Gazer's Bane(ゲイザーズベイン)

第1話 あの日、世界は私を切り捨てた

 都会の喧騒はすでに遠い幻聴であった。雑居ビルの屋上、吹き荒れる秋の夜風が、かつて国民の光と謳われた涼宮礼香の華奢な身体を、容赦なく鞭打つ。足元に瞬く無数のネオンサインは、まるで彼女を炙る地獄の業火のように揺らめいていた。

 

 この地球上のすべてから孤立したかのような、絶対的な孤独。それは、彼女の心の壁を、そして身体を支える最後の砦をも、音を立てて崩壊させていた。

 

 ネットの波は、誹謗中傷という猛烈な津波に呑まれ、日本から、全世界中へと拡散した。その波頭に彼女の可憐で儚げな面影はなかった。あるのは、悪意の光を浴びて歪んだ、醜悪な偶像だけであった。

 

 「恥ずかしい」「はしたない」。両親は、築き上げた名誉が粉砕されたかのように泣き叫び、「敷居を跨ぐな」と実の娘を勘当した。婚約者からは、かつての愛が嘘であったかのように軽蔑され、「二度と顔を見せるな」と、一方的に別れを告げられた。友達たちは、最初から涼宮礼香という存在が世界にいなかったかのように、目を伏せ、耳を塞ぎ、口を噤んだ。沈黙こそが、最も冷酷な拒絶であった。

 

 事務所のスタッフや、同僚のアイドルたちの視線は、もはや汚物を見るそれであった。「 自業自得よ」「やっぱりね」――その陰口は、彼女の耳の奥で、絶え間なくエコーのように響き続けた。憎悪を向ける者は、狂喜乱舞し、物知り顔で嘲り、あることないことを吹聴した。悪意は熱狂という名の燃料を得て、さらに勢いを増す。 


 ファンや一般の人たちの悪意に満ちた呟きのひとつひとつが、鋭利な刃物となって、彼女の細胞を破壊していく。『なんだ、ただのビッチじゃんW』『枕でトップアイドルかよ(笑)』『死ねばいいのに』


 (そうか、幸せを求めてはいけなかったのか)


 中高と、理不尽で陰湿な虐めに遭い、逃げ着いた先はアイドルのオーディションであった。煌めく光だけが、礼香を救ってくれると信じていた。事務所の代表と審査員に見初められ、これから幸せな人生が始まる、そう思った矢先。


 高名なプロデューサー、権力者のテレビ局幹部。その接待に駆り出された礼香は、あまりにも無知であった。与えられた飲み物に、覚醒剤、媚薬、睡眠薬を混入され、意識が混濁する中、彼女は彼ら三人に、肉体を弄ばれた。


 翌朝。鉛のように重い頭を上げ、ようやく目覚めた礼香を、三人の獣が舌なめずりでもするように見下ろしていた。吐き気に耐えながら、抵抗しようともがく彼女に、彼らは嬉々としてスマホの画面を見せた。


 そこに映っていたのは、あられもない姿で、恍惚の表情を浮かべ、三人の獣と行為を繰り返す、自分の醜態。それはレイプされたという訴えを、誰にも信じさせないための、獣たちの完全犯罪の証拠であった。


 その現実を認識した瞬間、身体中の力が抜け、礼香は魂を抜き取られた人形のようであった。涙と嗚咽だけが、とめどなく溢れ出る。


(悔しい!悔しい!悔しい!!)


 獣は、約束通り礼香を売り出した。彼女自身の血の滲むような努力も相まって、彼女はトップアイドルに上り詰めた。彼らは富と名声を得、次々と新しい獲物を見つけたため、礼香への執着は薄れた。彼女はトラウマに悩まされながらも、激しいアイドルの生存競争を勝ち抜き続けた。


 そんな礼香にも再び春が訪れた。愛し愛される、頼り甲斐のある恋人。荒波の渦中ある彼女の、乾いた心に、彼の包み込むような優しさが染み渡った。


 やがて、結婚の二文字を意識し始めた頃、彼からプロポーズを受けた。仕事は十分にやった。そろそろ休んで、人生最大の幸せである結婚と出産を望む頃合いであった。


「バカを言うな。お前にはまだまだ金の卵を産んでもらう。引退など認められるわけがない」


 代表は開口一番に反対し、挙句の果てに「アレをばらまくぞ」と脅した。その言葉が、彼女の背筋を凍らせた。


「代表が反対しているし、過去の事でいろいろ言われていて結婚はできない」彼にそう告げると、彼は彼女の両手を握りしめ、「僕が君を守るから、だから結婚して欲しい」と、改めてプロポーズした。その真剣な眼差しに、礼香は真の愛を見た。


 つもりであった。


 彼女は涙をボロボロと零しながら、彼となら大丈夫だ、とプロポーズを受け入れた。恋路を邪魔された彼は、何かと黒い噂の絶えない代表を告発しようと息巻いた。だがそれが、破滅のトリガーとなる。


 我が身の危険を察知した代表は、プロデューサーは詐欺事件で失墜し、テレビ局の男は穏やかに隠居していることを確認した。死なば諸共。『あの動画』を匿名で、インターネットの様々な動画サイトに流したのだ。


 そして、この日。日本中が、トップアイドルの、表向きは破廉恥なスキャンダルに騒然とした。


 全世界中の悪意の渦中に放り込まれた礼香は、呼吸が浅くなり、過呼吸を引き起こした。恋人の、スタッフの、同僚の、記者たちの蔑視の視線や冷たく言い放たれる言葉は、今の彼女には魂を直接貫かれるように痛すぎた。


 堪えきれなくなった礼香は、会見場のあるビルから逃げ出し、無意識に屋上へと駆け上っていた。夜風が、涙で濡れた頬を冷やしていく。アスファルトの冷たい匂いだけが、世界の無機質な現実を突きつけていた。


 鳴り止まないスマホの着信音や通知音。その中身を見ずとも、非難轟々であることは想像に難くない。スマホは今や、悪意の塊、誹謗中傷の手榴弾と化していた。


 それでも。家族、恋人、事務所のスタッフ、同僚、友達。誰かしら自分を心配し、誰かしら味方になってくれる、理解してくれる、そう思い、震える手でスマホを開く。


 いくらかのメッセージをスクロールして読むが、その中身はやはり彼女を非難し、攻撃し、蔑むものばかり。「死ね」という直接的な言葉も、多かった。


 悪意の塊と化したスマホを、地面に叩きつけ、踏みつける。ガラスの破片が無力に散らばった。


 そのまま彼女は屋上の金網を乗り越え、縁に立つ。


 結局こうなるのだ。幸せは自分には訪れない。自分を分かって寄り添ってくれる人などいない。自分は今までも、そしてこれからも、この世界で孤独なのだ。


 ふと顔を上げ、夜景を覗う。それぞれの家や部屋に灯る灯り。私が求めてはいけない、暖かいもの。それがこんなにもたくさんあるというのに。


「どうして私だけ……どうしてこんな目に遭わなくてはならないの?私は何もしていない。私は何も悪くない。みんなと同じく、普通の幸せを望んだだけなのに。どうしてなの?どうして!どうして!誰か私のことを理解して!誰か助けて!」


 絞り出すような彼女の叫びは、どうせ誰にも届かない。無情な世界。こんな世界ならばもういらない。私はこの世界には必要のない人間。ならば……


「お願い……助けてよ」


 その声は、もはや祈りのようであった。


 彼女は、一歩踏み出した。そこには当然、足を置けるところなどない。身体が落ちていく。高いところから飛び降りたら気を失って、そのまま死ねると聞いていたのに。それすらない。加速する重力、皮膚を切り裂く風、すべてが鮮明すぎた。死にまで嫌われているのだろうか。


「痛いんだろうな……」


 だが、その痛みさえ味わえば、もうこれ以上心身ともに苦しむことはない。そう思えば、怖くはない。

 

 そして、地面と衝突する直前。

 

 礼香は、確かに見たのだ。

 

 暗闇の中から、皮膚が透けて見えるほど白く、不自然に細長い手が、獲物を掴むかのように、自分に向かって差し伸べられているのを。


  そして、自分を、心底哀れんでいる、その顔を。

 

 顔の輪郭は闇にぼやけているのに、その目だけは、まるで夜景を映す湖面のように静かで、深く、――そして、狂気を孕んでいた。


「なんだ、いるじゃん。もっと早く逢えたら良かったのになあ……でも、ありがとう、そして、ごめんね」


 

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