第2話

 店の扉を出て、私は深く息を吸った。

 夜風は冷たい。

 呼吸を押さえて、通りを二つ、曲がり角を一つ、馴染みの路地へと入る。


 慣れた手つきで、小さな木箱の上に財布を放り出した。


 ……カラン。

 袋の口が開いた。

 ──じゃらじゃら、と。

 こぼれ落ちたのは……小石だった。


 私は一瞬だけ呆けて、そして──

 歯を食いしばり、笑い声が漏れた。

「……やられたか。」


 石。

 こんなもん、浮浪者だって蹴っ飛ばすような、最低の悪戯。


 私は木箱に胡座をかいて座り込み、袋をひっくり返す。

 金貨、銀貨、ゼロ。

 出てくるのは石ばかり。


 ……だけど、一つだけ。

 掌の中に、冷たい感触が残っていた。

 ──銀の板。


 私はそれを両手で持ち上げ、月の光にかざしてみた。


 表面には、駆ける馬の浮彫。

 その額には、細く長い──金色の角。

 裏面には、見慣れない言葉で何かが刻まれていて、縁には識別用のギザギザ。

 霜にでも触れたみたいに、ひんやりしていた。


 ──何にせよ、これは高く売れる。

 もしくは、金以上に……面倒な代物かもしれない。


「鑑賞の時間は終わり。返してもらおうか。」


 背中に、静かな声。

 ──一瞬、身体が硬直した。


 振り返るまでもなく、わかっていた。

 路地の入り口に立っているのは、あの男だ。


 風に揺れる淡い茶髪。

 目は澄んだ青。氷というより、晴れた空の色。

 なぜだろう、胸のどこかが、一瞬だけ空洞になったみたいだった。


 彼の声は平坦で、落ち着いていて、

 まるで「今夜は霜が降りる」とでも言うかのようだった。


 私は銀の板を掌の中に押し込み、片眉を上げた。

「……今、私の手にある。それってつまり、私のものってことよね?」


 男は、私との距離を詰めず、二歩分だけ離れたところで立ち止まる。

 そして、ただ片手を差し出した。

「君には、使い道がない。」


「あるよ?」

 私は肩をすくめて、笑ってみせた。

「売れば、金になる。そういうのって『使い道がある』って言うんじゃない?」


「その板は、君のものではない。」

 彼の声に感情はなかった。ただ、事実を述べるだけ。

「そして、君の手にあるべきものでもない。」


「……ふうん?」

 私は木箱の縁を押して立ち上がり、スカートについた見えない埃をはらった。

「だったら、力づくで奪い返せば? それとも──」

 私は小さく笑う。

「女の泥棒をぶん殴って、牢屋にでも放り込む? この国、そういうの得意なんでしょ?」


 そのとき、彼の青い目がわずかに揺れた。

 何かを──飲み込んだように。


「……この国は、女性に優しいとは言えない。」

 初めて、ほんの少しだけ感情らしきものが混ざった。

 声は少し低くなっていた。

「だからこそ、私はこれ以上、その事実を積み重ねたくはない。」


 ──変な人だな。

 私はそう思った。けれど、不思議と胸の奥がほんの少しだけ緩んだ。


 彼はふと視線をそらす。

 私の背後、黒い壁を越えたその先を見ている。

 まるで……何かを見据えているように。


 ──この人が笑ったら、案外いい顔をするのかもしれない。

 そう思ってしまった自分に気づき、慌ててその想像を追い払う。


「じゃあ、こうしよう。」

 私は銀の板をひらひらと振ってみせた。

「名前を名乗ってよ。そしたら、返してあげる。」


 彼は一拍だけ沈黙した。

 私が何かの罠を仕掛けているかどうか、測っているようだった。


「──ダリエル。

 ダリエル・クスミス。覚えておいてくれ。」


 クスミス。

 私は目を細め、にやりと笑う。

「鉄工所の苗字ってわけ? まさか、『ジョン・スミス』とか言わないよね? この街、同じ名前の男がゴロゴロいるけど。」


「かもしれないな。」

 彼はあっさりと頷いた。

 名前を名乗ったら、もう構わないというふうに。

「名前は伝えた。だから、君も約束を守ってくれ。」

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