第8話 望みは獣道を照らし出す
初日は
「物語のお姫様って愛らしい事が仕事なんだと思ってたけど、違うのね……」
あまりに覚える事の多さに咲夜は屋敷に誰もいない事を良い事に、こてりと文机に突っ伏してしまう。
挨拶や所作を始めとする礼儀作法、読み書きだけでなくお茶や香りを学び、更には武芸を学ぶ選択肢もある。
基本的に女性達で苑内を取り仕切る為に、規律や序列を重んじ、それに見合う能力を磨く。禁苑は一つの社会のようだった。
(でも女性達が家事だけではなくて、色んな事に挑戦してるって新鮮)
村では読み書きを出来る女子どもは圧倒的に少ない。
咲夜は母親が読み書きが出来た事で、そこの苦労は無いがそれ以外は禁苑で通じるものはなさそうだ。
何せ知っている文化だと思うものもあれば、全く違う大陸の文化だと感じるものもある。調度品に服装、慣習。どれを取っても学ぶ事は多い。
「一日四回も五回も着替えるなんてとんでもないわ」
とにかく驚く事が多いと思いながら、まずは出来る事からやらなければと居住まいを正して教本を開く。
自習を積んでも禁苑の花達の域に達するまでは相当かかるだろう。溜息を吐いて、ふと視線を近くの柱にやると、ある違和感に気づいた。
「傷?」
いくつか横に小さく刻まれた線が柱に入っていた。
前の屋敷の主人は随分暴れん坊だったのだろうか──とまじまじと見ると「あ」と咲夜は声を出す。それから頬を緩ませて線を撫でた。
こんな別世界のような場所でも同じような文化はあるらしい。
「丈比べをしていたのね。字は読めないけど……背が高いのがお母様かしら」
咲夜よりもうんと小さい背の刻みが幾つもある。一番下からなぞっていくと、子どもの背の高さは咲夜の腰程で終わっていた。
「……っ、」
誰もいない事を良いことに素手で触れたのがいけなかった。
ふいに柱から記憶がなだれ込む。小さな子どもが二人いて、我先にと母親に丈比べをせがんでいた。
姿形はぼんやりとしていて定かではないが、咲夜の掌越しに声だけは鮮明に聞こえてくる。
『わぁ、かか様は大きい』
『ふふ。かかはもう大きくならないから、貴方達はこれからもっと大きくなりますよ』
『睡蓮は一番小さいな』
『何をぅ!兄上も変わらないではないですか!』
男兄弟が喧嘩をしている様を、母親はくすくすと笑いながら見ている。
その温かさに咲夜が目を細めているのも束の間、鋭い雷鳴が轟いて咲夜の体はびくりと震えた。
瞬きをしたと同時になだれ込んできた記憶の景色は変わって、大きくなった兄弟二人が柱の前で項垂れていた。
『うっ、ううっ……母上、どうして』
『泣くな睡蓮。母上は天寿を全うされたのだ』
『天寿などなものか!龍族は長命であるのに、こんな、こんな突然』
弟が兄に鋭くそう言うと、兄の方は息を震わせた。
『……母上がこうなる事は、父上と結ばれた時点で決まっていた事だったんだ』
『兄上!』
『事実そうだろう!これは定められた事なのだ。これが龍族の忌まわしき呪いなのだから!!』
二度目の雷鳴が轟くと、記憶はぶつりと途切れた。
咲夜は最後に兄弟の途方もない怒りや悲しみを一心に受け、ふらりとよろめく。しかしそのまま倒れ込む事はなく、突如後ろから誰かに支えられる。
杏子か誰かが来てくれたのだろうか?そう思い、咄嗟に手を隠して咲夜は平静を装って振り返った。
「あ、申し訳ありませ──……」
「構わない」
「……り、
「すまない。屋敷を濡らした。此処へ来る途中、ひどい雷雨になってな。悪いが、拭く物を貰いたい」
そこに立っていたのは龍族の長である竜胆だった。雨に降られ、金糸の美しい髪はしとどに濡れている。
目にかかる前髪を鬱陶しそうに払う仕草をすると、灰色の瞳と目が合い、咲夜はたじろぐ。
それからはっとして、まずは拭く物をと踵を返した。
「は、はい。すぐに」
「……待て」
鋭い声に、咲夜は体が固まる。
竜胆の声は不思議で、低い声だが柔らかさも孕んですっと耳に入ってきた。最初に謁見した時の圧は微塵も感じず、これが本来のこの人の声色なのだと咲夜は感じる。
振り返ると、竜胆はじっと咲夜の顔を見た。会った時と変わらないのは、竜胆の表情にはあまり変化が見られず、目元にさえ感情が現れない所だ。
「泣いていたのか」
「え」
「まつ毛が濡れている」
その問いに、咲夜は一瞬理解が遅れたが先程柱に触れた時の兄弟の感情に引っ張られたらしい。
確かに指摘されたとおり、目元に触れると僅かに濡れていた。しかし「自分が」悲しいわけではない。増してこの理由を説明するには、自分の能力を明かさなければならない。
杏子から「ありえない」天賦だと否定された今、長であり庇護者である竜胆にもそれは言えない秘密だ。
「こ、これは違うのです。先程教本を集中して読む為に顔を洗ったのでその名残です」
「……そうか」
下手な嘘だが、竜胆はそれ以上追求しようとはしなかった。敢えて追求しなかったのか、言葉通りに受け取ったのか咲夜にはわからない。
しかし今はそれが有難かった。
それから咲夜が改めて拭く物を持ってくると、やはり竜胆は淡々とした所作でそれを受け取り、涼し気な顔で濡れた髪や衣類を拭き始める。
(男の人でも美しいとか綺麗って、あるんだな)
見目の麗しさもそうだが、何より竜胆は所作が美しかった。
こういった所作も禁苑では身に付けなければいけないのだと、奇しくも龍族の長から学びを得る時間に咲夜はじっと竜胆を見続ける。
すると竜胆の視線だけが咲夜の方に動く。
「座らないのか」
「えっ」
「立ち話もなんだと思うのだが」
「……あ、た、大変失礼いたしました。そうですよね。お、お茶は如何ですか?」
「頂こう」
この一族の長である者を立たせたままでいる等、何事かと禁苑の花達がいたら大目玉を食らいそうだと咲夜は慌てる。
急いで手袋を身に着けてから、茶を用意して、座る竜胆の前にある方卓に茶の入った茶器を出す。竜胆はゆっくりとそれを嚥下し、茶器を方卓に置く。
雨に降られて冷えた事もあってか、温かい茶を飲んだ竜胆の表情は少しだけ柔らかなものに見えた。
「美味しい」
「そ、それは良かったです」
「飲まないのか?」
「あっ。は、はい。飲み、飲みます!」
竜胆とどういう会話をすれば良いのかわからず、咲夜は言われるがままに茶を飲む。
見慣れない茶で、温かさは申し分ないがきちんと味が出ていないような気がした。
(気を遣わせてしまったかも。それとも、緊張で味がしない……?ああ、どうしたら)
咲夜がぎこちない動きで茶を飲んでいる間も、竜胆はじっと咲夜の様子を見ていた。
それから少しして、竜胆が口を開く。
「そう緊張せずとも良い。謁見の場では、気の毒な事をした」
「え」
「急な提案故、反発も多かった。一同を集めて意思を伝えるにはああする他無くてな」
何処の者とも知れぬ獣族ではない人の子を囲むと長が急に言い出したら、血迷ったかと言うだろう。
咲夜も禁苑の人々の様子や初日の龍族についての学びを聞いていれば、それは痛い程によくわかる。龍族は元々純血主義の一族として知られていると教わったからだ。
「不便は無いか?急ごしらえの屋敷で手入れは行き届いてはいないが直に此処も一新する。今はこれで我慢してくれ」
「あ、い、いえ!良いです。このままで。とても落ち着きます。生活感があって」
「そうか?」
「はい。以前の屋敷の主人の方は本好きでいらしたようで。私も学びの傍ら、お貸し頂けたらと思って。……あ、失礼にあたりますか?」
咲夜の言葉に、竜胆は目を丸くする。
それからふっと眉を下げ、目を細めながら微笑んだ。当たり前の事だが、竜胆も笑うのかと咲夜はほうっとその表情に釘付けになる。
それはまるで花が綻ぶ瞬間を見られた時の特別感に似ていた。
「良い。役に立てるなら何よりだと前の花も言うだろう」
竜胆の許しに胸を撫で下ろしながら、咲夜もはにかむ。しかし記憶を気取った兄弟や母の事については、やはり聞くことは出来なかった。
これはよくない好奇心だと気持ちを新たに、思い切って咲夜は竜胆にずっと心に閉まっていた質問をする事にした。
「あの、私が会った龍はその後元気にされていますか?」
「……うん?」
「龍です。紫色の目をした。随分ひどい怪我をしていましたし、気になっていて」
咲夜の問いに竜胆は暫く黙り込む。お互い見つめ合ったままの時間がやけに長く続いたが、暫くして竜胆は「ああ」と頷く。
「大丈夫だ」
「良かったです……!怪我をしているのに、とても親切にしてくれました。その、この結晶も頂いてしまって。それで此処に」
「そうだな」
胸元から小さな袋に入れている涙鱗を取り出して、竜胆に見せる。
淡々とした返事だが、竜胆も頷いてくれていた。杏子も龍は竜胆に纏わる者だと言っていたから、竜胆は一番今回の件について理解しているだろう。
咲夜は竜胆におずおずと尋ねる。
「いつか会えますか?」
「……」
「も、勿論此処での暮らしに慣れて花として自立するというのは承知しています!ただ感謝を伝えたくて」
「感謝?」
竜胆が首を傾げると、咲夜は小刻みに頷く。
「以前の暮らしは、私にとってどうしようもない程八方塞がりで」
「……」
「思いがけずこんな待遇の場所に置かれた事は、まだ自覚出来てない部分も多いです。でも、」
昔に母がどんな辛い目に遭っても笑って励ましてくれた言葉を思い出す。
『越えた先にしか得られないものもあって、生きてたら悪い事ばかりでもないのよ』
(母様。私、今越えようとしているのかしら)
そしたらあの村外れの小屋とも違う景色が見えて、母のように愛しいと思える存在にも会えるだろうか。
同じ能力を有した母を愛した父がいるように、自分にもそんな人が現れて、自分も愛せるだろうか。
あるいはもっと独り立ちが出来る程強くなって、どんな理不尽とも戦える人間になれるだろうか。
「変わるなら今しかないんです。その機会を与えてくれたのは、あの龍でした。だから頑張っていくねって伝えたくて」
「そうか。この暮らしを強いる形にはなったが、それでもお前にとっては唯の不幸というわけではなのだな」
「不幸だなんてとんでもないです!ただ、幸せかは……私の努力次第だと思います。それは、此処までご縁があった誰のせいでもないです」
今も嫌な気持ちになる事はあるし、問題は山積みだ。それでも自分の人生が此処で良くなるかは、あの龍や竜胆、杏子や小桃、まして連れてきた老人達のせいではない。
咲夜の言葉に竜胆は驚いた顔をするが、すぐにいつもの凛とした読めない表情に戻る。
「では、縁を結んだ皆が納得するよう励まねばな」
「はい。あ、それであの……龍の件は、」
「──……願いは叶えよう。約束だ」
「ありがとうございます!」
竜胆との会話はお世辞にも弾んだとは言えないが、咲夜にとっては印象が随分と柔らかくなった。
淡々とした表情と口調でも、此方を気にしてくれているのだなと思うと、あの龍と深い関わりがある事もよくわかる。
やっぱり龍族が美しく冷たいだけというのは見当違いだと咲夜は内心思う。
竜胆が帰る際、雷は止んでいたが小雨が降っていた。咲夜は慌てて小屋から持ってきた私物の傘を差し出す。
無地の淡い紫色の和紙で出来た番傘をじっと見て、竜胆がぽつりと言葉を零した。
「変わった傘だな」
「私のお古で申し訳ありません。骨がしっかりしていて、強い風でも凌いでくれるので」
「今度来た時に返す」
「あ、いえ!お構いなく。大した傘でも無いので」
咲夜が遠慮すると、竜胆は傘を差しながら「その方が」と続ける。
「また来る口実になる」
「え」
「聞きたい事があったが、またにする。明日も稽古なのだろう。ゆっくり休むように」
「あ、は、はい。おやすみなさいませ、竜胆様」
今、目の前の人は思いがけもしない事を言わなかっただろうか?と驚きながら、夜の挨拶をと咲夜は頭を下げる。
その様を見て、竜胆は傘の下でまた目を細めて微笑む。
竜胆の表情はあまり無いような印象だったが、小さく笑んだり、眉を下げながら目を細めたり、笑み一つとっても竜胆にも変化はたくさんあるのだ──と咲夜は思わず見惚れる。
「ああ、良い夢を。咲夜」
ゆったりとした口調の柔く優しい声は、咲夜の耳奥に溶けていく。
淡い紫色の番傘を差したまま、ゆっくりと歩いていく竜胆を咲夜は呆然と見送った。
何故だか時間が経つにつれて、鼓動がうるさくなる。美しい人から何気ない気遣いの言葉を貰ったからだろうか?
(私って、こんな浮ついた部分もあるんだな)
自分自身に気恥ずかしくなって両頬を抑えながら屋敷へ戻る。
教本でも読んで切り替えようとすると、もう一度竜胆の言葉が、咲夜の中で繰り返された。
『また来る口実になる』
「……やっぱり今日はもう集中できないかも」
自分を遠ざける人間こそ多けれど、自分に親切でも近づこうとしてくれる人間は肉親を除いていなかった。
明日の朝にはまた小桃も杏子もいて、自分におはようと言ってくれる。
ずっと嬉しくて、浮ついた心は味わった事もないほど軽くて、思わず足までじたばたしてしまいそうだった。
寝室に入る頃、部屋の隅に畳んでいる薄紫色の衣に触れる。あの龍と別れた時に置いていかれた衣だ。それを撫でて、咲夜は一人微笑む。
「あの龍も人の姿があって、だから置いて行ってくれたのよね。会える時、渡さなくちゃ」
それまで涙鱗と一緒にこれはお守りにさせて貰おう。
此処での生活を頑張って、今よりもう少しマシになった自分で会いに行く。そう思いながら、咲夜は衣と涙鱗を抱きしめて横たわる。
「そういえば……竜胆様の、聞きたいこと……なんだったんだろ、う」
その疑問は眠気と共に意識の奥深くに落ちていく。
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