余香

@saeki_amane

余香


 毎年、金木犀きんもくせいの時期になると、私は死んだ恋人のことを思い出す。彼女は金木犀が好きで、秋の終わり、通学路に花弁が敷き詰められるのを見ると、きまって「私が死んだときは金木犀を添えてね」と言った。私はそのたびに、金木犀の花弁が敷き詰められた棺桶で眠る、彼女の姿を思い浮かべた。少し焼けた肌に鮮やかなオレンジ色が映え、それがもし天蓋付きのベッドであれば、彼女は眠り姫にだってなれたことだろうと思う。

 しかし結論から言えば、彼女はそのような美しい最期を迎えられなかった。

 いつも通り七時十五分頃に家を出た彼女は、その二十分後、暴走車を避けたトラックと、いつ営業しているのかもよく分からない不動産屋の外壁の間で生涯を終えた。いつも家の前で合流するはずの彼女が来ないことにくわえ、交差点から聞こえた轟音に驚いた私がかけつけると、そこには血の海に浮かぶ通学鞄があった。

 お揃いでつけていたぬいぐるみは深紅に染まり、スマートフォンと同じくらいの重さになっていた。




「ここまでしか記憶にないんです、ごめんなさい」

「良いのよ、辛いのに話してくれてありがとうね」

看護師さんは優しく私を抱きしめると、でも確かめるみたいに頭を三度ゆっくりと撫でた。

「あとでまたお母様が様子を見に来ると言っていたから、少し休んでいると良いわ。私もまた来るわね」

手を振って彼女を見送ると、私は重い頭を慎重に枕へ下ろす。少し会話をしただけなのに、一週間登校したくらいの疲労感があった。大雪の日の高速道路みたいに、まだ脳の大部分が稼働できていないように感じる。

 私は試しに目を閉じて記憶を手繰り寄せようとした。ちょうどお祭りのくじ引きみたいに、記憶に紐づくたくさんの糸の中から一本を選んで、ゆっくりと下へ引っ張る。

 糸が絡まっていたのか、初めのうちは何度引いてもうまく引き上げることができなかったが、それでも糸を変え何度か試しているうちに、いくつかの記憶を引き上げることができた。やがて意識のはるか彼方から、かすかに雨の音が聞こえてくる。


 その日は朝から天気予報の嘘に降られて、私は少しだけ落ち込んでいた。二時間も早く起きて準備をしたのに、髪や肌が徐々に嫌な湿気を帯びていく。だから合流するなり、悪態をついてしまったのだ。

「雨降ってきちゃったよ、さいあく」

今思えば、遊びに行こうと合流した友達の第一声が「さいあく」というのはまさにな話で、申し訳ないという気持ちがこみあげてくる。

「ほんとだ、一旦雨宿りしよっか、風邪ひかないように」

とはいえ私も、相手が悪態を許してくれるかどうかくらい考えている。彼女がそれくらいのことで私を糾弾しないことは分かっている。もちろん、だからと言ってそれをすべきでないことも分かっていたのだけれど。

 それでもその時の私にとっては、二時間かけて着飾った全力の自分で、彼女の前に立てないことが悔しかったんだろう。

「ねえ、今日って降る予報だった?」

「いや、確率は低かったけど、まあしょうがないさ」

おそらく彼女は納得のいっていない私の表情を見て、いろいろと考えてくれたのだろう。すぐに「そうだ、ちょっと待ってて」と言って、雨の中を駆けていった。

 手を振って走り去る桂香けいかの背中を、私はどこか羨ましく眺めていた。彼女にはあらゆる局面を楽しむ能力があって、時折悲観にのまれる私は、何度も彼女のその特性に救われていた。幼い頃はそれを「能天気」と揶揄してしまうこともあったが、今はもうそれが彼女の魅力の一つであり、周りに人が集まる所以ゆえんだと分かっている。


 そんなことを思い出していると、病室の引き戸が開くときの小さく息を吸い込むような音が聞こえた。どこか遠慮がちな足音がゆっくりと近づいてきて、カーテンの向こう側で止まる。私は横になったまま、密かに耳をすませた。

「起きてる?」

その声が誰のものであるのか、私にはすぐに分かった。「うん」と短く答えるとカーテンがそっと開く。

 あの日の朝より幾分痩せたお母さんは、戸惑いがちに何度も私の顔を見た。

「どう?少しは調子が良くなった?って言ってもなかなか難しいよね」

「ううん、ありがとう。少しだけ良くなった気がするよ。ごめんね、仕事忙しいだろうに」

「仕事なんかよりあなたのことが大事に決まってるでしょ。謝らなくて良いのよ」

 お母さんは傍の椅子に荷物をおいて花瓶を手に取ると、「水、替えてくるわね」と言って病室を後にした。

 起こしかけた身体を再び寝かせ、窓から見える金木犀を眺めていると、時折四十雀しじゅうからが追いかけっこをしているのが見えた。追いつくのを諦めた小さい身体の四十雀が、離れた枝で他の皆を眺めている。

 十分ほど経って、花瓶を持ったお母さんが戻ってきた。差し替えられた花々がどこかよそよそしく同居している姿は、私にクラス替えをしたばかりの教室を思い起こさせる。

「あら、寝てなかったのね」

身体が重く、思うように起きられない私は、支えられてなんとか上半身を起こす。腰に枕をもう一つ入れてもらうとちょうど座椅子のような形になり、窓から見える景色が随分と広くなった。鳥たちがいなくなったことも手伝って、金木犀は幾分小さく見える。

「桂香と見たかったな」

寂寥感が心に浮かんだその言葉を押し出した途端、自然と涙が溢れてきた。引き出した記憶の数々はなすすべもなく波に呑まれ、最後に交わした言葉、最後に見た笑顔、最後に握った手の温もり、それらすべてが生々しいほど現実味のある後悔となって、私の心を襲う。

 私はようやく、お母さんや看護師さんの戸惑いの意味を知った。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

その様子を見たお母さんがナースコールを押したのだろう、すぐさま数人の看護師がかけつけ、私に向かって必死に名前を呼びかける。

「ごめんね、ごめん、桂香」

全身から力が抜けベッドから落ちそうになる私を、皆が必死に支える。

 五分ほどかけてだんだんと呼吸を深くして、やっとのことで私の焦点が再びこの世界に合う。彼らは私を丁寧に横たえると、一人を残して全員が病室を出ていった。

「ごめんなさい、迷惑をかけて。大丈夫ですか?」

恐る恐るそういうと、残った看護師さんは微笑して、優しくそれを否定した。

「ええ、気にしないで。あなたは何も悪くないわ」

「すみません」

「大丈夫だから、心配しないで」

私はしばらく何も考えることができないまま天井を見上げていたが、決心をすべき時が近づいていることだけは否が応でも分かった。いつまでもこんな状態ではいられない。

 涙でひどく濡れた袖をまくると、私は傍にあったテーブルを引いた。

「先生、便箋をいただけますか?あとは何か書くものを」




 まぶた越しに差し込む光が眩しくて、私は目を覚ました。白い天井とカーテンを見るに、どうやら病室のようだ。身体を起こそうと力を入れると、乾きかけのスポンジを絞るみたいに、痛みがにじみだす。

「った……」

ベッドサイドの小さな棚に手をついて起き上がろうとすると、それはゆっくりと壁側へ動き私をこばんだ。諦めて寝返りを打ちかけたとき、ふとその棚の端から封筒の角のようなものが覗いていることに気づいた。

 どうも気になった私は、腹筋の痛みに堪えながら身体を一瞬だけ起こし、それを手にとった。ところどころに何かをこぼしたような痕がありふやけていたが、表に書かれた宛名を見て、私はすべてを理解した。桂香の「桂」のつくりである土を書くとき、長い縦線を引いてから横線を四本引くような、そんな変な書き方をするのは、一人しかいない。

 とっさに私は天井を見上げた。目をつぶると笑顔で、遠慮がちに手を振るひなたの姿が浮かんだ。思えば花火大会の人混みの中でさえ、ひなたはなぜか、すぐに私のことを見つけられた。どうしてそれほど簡単に見つけられるのか、何度か訊いたことはあるものの、彼女はいつも「そりゃあわかるよ」と上品な笑顔を浮かべるだけだった。クラス替えで違うクラスになってしまった時も、お昼休みに彼女の教室を訪ねると、ひなたはすぐ私を見つけて手を振ってくれた。

「どうして……」

 気持ちを落ち着けて目を開くと、さっきまで浮かんでいたひなたの姿が白い天井へとける。決心して封筒を開くと、シンプルな便箋に見慣れたひなたの癖字がかわいらしく並んでいた。




『 桂香へ


 今までたくさん手紙を書いたけど、これが最後の手紙です。そしてこれを書いているということは、私はもうすべてを理解しているということです。つまり本来であれば私がもうこの世にいないことも、そして桂香のおかげでこうして最後の手紙を書けたことも、すべて。

 まずは桂香にありがとうと伝えたいです。ずっと私と一緒にいてくれて、いつも私のことを守ってくれて、少しでも私が家族と話していられるように、私のことを受け入れてくれて、本当にありがとう。さすがに最初は信じられなかったってお母さんは言っていたけど、お父さんとお母さんが出会った時のエピソードは家族しか知らないから、とても驚いたって言ってた。

 もちろん看護師さんもお医者さんも皆驚いていたけれど、私は桂香が時間をくれたんだなって、そう思っています。

 さて、書きたいことはいくらでもあるんだけど、いつまで書いていられるかがわからないから、一番書きたいことだけを書くね。

 中一ちゅういちの時、雪が降り始めた頃にうちへ泊まりに来たこと、覚えてる?桂香のために布団を敷いたのに部屋がなかなか暖まらなかったから、結局二人ともベッドで寝たよね。金木犀の香りがするハンドクリームを桂香が塗ってくれて、それがなんだかとても照れくさかったことを今でもよく覚えています。

 あの時から、たぶん私はもう桂香のことが好きになっていたんだと思います。出会った当初は率直に、頭が良くてスポーツもできて、友達がちょっと体調悪そうだとすぐに気づけるような、そんな桂香のことを尊敬していました。その気持ちが桂香のことを知るにつれて、少しずつ形を変えていったんだと思います。

 決定的だったのはおそらく、二人でテーマパークに行ったとき、雨で落ち込む私にあなたが傘をくれたことだったと思う。今思えば、私は完全にデート気分だったから、ショックだったんだろうね。「二時間も準備したのに!」って。だから桂香が傘をさして私の手をとってくれたとき、泣いてしまいそうでした。

 改めて、私は桂香のことが好きです。とてもとても、途方もないくらい、あなたのことが好きです。だからこそ、ずっと一緒にいられないことが悔しいです。でもこの気持ちを伝えられたことで、少し気持ちが落ち着いてきました。伝えられないよりはましかなって、ほんの少しだけ。

 今まで本当にありがとう。私はこれからも――――






あなたのことを心から愛してる。






 ひなた』




 退院の日、私は最後の診察のため担当医を訪ねていた。日を追うごとに冬の匂いが交じりゆく世界は、あの事故を確実に過去へと押し流していた。

「おはよう、上月こうづきさん。調子はどう?」

「先生、ひなたのこと」

単刀直入にそう言うと、先生は逡巡しゅんじゅんして、少しだけ眉をひそめた。

「最初は驚いたよ。あれは紛れもなく丹呉たんごさんだった。仕草も記憶もね、彼女のご両親だって驚いたんだ。『こんなことひなたしか知らないはずなのに』ってね。上月さんはなにか覚えてる?」

私は交差点へ駆けつけた後のことをよく覚えていなかった。自分がどのように搬送されたか、事故がどのように処理されたか、それすらも知らない。

「目が覚めたら真っ暗な空間にいました。多分、部屋だったのかな。真ん中にスポットライトがあって、その下に、教室にあるような、木の椅子が置いてありました。ああ、そうだ、すぐそばでひなたも眠っていたんです」

「ゆっくりで大丈夫だよ」

呼吸も忘れて話す私に、先生は優しく言った。それでもまるでひなたとの時間がこれ以上こぼれないように、私は記憶を懸命に呼び起こした。とにかく、どんなに細かいことでも、忘れることが怖かったのだと思う。

「それで目が覚めるなり、私を抱きしめてくれました。痛いくらいに。そのあと、ひなたは私の頭を撫でて、迷わず真ん中の椅子に座りました。それで私の方を見て何か話したあと、彼女が手を振るのと同時に視界が暗くなりました。次の瞬間にはもう、私は病室にいたんです」

「そっか。ありがとう、話してくれて」

先生が考え込み始めると、私たちの間に沈黙が訪れる。それは心に空いた穴を通る、呼吸の音すら聞こえそうなほど、深い沈黙だった。

「……ひなたはもういないんですね」

「……ああ。でも心残りがあったのかもしれない。だから上月さんの身体を少しの間、借りたのかもしれないね。あるいはあなたに何かを伝えたかったのかも」

ドミノでも並べるように、先生はゆっくりと言葉を並べた。

「ええ、そうだったのかもしれません」

私はもう一度、ポケットにしまっていた手紙を取り出した。いたるところが乾いたり濡れていたりして、便箋が不規則に波打っている。

「もう、伝えてもらいました」

「そうみたいだね」

 それから先生は「決まりなんだ」と微笑して、いくつかの形式的な質問をすると「問題ないよ、お疲れさま」とどこか寂しそうに言った。

 診察室の扉を開け廊下へ出ると、私は振り返って先生に礼をする。おそらく私たちは、この数日間でたくさんの大人を驚かせたし、心配をかけたことだろう。

「先生、お世話になりました」

「うん、お大事にね。無理はしないように」

 院内は今日も人であふれていた。青白い顔でマスクを押さえながら歩く人もいれば、迎えに来た家族と笑顔で談笑する人もいる。その中に見慣れた家族が二つ、私を待っているのが見えた。


 秋の暮れ、日向ひなたたたずむ金木犀は、敷き詰められた花弁の上で、眠り支度を始めている。

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