涼宮ハルヒの実験

@chotGGE

それが分かっただけで充分だった

■■■■■


十二月に入ったばかりのある朝、甲東園駅の近くを歩いていると、世界が少しだけ他人事みたいに感じられた。冬の入口には、時々そういう瞬間がある。空気が透明すぎるのだ。その透明さが、現実と非現実の境界を曖昧にする。


「キョン、あんた遅い!」


背後から鋭い声が飛んできた。振り返ると涼宮ハルヒが、まるで冬の朝など関係ないというような勢いでこちらへ駆け寄ってくる。彼女はいつだって、季節よりも速い速度で生きている。


「別に遅かないだろ。まだ始業十五分前だぞ」


「私の気分的に遅いの。今日は重大な日なのよ」


重大な日。ハルヒがその言葉を使うとき、それはたいてい俺にとって重大じゃない。だが、彼女の機嫌を損ねるよりは、話を聞いた方がマシだということは知っている。


「何があるんだ?」


「風よ。朝からずっと変な感じがしてるの。ほら、聴こえない?」


俺は耳を澄ませた。駅前のロータリーには、通学途中の学生やら、バスのアイドリング音が渦巻いている。だがハルヒが言う“変な風”なんて、俺には聴こえない。


「……コントラバスの音がするのよ」


「風から?」


「そう!深くて大きくて、ちょっと寂しい音。普通の風じゃないわ。絶対に何かが起きる前兆よ!」


まあ、そう言われると、起きそうな気もしてしまう。俺は慣れているのだ。ハルヒの“予感”が現実を変えることに。


■■■■


学校に着くと、長門有希が文芸部室の前に立っていた。彼女は普段ここにこうして佇んでいるわけではない。佇むことに意味があるのかも分からないが、少なくともそれは珍しい。


「長門、何してるんだ?」


「……風が、情報的に乱れている」


彼女はいつも通り無表情で言った。その顔は冷たい冬の光に溶け込んで、ほとんど絵画の一部みたいに見えた。


「コントラバスの音、聴こえる?」とハルヒが尋ねる。


「物理的な音ではない。けれど……概念的に近い波形が存在している」


「ほらね!」とハルヒは俺の腕をつついた。「やっぱり来たわ。新しい現象よ!」


俺はため息をついた。が、心のどこかでは、ちょっとだけ何かが起こることを期待していたらしいこともわかった。何も起こらない日常を望んでいるはずなのに、人間というのは奇妙なものだ。それとも奇妙なのは俺か?


放課後、SOS団はいつもの部室に集まった。

朝比奈さんは相変わらず可愛らしい声でミルクティーを淹れているし、古泉は古泉で、落ち着いた笑顔をたたえている。


「皆さん、今日の風は確かに特異ですね」と古泉が言う。「閉鎖空間への発生シグナルではありませんが、“何かが変わろうとしている”兆候に近い」


「何か分かったりします?」と俺は朝比奈さんに訊いた。


「え、えっと……その……未来は、じゃない、今日のことについては……少し、曖昧で……」

彼女はカップを持ったまま、か弱い鳥みたいに震えた。


どうやら今回の現象は、どの立場から見ても“説明しきれない種類の何か”らしい。


部室の窓を開けると、冷たい風が吹き込んできた。

確かに――その風には低い振動があった。音というより、胸の奥を静かに叩くようなリズムだ。俺は思わず息を呑んだ。


「ほら!」とハルヒが言う。「コントラバスよ!」


古泉が窓辺に近づき、目を細める。「……なるほど。これは……“記憶の風”ですね」


「記憶?」俺が訊く。


「はい。おそらく、誰かの“まだ起きていない記憶”が風に混じって流れている。珍しい現象です」


朝比奈さんが小さく声を上げた。「未来の記憶……?」


長門は静かに首を振った。「未来ではなく……可能性の記憶」


「どっちでもいいわよ!」とハルヒ。「とにかく、これは探しに行くべきよ」


その言葉を聞いた瞬間、風が部室の中をひと巡りし、ページのめくれるような音を立てて消えた。


ふと気づくと、ハルヒが俺の方をまっすぐ見ていた。


「キョン、あんたでしょ?」


「……何がだよ」


ハルヒは窓の外――神戸方面の薄く暮れた空をちらりと見て、

少しだけ照れたような、でも強気な顔で言った。


「この風が示してる“可能性の記憶”。きっとあんたと関係があるのよ。なんとなく、そう思うの」


俺はその言葉にどう返すべきか分からなかった。ハルヒは自分自身のことがどこまでわかっているのだろうか。そしてこの言葉の意味するところはなんなのか。さっぱりわからないが――そしてなぜだかわからないのだが――胸の奥が少しだけ温かいような、冷たいような、そんな感触がした。


窓の外では、初冬の風がまた低く鳴っていた。

コントラバスのような、ゆっくりとした深い響きで。


その音は――

俺らがまだ知らない未来の入り口を、静かに叩いているように感じられた。


放課後の部室を出るころには、外はすっかり夕暮れに包まれていた。十二月の夕暮れは一瞬で訪れる。

長門は学校に残ると言い、朝比奈さんは「今日はちょっと用事が…」と早々に帰っていった。古泉はいつもの微笑をたたえながら、「俺は周辺を少し回っておきます」と言って姿を消した。


そういうわけで、俺は涼宮ハルヒとふたり、甲東園駅前の商店街へ向かって歩くことになった。


「キョン、風の音が弱くなってるわ」


ハルヒはそう言って澄んだ空気の中に耳を澄ませた。

確かに、昼間に感じた胸の奥を叩くような低音は薄れていた。それでも、どこかに残響だけは漂っている。薄いフィルムの向こう側からゆっくり伝わってくるような響きだ。


「完全に消える前に見つけないとダメね。あの“可能性の記憶”が示してる場所」


「見つけるって……そもそも風に場所なんかあるのか?」


「あるに決まってるじゃない。私の勘がそう言ってるもの」


ハルヒはそう言って、さっさと先を歩いていった。

俺はため息をつきながら後を追う。いつものことだ。

でも、今日はいつもより、ほんの少しだけその背中を見失いたくない気持ちがあった。


■■■


甲東園駅のガード下を抜けると、小さな公園がある。冬には人影がほとんどない場所だ。

そこに、鞦韆が揺れる音がした。風のせいではなかった。

ひとりの女子生徒が座っていた。細い指で、古いカメラをいじっている。


「……長門?」


「そう」と彼女は言った。

制服の襟元に埋もれるようにして、淡々とブランコに揺られている。


「どうしてここに?」


「風の経路を追跡していた。ここで収束している」


「収束?」


「記憶が、ここに」


ハルヒが前に出た。「じゃあ、ここで何かが起きるってことね?」


長門は小さくうなずき、俺の方を見た。


「あなたと涼宮ハルヒの間で、近い未来に選択が生じる。その“可能性”が形を成し、風となって漂っていた。そのゆらぎがこの公園に集まった」


「選択……?」


「そう。特異点の発生を避けるためには、あなたが自ら選ぶ必要がある」


意味深すぎて、正直よく分からない。

だが、ハルヒは妙に静かだった。風の音を探しているような表情で、公園の空気に意識を溶かしていた。


「ねえ、キョン」とハルヒが言った。「あんた、さっきから何か隠してない?」


「隠してるって?」


「今日の風を、ただの“現象”って思ってる顔じゃないのよ。もっと……個人的な何かを感じてる顔よ」


俺は反論しようとしたが、その瞬間、胸の奥で例の“コントラバスの低音”が再び震えた。

風が公園の木々を通り過ぎる。

冬の乾いた枝が、ゆっくりと軋んだ。


長門が静かに言った。「選択は、今夜中に行われる。風はあなたに、それを思い出させに来た」


「……思い出す?何を?」


「まだ起きていない記憶」


またややこしい言い方だ。

けれど、その言葉の先には“何か俺の知らないもの”が確かにあるように思えた。


■■


三人で公園を後にし、住宅街に出たところで、ハルヒがふいに立ち止まった。

空は群青色に沈み、街灯が淡い円を地面に落としていた。


「キョン、あんた……」

ハルヒはためらいながら、こちらを向いた。


「もしさ、世界がちょっとくらい変わったとしても、あんたは気づくのよね?」


「どういう意味だ?」


「なんとなくよ。でも、私のそばにいる限り……あんたはいつも変化を見つけるじゃない。

それが、たまに不安になるの」


ハルヒの声が、冬の空気でわずかに震えた。

ハルヒがこんなふうに言うのは本当に珍しい。


「不安って……お前が?」


「そうよ。あんたがいなかったら、私のしてることは全部ただの暴走でしょ。でもあんたがいると、現実がちゃんと形を保つのよ。……その理由が自分でもよく分からないの」


俺は言葉に詰まった。

ハルヒが自分のことを客観的に捉えていたというのは些か俺にとって衝撃だった。そしてそれが的を射ていることも。そしてハルヒが言っていることも、俺にとって百パーセントではないが理解できるし、正しそうであるということも。

俺は昼間長門がこぼした言葉を思い出す。


“あなたと涼宮ハルヒの間で、選択が生じる。”


その選択とは何なのか。


「キョン」


ハルヒが数歩、俺に近づいた。

駅から流れてきた風が、彼女の髪を少し揺らした。


「もし今日の風の“可能性の記憶”ってのが、あんたの決めることだったら……あんた、どうする?」


俺はしばらく答えられなかった。

何を言っているんだ?

胸の奥で、コントラバスの音がゆっくりと脈打っていた。

未来の扉を叩くように。

何を言っているんだ?


「……決めるよ」と俺は言った。「必要ならな」


俺も何を言っているんだ?


ハルヒは少し驚いた顔をして、それからふっと微笑した。

冬の夕暮れに似合わないほど柔らかい笑顔だった。


その瞬間、風の低音は完全に消えた。

まるで“選択を確認したから、もう行くよ”と言うみたいに。



そして俺は、ようやく理解した。


あの風が運んでいたのは、超常現象でも未来の警告でもなく――

俺がまだ気づいていなかった、彼女との距離の変化そのものだったのだと。


世界は何ひとつ変わらなかった。

ただ、初冬の夜の空気が少しだけ、きっと俺の中で違う意味を持つようになった。


それが分かっただけで充分だった。

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