第7話 歯車は軋んで回り出す
その晩、
これは夢だと自覚しながら、咲夜はその場所を歩く。場所はあの青々とした湖がある
朽ちた祠の前には茶碗がある。龍が出ていった後で世話になった気持ちをと、水を入れて小待宵草を浮かべたものだ。
「──……ああ、匂う。匂うのぉ」
(これは、誰?)
愉快そうだと言うのに、禍々しく低い声。それは間違いなく咲夜の者ではない。
ふいにカタカタと茶碗が動く。そしてその真下からばっと黒い影が這い上がって、茶碗を砕く。黒いその手は、コマツヨイグサを見て一瞬目を見開いてから忌々しげに花を握り潰す。
「愚かな龍と人間の女の匂いじゃ」
* * *
嫌な夢から逃げるように咲夜がばっと飛び起きると、そこには猫耳をぴくぴく揺らしながら咲夜を不思議そうに見つめる童女がいた。
心臓がばくばくと鳴っている状況に似つかわしくない可愛い存在の出現に、咲夜は目を白黒とさせ、少しの間その童女と見つめ合う。
しかし、その横にいた
「起きられましたか。本当にお疲れだったのですね。途中ひどく魘されておられましたが、大丈夫ですか?」
「あ、え、ええ。大丈夫です。おはようございます。あの……此方の方は?」
「
小桃という愛らしい童女に会釈しながら、未だにうるさい心臓の音に手を当て咲夜は考える。
あの夢はなんだったのだろうか。黒い影は最後まで影のままで人型である事と、血走った目は憎悪にまみれている事しかわからなかった。
祠の下から出てきた?愚かな龍?一体どういう夢なのだろうかと考え込んだが、結局この非現実的な生活の始まりで余程疲れて頭も混乱しているのだろうと咲夜は思う事にした。
それにしても意外だ──と咲夜は改めて小桃を見た。小桃はとても嬉しそうに此方を見ていて、まるで敵意が無い。他の花や侍女達は凄まじかったな──と昨日を思い出して咲夜は苦い気持ちになる。
(無視よりマシとはいえ、やっぱり向けられるなら悪意や敵意じゃない方がいいな)
此処は何もかもが美しい。そして皆が意欲的で、皆が咲夜に敵意を注いでいる。
慣れない土地という事もあるが、慣れようと思っていても此処もまた咲夜だけでは、まだまだ息の詰まる世界だ。
「小桃の母は、このお屋敷「
「そうだったんですね。じゃあ小桃様は
「様だなんて!小桃とお呼びください。母は早くに私を生みましたので、
杏子はにこやかに小桃の挨拶を聞いているが、内心気を揉む事は多かった。
本当であれば後ろ盾が無い咲夜には禁苑で年季の入った侍女をつけるべきなのだが、何せ禁苑の女達は気位が高い。
自分が認めた者、由緒ある者でなければ頭を下げたくもないというような者が多かった。猫族は気まぐれながら穏やかな性分も多く、小桃のように仕える相手を選ばない者もいる。
この小桃の純真さが、咲夜のせめてもの慰めと支えになる事を祈るしかないわね──と思いながら杏子は静かに小桃と咲夜の挨拶を見守った。
「杏子様?」
「ああ、申し訳御座いません。相性がよろしいようで何よりと思いまして。……さて、それではこれからの話をしましょう」
杏子は居住まいを正して座り直す。それから咲夜と小桃を見つめてから、ゆっくりと口を開いた。
「これから咲夜様には、
「は、はい」
「ですが横槍も入っているので、その槍を片付けねばならなくなりました。それが昨日の
「技や美を披露する、と。確か麗花様はそう仰っていましたね」
咲夜がそう返すと「結構」と杏子は微笑みながら頷き、そして立ち上がる。
「まぁ長々口で説明するよりも、見た方がわかるでしょう。この時期、禁苑の花達は稽古に必死です。待宵から伸びている小道にある
「……?」
杏子に案内されるがまま、咲夜と小桃は屋敷の外れから伸びる小道を通って小高い丘に佇む四阿へと入る。
そこから見渡すと、丘の下の開けた場所で様々な催しの練習をしている花や侍女達の姿があった。それだけならば普通の事かもしれないが、咲夜が目を見張ったのは花達が「している事」だ。
ある者は火の玉を掌に出してそれを投擲し、遥か遠くの花瓶を割る。またある者は、くるりと優雅に回ると髪の色が極彩色に変化した。文字通り人並み外れた異能を発揮して見せている。
(
驚きと、少しの親近感を咲夜は覚える。それから杏子を見上げた。
「あ、あの、皆様がなされているあの技というのは?」
「我々は物心つくと「
「火を出したり、髪の色を変えたり、わぁ……声がまるで何人もいるみたいに変わる方もいる」
「中々面白いでしょう。華宴は、禁苑の女達による長への自己主張の場です。代々その場で見初められたりする事も御座いましたから」
確かにどれも皆すごい能力だが、何より花達は如何にそれを美しく研ぎ澄まされたものに見せるかという所にも拘っているように見えた。
これは自己表現をして意中の相手を射止める為の千載一遇の好機の場であり、花達もただ囲われるのではなく研鑽を積む良い機会なのだろうな──と咲夜は夢中で見つめる。
その熱心な咲夜とは別に杏子は花達を見て溜息を吐く。
「麗花様は、枝分かれする龍族のうちの一つの分家の生まれですが重鎮の娘でして。正妻が決まっていない今は彼女が事実上の一位として振る舞われているとか」
「お綺麗ですものね。龍族の方とすぐわかりました。……あれ?でも杏子様の事はご存知ではなかったですね」
「ああ、まぁ龍族も数が減って来たとはいえまだまだおりますから。それに禁苑は閉鎖的な場所ですし関わらなければそんなものですよ」
村社会は寧ろ生活圏に誰かがいれば皆顔見知りだが、確かに禁苑は龍宮の中でも区別された箱庭のような場所だ。縁戚であっても知らない者もいるかもしれないと咲夜は納得した。
「あ、私の事は花の皆様の前で名を呼ばれませんようお気をつけくださいませね」
「え?」
「面倒な事ですが、
「な、なるほど?」
昨日のあの様子を見れば、美しい自分と苑に来て間もない侍女が同名だなんて──と騒ぐ花がいても確かにおかしくない。
咲夜は苦笑いする。その横で小桃は心配そうに咲夜を見ていた。
「あの、
「え?あ、ああ……天賦の才という言葉はあるけれど。ああした人外の力というのとは別の意味ですね」
「麗花が来て間もない貴女を誘った理由はそこもあります。知識や礼儀に乏しいというところもありますが。そこはもうご承知ですね」
「は、はい。……あの、皆様がされている物理的な事でない能力もあったりしますか?」
今見ている天賦はどれも目に見えて派手で変化がある。しかしこれだけ多種多様ならもっと概念的なものも存在するかもしれないと咲夜は希望を持つ。
しかし杏子はその問いにピンと来ていないようで首を傾げた。
そのまま恐らく天賦と呼べるのなら、自分の能力はこれだと言ってしまえばすぐなのだが、過去の事を思うと確信が持てるまで伏せておきたい。
咲夜はその思いで、曖昧に質問を続ける。
「例えば、心を読み取るとか」
その言葉に杏子の表情は一瞬無になる。それはまるで、
杏子はすっと目を伏せ、それからゆっくりと咲夜の目を見た。
「ありません」
「……っ、」
「火や水、色を変える。全て発生の仕方がわかるもの。天賦は確定的な現象を操るか、獣族の身体的特徴の延長です」
例えば空気と結びついて発生をする、光の反射で色の変化を見せる。杏子は「説明が難しいのですが」と言いながら話を続けた。
「心は定義が曖昧です。だから直接干渉をする事はあり得ない」
「そ、うですか」
(じゃあ、どうして?)
獣族で無いただの人間が、そして自分だけがそれを出来てしまうのだろう。
咲夜は指先から冷えて痺れていく感覚に襲われる。此処でさえ、何もかもが違う異質な者になってしまうと、咲夜は途方に暮れるしか無かった。
「……ただ一つ、それが可能になる能力を持つ種族はいます。此処には存在しませんが」
「え?」
「ああ、占いだとか技術的な事を組み合わせて天賦として昇華するものはありますよ」
杏子がぼそりと言った言葉が気になったが、その後の杏子はまるで少し的外れな方へと会話を逸らす。
この獣族の世界でも自分の能力が異質だと断定されてしまった今、杏子にも打ち明けられない事が確定してしまった。
咲夜はこの先明かせる者は誰もいないのだと悟った以上、もう何も天賦について聞く事はなかった。
「あっ。でも、小桃はこの掌で触れるものを感触と香りで解きほぐす天賦を持っております!……う、受け手によって効果はまちまちですが。ちょっと心に干渉出来ているかも」
ふいに小桃が得意げに両手を出して微笑むのを見て、咲夜と杏子は目を丸くする。
それからあまりの純真さに思わず噴き出して笑いだしてしまうと、小桃は恥ずかしげに顔を赤くして耳をぴんっと立てて直立して吠えた。
「もう!笑わないでくださいませ!!お二方!!」
「あはははっ!はぁ……、おかしいったら。全く龍宮の中で久々にこんなに笑いましたわ。小桃、貴女見込みがあってよ」
「何の見込みですかもう」
杏子と小桃のやり取りを見て、咲夜は頬が緩む。
自分のあるがままを伝えてわかり合えない事は寂しいが、それが能力というだけで皆事情はある。本当にわかり合えるなんて事は、肉親とだって難しいだろう。
母もきっと自分に言えない我慢してきた事、吐き出したい事だってあった筈だ。そう思ったら、誰にだって皆何かある中の「何か」が、自分にとってはこの困り果てた能力だというだけだと思う事にした。
そうでもなければ押し潰されそうだという不安もあったが、何より目の前にいる二人の温かさに心励まされる。
上手く能力を隠して、それでいて自分らしく在れるように頑張ろう。二人といるとそう思えるのだ。
今まで遠ざけられ、自分も遠ざけてきた。だからこそ今度は他者と共存出来る自分でいたい。孤独を経験したからこそ、咲夜は余計にそう思う。
咲夜は胸元に忍ばせている涙鱗を取り出して掌に乗せる。その虹彩の輝きはいつも柔く温かく、物言わずとも咲夜を一層励ましてくれる。
涙鱗を握りしめて、咲夜は堅く目を閉じて深呼吸をした。
(やる事をしっかりやって、貴方の安否も確かめなくちゃ)
「あの、私精一杯頑張ります。その……他の方みたいな天賦は無いのですけれど。せめてお二人に頑張ったと言って貰えるように」
咲夜の言葉に今度は小桃と杏子が目を見つめ合って、それから微笑んだ。
「ええ、勿論。私共もお手伝いいたしますよ。引き継ぎは小桃でしたが、華宴までは私も手伝います。猫の手も借りたいと言いますが、まだ一匹と数えるにも頼りないでしょうし?」
「そんなぁ~!」
「ふふ、小桃様もいてくれるから頑張れるんですよ。お二人ともご指導ご鞭撻よろしくお願いいたします」
そう言って頭を下げると小桃が慌てて咲夜に駆け寄る。
「もうっ。私に「様」や敬語は駄目ですよ咲夜様!」
「あ、そ、そうでした。それも慣れます……」
杏子は咲夜の様子を静かに見つめながら、来た時からしっかりと身につけられている手袋に目を落とした。
夜寝ている時にまでしているという事は、見せられない傷があるのか。それとも──と思案する。それと同時に脳裏に金糸の髪を揺らすこの一族の長の姿が浮かび、一瞬呆れ顔をしてみせた。
「まったく。このお代は高くつくわよ『竜胆様』」
ぼそりと呟く杏子の声は二人には聞こえていない。
何はともあれ麗花達にやられっぱなしも面白くないではないかと杏子はこの先を思案する。人族に天賦は無い。無いからこそ、獣族は人を下に見る者も多い。
しかし天賦無しの分野も華宴には存在する。
(あの堅物の
そして何より涙鱗を持っている事は長老達を始めとする一部の重鎮しか知らない。
だからこそ人である咲夜の突然の禁苑入りは様々な意味で憶測を呼び、皆が動揺して咲夜の「顔合わせ」の時間が敢えて設けられたのだ。
禁苑の花達が軽んじる目の前の花が、実はとても特別である事を知らない事は、少なくとも杏子にとってとても愉快な事だった。
これを利用しない手はない。咲夜は杏子を優しいと評しすっかり懐いたが、やはり杏子もやはり「龍」であった。
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