赤い瞳の夜、青い瞳の誓い

雪沢 凛

紅き瞳の夜

第1話

 酒場の中は、まるごと黄色いランプの中に沈んでるみたいだった。

 壁も柱も、くたびれた木材が油の匂いを吸い込んでて、テーブルなんか手を置くだけでペタペタする。

 麦酒の泡はグラスの縁にベタッと残って、やけにしつこい。


 男たちは……うん、いつも通りにバカ騒ぎ。

 カードゲームで勝負してるのか、歌い出すやつもいれば、腕相撲してるやつまでいる。

 そのへんに転がってた笑い声が、壁にぶつかって跳ね返ってくる感じ。音がうるさすぎて、頭の中まで響いてくる。


 私はカウンターにもたれて、酒メニューを眺めるふり。

 でも、狙ってるのは麦酒じゃない。

 ──チャンス、の方。


 右隣の男は、私の二人分ありそうなガタイ。

 笑いすぎてヒゲが震えてるし、汗でシャツの胸元が色変わってるし、おまけに黒髪の女まで抱いてる。

 ……ああいうの、狙うには一番いいし、一番面倒。


 いいってのは鈍いから。

 面倒ってのは、騒がれるとマズいから。

 見極めが肝心ってやつ。


 彼から目を外して、店内を一通り流し見。

 初冬の夜だから、みんな分厚い服を着こんでる。

 ポケットも多い。裾も重たい。


 だからこそ、手は一発で決めなきゃダメ。

 スッと入れて、パッと抜く。

 それができなきゃ──終わり。


 ……でも、今日はどうもダメな日みたい。

 二時間も張ってるのに、いいターゲットが一人もいない。


 私は隣を横目でちらり。


「……ふあぁ……」

 アニック兄さんが、またひとつ大きな欠伸。

 家系の赤い目が、眠たそうに半分閉じてる。


 ほんっと、頼りにならない。


 ──カラン。


 扉の上の風鈴が、きれいな音を立てた。

 癖みたいなもので、バーテンが顔を上げる。

「いらっしゃい」

 そう言って、私の前を通り過ぎていった。


 つられて私も、ちらっと扉の方を見る。

 ……ん?


 入ってきた客、服が整いすぎてる。

 この辺の農夫が着る粗い麻布じゃない。

 生地が体にフィットしてて、余計な糸くずも見当たらない。

 一言で言えば──浮いてる。どう見ても。


 彼は店の奥の空いたテーブルに座った。

 腰のあたりには、パンパンに膨れた財布がぶら下がってて……

 その横には、銀色の板みたいなやつが光ってる。


 ──目立ちすぎ。

 まるで落とし物みたいに露骨。


 私は身体を少しひねり、正面から顔を見られないように帽子の影で隠した。

 カウンターの酒瓶に映るボトルの反射越しに、そっと観察する。

 淡い茶色の短髪、やけに整った横顔、伏せた瞳は、何かを数えてるみたいだった。


 バーテンが麦酒を置いた。

 男は腰の袋を外し、金を取り出す。


 ──そのとき、私は見た。

 袋の口、あのふくらみ。

 指先が、うずいた。


 数杯飲み終えた頃、彼は頬杖をつき、目線をテーブルに落としたまま、動かない。

 酒に飲まれてきてる。

 まわりの喧騒は、勝手に盛り上がってるし──今が一番のチャンス。


 私はひとつ息を整え、スツールから音を立てずに滑り降りる。

 足取りは、速すぎず、遅すぎず。

 二つのテーブルの角をかすめて、彼の席に近づいていった。


「──あっ、ごめんなさい!」

 わざと足を引っかけるふりで、彼の肩に身体をぶつける。

 その勢いを借りて体勢を立て直し、すぐに頭を下げた。


「気にしないで」

 彼は、目の端すら動かさなかった。

 ──手は、もう動いている。


 触れる。結び目を緩める。抜く。

 財布は懐の中、足は方向を変え、雑踏の中に紛れ込む。


 よし、完璧。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る