真実だ。
カップを持ったまま、私は窓の外を見た。
裏庭の薬草たちが、月光の下で静かに揺れていた。風はなかった。では何が彼らを揺らしているのか。答えは簡単だ。彼らは呼吸をしているのだ。植物も呼吸をする。それは生物学の教科書に書いてある。しかし教科書には、植物の呼吸が月の満ち欠けに連動していることは書いていない。そんなことを書いたら、科学ではなくなってしまうから。
だが私の目は、それを見ていた。
庭の中央に、一本のローズマリーの木があった。他の草花より背が高く、まるで指揮者のように立っている。そしてその枝の動きに合わせて、周囲の植物たちが揺れる。オーケストラのように。あるいは、集団瞑想をしている修道士たちのように。
私はカップを置き、裏口から庭へ出た。
裸足で土を踏む。土は冷たかったが、冷たさの奥に微かな温もりがあった。地球の体温だ、と私は思った。そして思った瞬間、それが真実になった。言葉とは、世界を創造する行為だ。
ローズマリーの木に近づく。葉に触れる。葉は触れ返してきた。これは比喩ではない。葉が私の指を認識し、応答した。植物には神経がないと教科書は言うが、神経がなければ感じられないという前提が、そもそも人間中心的な傲慢さだ。
「聞こえる?」
私は声に出して言った。自分でも驚いた。植物に話しかけるなんて、正気ではない。しかし正気とは、多数派の狂気に過ぎない。
返事はなかった。当然だ。
だが、風が吹いた。さっきまでなかった風が、突然吹いた。それはローズマリーの木から発せられた風だった。葉が震え、枝がしなり、空気が押し出された。そして風は言葉を運んできた。
いや、違う。風が運んできたのは言葉ではなく、言葉になる前の何かだった。意味の胚芽。それは私の耳ではなく、胸の奥に届いた。
『お前は誰だ』
私は答えた。声に出さずに、思考で。
「祖母の孫」
『それは名前ではない』
「私は私。祖母の後継者」
風が止んだ。会話が終わったのか、それとも相手が満足したのか。私にはわからなかった。しかし一つだけ確信したことがある。
この家には、私以外の誰かが住んでいる。
台所に戻ると、カモミールの茶は冷めていた。だが私は一気に飲み干した。冷めた茶の味は、温かい茶とはまったく違う。それは液体ではなく、時間の味がした。経過した時間、失われた時間、そして戻ってこない時間。
カップを洗い、食器棚にしまう。祖母はいつも、使った食器はすぐ洗うように言っていた。「汚れは時間とともに固まる。心もね」と。
二階に上がり、ベッドに横になる。今度は眠れた。夢を見た。
夢の中で、私はカモミールの花だった。土の中に根を下ろし、太陽に向かって茎を伸ばし、風に揺られながら、ただ咲いていた。目的も、不安も、過去も未来もなく、ただ「今」という瞬間の中に溶けていた。
それは恐ろしいほど平和だった。
翌朝、目が覚めると、枕元に一輪のカモミールの花が置いてあった。
誰が置いたのか。窓は閉まっていた。ドアには鍵がかかっていた。しかし花は確かにそこにあった。露に濡れ、まだ生きていた。
私はその花を手に取り、鼻に近づけた。香りはなかった。カモミールには香りがあるはずなのに、この花からは何も匂わなかった。まるで、香りだけが抜き取られたように。
それとも、私の嗅覚が壊れたのだろうか。
いや、違う。問題は私の鼻ではなく、花のほうにある。この花は、この世界のものではない。
そう直感した瞬間、花弁が一枚、ゆっくりと剥がれ落ちた。床に落ちる前に、それは光になって消えた。
私は花を元に戻そうとしたが、もう遅かった。花は私の指の間で静かに分解し、光の粒子になって消えていった。最後に残ったのは、茎だけ。それも数秒後には消えた。
証拠はなくなった。だが体験は残った。
これが現実なのか、まだ夢の続きなのか、私にはわからなかった。しかし一つだけ確かなことがある。
この家での生活は、私が想像していたものとは違う。
そしてそれは、祖母が私に遺したものの、ほんの入り口に過ぎない。
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