【1分間読了∣掌編小説】イペの午後

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イペの午後

  坂道の途中、陽の届き方が少し変わるあたりに、古い喫茶店がひっそりと佇んでいた。


 看板には、昔ながらの字体で「サントス」とある。


 街のざわめきから半歩だけ外れたその場所は、午後の光が柔らかく沈むような気配を帯びていた。


 店の前には数本のイペが植えられている。黄色い花びらが風に揺れるたび、柔らかい春の光を含んだままふわりと落ちていく。


 明るいのに、どこか懐かしい。南国の派手さではなく、むしろ寂しさに近い色をまとっていた。


 木扉を押すと、重たい蝶番が小さく呻いた。


 薄暗い店内には、ジョアン・ジルベルトのギターが、淡い影のように揺れながら流れていた。


 光と音の境目が曖昧で、時間がひとつ分だけ外へずれたような感覚になる。


 壁には、色の抜けた『黒いオルフェ』のポスターが貼られていた。


 それでもカーニバルの熱を描いた絵柄は、この影の深い店内では、仄かに明るい。


 カウンター席に腰を下ろすと、マスターが無言でアイスコーヒーを置いた。

 

 氷がかすかに鳴る。


 その瞬間だった。

 ──音が変わった気がした。


 ジョアンのギターの奥で、遠い太鼓のリズムが、ほんの一拍だけ揺れた。


 聞き間違いかと思うほど小さな震え。


 見たことのない街の熱とざわめきの渦。それらが、一瞬だけ脳裏をかすめた。


 気づけば、店の外でイペの花がはらりと散っていた。その黄色は、先程より少しだけ強い。


 次の瞬間、遠くの熱がふっと消えた。カーニバルが終わった後のような、色の抜けた静寂だけが残った。


 その静けさは、“祭りの後”の空気に、なぜかよく似ていた。


 そして、また。

 ──元の音楽が戻ってきた。


 ジョアン・ジルベルトの柔らかなギターが、最初と変わらぬ調子で店内を満たす。


 さっきまで胸を震わせた熱も、幻のようなざわめきも、もう跡形もない。


 ただ、氷が静かに震えて解けていく音だけが残った。


 外では、イペの花がまたひとつ落ちた。その黄色が、午後の光の中、ゆっくりと溶けてゆく。

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