すべての種は夜に採取された

犬森ぬも

すべての種は夜に採取された

「ああ、これがいい」

 張りつくようにエミルの隣を歩いていた男が、すん、と鼻を鳴らして足を止める。


 紳士的な身なりの男は物腰も話し方も上品だが、理由の分からない不安を掻き立てる怪しげな雰囲気を持っていた。彼が案内する屋敷の廊下には白と黒のタイルが交互に敷き詰められ、壁掛けランプに照らされた廊下の左右には、同じ形で同じ色のドアが整然と並んでいる。


「匂うだろう? ちょうど見頃だ。坊や、覗いてごらん」

 そのドアのひとつの前で足を止めた男は、ためらうエミルの両肩に手を親しげに置くと、鍵穴から中を覗くようにうながした。彼の言うとおり、甘く瑞々しい香りがぴったり閉まった木製のドアの縁から漏れ出ている。


 鍵穴を片目で覗いて呼吸を忘れた。ドアの向こうには花園が広がっていた。

 夜に似た青闇が垂れこめる中に浮かび上がるのは、赤紫の実をつけたスグリの木に囲まれる密やかな花園だ。淡いピンクや紫、白のふっくらと開いた花々が、ミルク色の薄もやの布団をかけられてまどろむように咲き乱れている。


 ひらりひらりと蝶が飛ぶ。彼らが撒き散らすうっすら発光した鱗粉は花々に音もなく降り積もり、幾重にも重なる花びらの輪郭をひどく曖昧にした。

 壁や天井は薄暗くてよく見えない。これは本当に建物の中なのだろうか、本当に現実なのか。こんな綺麗なものは母が選んでくれた絵本でも、父が連れていってくれた美術館でも見たことがないのだ。


「気に入ったかい? 屋敷のひとつひとつの部屋に、ひとつひとつ違う庭があるんだ」

 花園から目を離せないエミルの耳元で、男が機嫌のいい声を囁く。

「この庭はまるでお伽噺の世界だ。ここに埋めた『種』は夢見がちな少女だったから」

 種――やけに不穏な響きに聞こえて胸がざわついた。


 鍵穴から顔を上げて言葉の意味を尋ねようとしたエミルの頭を、男はやさしく押さえる。あくまでやさしく、暴力的ではないが動くことを許さなかった。

「よく見てごらん。庭の真ん中に、少しだけ花が途切れている場所があるだろう?」

 そこは鍵穴から見える位置ではない。しかしどういうわけか、男に促されるとはっきり見えるのだ。

 密集して咲く花がわずかな隙間を開け、湿った土が覗いている。


 ぞっとした。指先から徐々に血の気が引いて冷たくなっていくのを感じ、強張った背中に汗が滲む。黒々とした土をかぶされ、埋められているのは子供だった。うっとりと瞼を閉じた蒼白い少女の顔だけが土から見えている。


「あの子が『種』だよ。夜中のハイデルベルクの森で採取したんだ。見た瞬間にいい庭に育つと思ったけど、やっぱり私の勘は当たる……ああ、そうか。どういうふうに育つか、坊やは興味があるだろう。坊やの部屋には難しい勉強の本がいっぱいあったからね」

 耳に囁く男の無邪気な声は狂気を孕んでいた。


「この屋敷のひとつひとつの部屋に、少年少女を『種』にして育つ庭がある。まず部屋に土を敷き詰めて、穴を掘って『種』を埋めるんだ。発芽すると土に血管が根のように張り巡らされて、やがて様々な花を咲かせる。花の種類や数はその子の持つ性質によるけど、ここにあるのは私好みの『種』ばかりだよ」

 土の下で血液が流れる音がしている。瑞々しい花の匂いの中に、かすかに鉄釘のような匂いが混ざる。血の匂いだ。


「隣の部屋の庭の『種』はローマの水辺で採取した。その隣はウェールズの丘で、更にその隣はパリの劇場だったかな。プラハの郊外の豪邸で採取した坊やを埋める部屋も、もちろん用意してあるよ」

 この悪魔!――と、罵倒して逃げようとしたエミルの腕を男が掴む。

 殺される。逃げなくてはいけない。手を振り払おうとしたが、大人と子供では力が絶望的に違いすぎた。


「でも坊やはもうすぐ死ぬだろう? だったら、私に死体をくれてもいいじゃないか」

 なぜ駄目なのかと、男は心の底から不思議そうに首を傾げて問いかける。

 倫理観や罪の意識が完全に欠如した彼に寒気がする。しかし彼の言ったことは真実で、恐怖と怒り、嫌悪が混ざって混乱していたエミルを一瞬にして冷静にさせた。


 そうだ。エミルはもうすぐ死ぬ。

 不慮の事故で亡くなった両親の遺産を狙った貪欲な叔母が、エミルの食事に少量づつ毒を入れていたのだ。気づいた時にはすっかり体は毒に冒され、もはや手遅れだった。


 もうずっと息が苦しく、血の匂いがする喉からは人体が立ててはいけない湿った不快な音があふれ続けている。男に掴まれた腕はすでに死人のように蒼く、骨と皮だけ。彼が大人だからではない。彼の力がどれだけ弱くても、死の淵にいるエミルは手を振り払うことができないだろう。


 それなら、と思う。死んだエミルの体は棺の中でぐずぐずと腐り、無数に湧いたおぞましい蟲に浸食され、やがてただの骨と成り果てる。それなら溜め息が出るほど幻想的なこの部屋の庭の『種』のようになる方が、はるかに素晴らしいのではないか。

「坊やの血はたっぷり毒を含んでいるから、美しい毒草の庭になるだろうね」

 どうしてなのか、有毒の花は美しいのだ。


 鮮やかな蒼や紫の花、細長い優美な花弁が放射状に開く深紅の花、小さく可憐な鈴のような形状の白い花――きっとエミルの血肉はそうなる。朝露に濡れて艶めく葉と花びら、ほのかに漂う甘い匂い。まさか毒だとは誰も思わない美しい猛毒と微毒の花々が、鋭い棘を伸ばす毒々しい血色の野バラの中で絡み合うように開くのだ。


「それはいい! 前から野バラの庭が欲しかったんだ!」

 男が興奮した様子で目を見開くので、それを見たエミルは自分でも驚くほど気を良くした。

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