ある喫茶店マスターの人間観察日記

@nemuriko3

第1話 喫茶店のマスターと几帳面なサラリーマン

私は喫茶店のマスターというものをやっている。


元々しがない会社員であった私は、定年退職後、特にこれといった楽しみもなく、ただ死を待つだけのようにも思える日々を過ごしていた。

自宅で流れてくるお勧めの動画を眺めていても、図書館で気になった本を手に取って読んでいても、心の中のどこか空虚な感覚は埋まることもなかった。


いっそこのまま緩やかに消えてしまえたら良いのに、とすら考える有様だった。

日々の業務をただ淡々とこなしていき、通勤電車の中でぼんやりと街を歩く人々を眺めている程度にしか世界との接点を持たなかった人間には、退職後の日々というものは、あまりにも退屈が過ぎたのだ。


そんな私にも、数少ない趣味があった。ちょっとした料理とコーヒー、そして人間観察だ。

料理とコーヒーに関しては、会社勤めの毎日の中での楽しみの一つであったが、人間観察はちょっとした転機があった。


それは退屈を持て余していたある日、気まぐれで寄った喫茶店でのこと。

コーヒーの香りを楽しみつつ、ぼんやりと店内を眺めていた私の目に映ったのは、店内に活気をもたらす多種多様な人々だった。

スーツに身を固めたビジネスマン、グループで会話に華を咲かせる学生たち、他愛のない世間話に興じる婦人の集まり、新聞を眺める初老の男性。

それら全てが私にとって興味深く、関心を引くものだった。

これこそが退屈を解消できる唯一のものだと直感し、老後の貯蓄を投げ打ってでも数少ない趣味を活かせる場、つまり喫茶店を開こうと行動するのに、さほど時間はかからなかった。


幸運にも、私が開いた喫茶店は閑古鳥が鳴く店とはならず、有難いことに一定数の常連客としばしば訪れるお客で、ほどほどの賑わいを見せるようになった。

あまりに繁盛しすぎてしまってもお客を観察できるだけの余裕が失われてしまうので困るものだが、お客が入らない状態も当然ながら困るものである。

我ながら、いや、誰が聞いても贅沢な望みだと思う。


今日は、この贅沢な悩みを叶えてくれている常連客の一人に目を向けたい。

二人掛けの席に腰かけた、スーツ姿のサラリーマンだ。


この人物を一言で表現しようと思うと、「几帳面だ」という評価になる。

丁寧に整えられた髪、清潔感の漂うシャツ、折り目のしっかりした黒のスーツ、丁寧に手入れされているであろう黒の革靴まで、隙のない身なりをしている。

模範的なサラリーマンとも言える装いの彼は、顔つきにも表れている。


そんな彼が身に着けている腕時計は、文字盤の形まで四角で、曲線を好んでいないということがうかがえる。

店内の机と椅子は角ばった形の物で揃えられているので、もし丸形で揃えていたなら、彼は常連客にはなっていなかったかもしれない。


彼の几帳面さは行動にも表れている。


彼がここを訪れるのは決まって始業前の時間帯なのだが、入店時に時計を見ると、入店時刻の誤差はせいぜい五分ほどしかない。

意識しているのか無意識なのか、毎朝の行動パターンが非常に正確なのだ。


当然ながら入店後の行動も一貫している。


まず、彼は入店直後に必ず「アメリカン」を注文する。

今にして思えば、初期に注文がばらけていたのは自分の好みに合う、これから長い付き合いになる味を決めるための行動だったのかもしれない。

特に、私がその日の気分で味の変わる「本日のブレンド」は一度も注文しなかった。味が安定しないのは好ましくなかったのだろう。


そして、彼はペンで手帳に今日の予定と思しきものを書き込みつつ、合間にコーヒーを口にする。

残りが半分ほど飲み終えたところでサンドイッチの注文を入れる。タイミングを考えるとそろそろだろう。


「すみません」


「はい」


「サンドイッチください」


「かしこまりました」


今日も正確なタイミングである。


注文を受け、シンプルな定番のサンドイッチを作るわけだが、彼が相手の場合は気が抜けない。

具材の載せ方、パンの切り方、盛り付け方、全てに一貫性を求められている気分になるのだ。


私の考えすぎかもしれないのだが、彼は商品の味や形だけでなく、それを運ぶ私の行動まで見ているように思える。

趣味程度に料理とコーヒーを嗜んでいた私が、まがりなりにもプロとして安定した品を提供できるようになったのは、ある意味では彼のおかげとも言える。


出来上がったサンドイッチを皿に盛り、いつもの歩幅と歩数で彼の席に赴き、定位置に皿を置く。


「ごゆっくりどうぞ」


そうしてサンドイッチを受け取った彼は、一切れを二口で平らげていき、残りのコーヒーを飲み干して席を立つのだ。


会計時にはおつりが発生しない。

最初は特に気にしていなかったのだが、おそらくここで会計を済ませるためにあらかじめ小銭を用意している。

曖昧なことを好まない彼の性格を思えば、そのための準備を行っていても不思議ではない。


職業が何かはわからないが、銀行員というイメージがピッタリだと常々思う。

財布から小銭を取り出す仕草一つとっても、どことなくお金を扱う者だという雰囲気を感じるのだ。


そういえば、彼の手荷物には傘がない。

いかにもな黒の手提げ鞄の中に入っているのかもしれないが、私が彼の几帳面さに気づいてからはまだ雨の日を迎えていないのだ。

数回雨の日があった気はするのだが、不覚にも当時はそこまで気を配って観察していなかったのだ。

彼は雨の日の場合はどのように行動していたのか…


「ありがとうございました」


支払いを済ませた彼を見送り、晴れとも曇りとも何とも言えない天気の店外に目をやった後、ふとスマートフォンを取り出し、今日の天気予報を確認した。

思った通り。どうやら今日は雨が降る可能性があるらしく、降水確率は40%のようだ。


この雨が降るとも降らないとも言えない日。店を訪れるお客が傘を持っているかどうかを確かめるのもいいだろう。

今日のテーマをもたらしてくれた常連のサラリーマンにささやかな感謝の念を送りつつ、私は今日も人を観察するのだ。

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