第2話 龍は涙をそぼ降らす
半月も経つと龍の傷はすっかり良くなっていた。
人に使う塗り薬を使えるかどうかまではさすがに知識も無く、
あれだけ見た目の酷い傷を負っていたとは思えないくらい快復し、今では咲夜もすっかり警戒しなくなっていた。とはいえ、一定の距離を保ちたいらしく世話を焼こうと近づくと龍はやや身を引く仕草を見せる。
そういった時は決まって黒い靄が龍の首元に掛かっている時だったが、それは咲夜が手で払えばすぐに消え失せてしまう。靄は手で触れると、相変わらず湿り気を帯びていて何かしらの悪意や負の感情を感じるものだが、それ以上はわからなかった。
(最初に一度だけ見た黒い龍のようなものが靄の感情の持ち主……のような気がする。喧嘩をして、この紫の龍が傷を受けて此処に逃げ込んだのかしら)
いつも靄を払う度に龍は信じられないというように咲夜を見るが、そういった視線に咲夜は慣れていたし、何より龍が村の人間のように不気味だと思わず純粋に驚いているだけという事は素手で触れる事で感情を気取り咲夜も理解していた。
とにかく靄を手で払えるのはよくわからないが、感情や感覚を気取るこの能力をこんなに穏やかに使えたのは生まれて初めてだ。人との暮らしでも、こんな風に出来ていたらな──と咲夜は思うが、それが難しい事も理解している。
暫く黙っていたせいか、龍が此方を覗きこむように見ている事に気づき咲夜ははっと我に返って龍に話しかけた。
「傷、もう随分良いみたい。食欲もあって元気で良かった」
「…………」
龍はやはりいつもだんまりだ。表情や仕草を理解して言葉を返す日々だったが、その沈黙はまるで自分を受け入れてくれているようで咲夜には心地良い。
すとんと龍の隣に座って見上げる。龍は変わらず咲夜を見つめていた。
「貴方は帰るお家があるの?此処から遠いのかしら」
「…………」
咲夜の問いに、龍はすっと目を細めて洞窟の向こうを見据えるようにすいっと長い首を伸ばした。もうずっと遠くから此処へ来たと言っているように咲夜には感じた。
傷も癒えてきたのだから、そうしたら龍はそこへと帰っていくのだろう。しかし洞窟は大きく広いとはいえ、これだけ大きな体でよくこんな洞窟の最奥まで来られたな──と咲夜は思う。
(まぁ、蛇のように這いずるようにして入れば入れるのかも?)
慌てて這いずるようにして入ってきた龍の姿を想像すると、凛々しく麗しい姿に反して可愛らしく感じてしまうが、それは龍には言わない事にした。
せめて名前が聞けたら良いなと思ったのだが、言葉で通じ合え無い上に名前という概念があるかすらわからない。龍に触れてわかるのは、最初に感じていた怒りや痛みが和らいで今は穏やかでいるという事くらいだ。
「私ね、元々この洞窟近くの村に住んでいたの。けど、母が亡くなって……あ、父はもっと前にいなくって。……それでそれを機に独り立ちして洞窟からすぐの小屋に住んでいるんだけど」
村で受けた仔細を龍に話す事はない。嫌な事を思い出しながら話す事は、気持ちも言葉も苦々しくなってしまう。
それでも自分の話を何故か龍にしたいと思ってしまった。龍の事を少しでも知りたいと思うと、同じだけ自分も知って欲しいと思ってしまうのだろうか。龍には退屈な時間だろうと思いながらも、咲夜は訥々と話を続けた。
思ったよりも一人暮らしは向いていて、自分で畑を耕したり縫い物をするのも実は楽しいということ。ただ、このまま自給自足ばかりも厳しいし、いつかは村の外を出て商売なり何かしらの学びを得たいこと。
いつか此処を出るのなら自分の足で出ていくので、体力もつけなければと思っていること。もし仕事をするなら縫い物が個人的には好きかもしれないこと。それでも仕事にするなら流行りを知ったりもっと技を磨かなければと思っていること。
どれも取り留めもない事だったが、龍はただ静かに傍に寄り添ってくれていた。
「……そういう事を考えている時間はとても充実してた。でも、一人でいる時間って一日がとても長くって。考え続けていないと、急にぽっかり穴が開いてしまったみたいになって不安になったりもして」
「…………」
「だから貴方と会った時から今までの時間はとっても早く感じちゃった。もう半月も経ったんだね。誰かといる時間って、あっという間ね」
やりたい事はたくさんある。そういう事を考える事で後ろ暗い過去や能力のあれこれに蓋をしていると、前を向いて歩けていると咲夜は感じる。
けれど、ふいに途方もない気持ちになって「ただ前を向いているフリをしているだけではないか?」という気持ちも生まれてくる。何処に行ったって、この能力とは離れられない。
村より開放的な場所に行けたとしても、この力に気づかれたら人々に気味悪がられる事も少なくないだろう。一人でいた時間は傷つかないで済む事が利点だった。だからこそ、進めばまたその恐怖も立ちはだかってくる。
この能力を誰にも話さず、気取らせず、もし使ったとしても龍のようにこうしてお互い穏やかでいられたら。それはどんなに幸せな事だろう。初めてこの能力ごと自分を好きになれる日もくるかもしれない等と咲夜は力なく笑った。
「皆が貴方みたいに穏やかで優しかったらいいのに」
「…………」
「ごめんなさい。何言ってるのかわからないよね。ちょっと愚痴っぽくなっちゃった」
苦々しくなるからそういう言葉を言わないでいようと思ったのに──と咲夜が苦笑していると、ぐいっと龍が長い首を垂らして顔を近づけてくる。
「わっ」と咲夜が驚いていると、龍は僅かに躊躇いを見せたが、少しして目を伏せてすりすりと顔を擦りつける仕草をしてきた。
まるで子どもが撫でろとせがんでいるような所作だったが、咲夜には全く逆のものに感じた。
それは明らかに慰めだった。言葉は交わせないが、その仕草は咲夜の気持ちを理解し寄り添い、どうしたら良いのかと途方に暮れる咲夜の頭を撫でてくれている。手で触れるまでもなく龍からそういった優しさを咲夜は受け取って、ぽろりと涙を零す。
はっと気づく頃にはもう遅く、その涙は後から後から溢れて止まらなかった。慌てて涙を拭っても、まだ止まる気配はない。
「ほ、本当にごめんなさい。あれ、おかしいな……普段はこんな事ないんだけど」
いきなり泣いたら龍がびっくりしてしまうかもしれないと拭い続ける咲夜に対し、龍は優しく喉を鳴らして顔を近づけ、何度も何度も咲夜に額を寄せた。
その温かさに咲夜は涙を拭う事を止めて、龍の頭に身を寄せて静かに涙が止まるのを待ち続ける事にした。
時折ぴちょん、ぴちょんと洞窟の天井から雫が落ちて水面に落ちる音と僅かに咲夜の押し殺す事に失敗した啜り泣き声が聞こえる洞窟内はひどく穏やかで、洞窟内に広がる水は最初に見た頃と変わらず澄んだ色をして青く輝いている。
そんな静寂の中で龍が僅かに動くと螺鈿のような鱗が時折しゃらしゃらと水のせせらぎのように音を立てた。咲夜は涙しながらも、この景色の美しさと温かさを噛み締める。
暫くして漸く落ち着いて咲夜は顔を上げた。
「ありがとう。もう大丈──……ど、どうしたの?」
「…………」
龍は暫く一点を見つめたまま瞬きもせず固まっているようだった。何処か痛むのだろうかと咲夜がおろおろしている間も変わらない。しかし、少しして龍の目がきらりと光って次第に滲んでいく。まるで水の中で紫の花が揺蕩っているような美しさに咲夜は目を奪われながら、気づけば何故か両手を龍の目元へ差し出していた。
龍が瞬きをすると、ぽろりと涙が零れる。それを掬うように差し出した咲夜の手に落ちる頃には、涙はまるで一枚の花びらのような形に結晶化して掌の上に落ちてくる。
「綺麗」
その涙片は、龍の鱗と同じように真珠のように輝き、角度によってきらきらと虹彩を放つ薄い硝子細工のようだった。
龍は咲夜がそれを手中に納めた様子を見ると目を細め、鼻先で咲夜の両手を咲夜の胸元に押し返す。くれる、と言っているような仕草に咲夜は龍を見つめた。
「これ、貰って良いの?」
人の言葉の返事は無いが、代わりに龍は優しく喉を鳴らす。
咲夜は龍なりに考えて示してくれたであろう優しさに、また涙を滲ませながら龍の頭を抱きしめる。他者に抱きつく行為を母以外にしたのは初めてで、久しぶりの抱擁は咲夜からしてもぎこちないものだった。
「本当にありがとう。ずっとずっと大事にするね」
その日はそれからも龍と暫く話をした。相変わらず咲夜が訥々と一方的に話すだけだが、龍は穏やかにそれを聞いてくれた。
やがて時間は過ぎ、泣き疲れていた事もあってか咲夜は龍に寄り添って眠りに落ちる。龍の体温はとても温かく、耳元で鳴る鱗の水のせせらぎのような音はとても居心地が良い。
ずっと慰めるように大きな顔を寄せて時折擦り付けていた温もりが、咲夜が完全な眠りに落ちていく合間にどんどん小さくなっていく感じがした。咲夜が「あ、れ?」と声を漏らすが、眠気には敵わず完全に瞼が閉じる。
その頃には龍の温もりは人の手のひら大の大きさに変わり、その手が咲夜の髪に触れる。
「──……咲夜」
眠りに落ちた咲夜の隣に龍の姿は無く、そこにいたのは金糸のような髪を高く一つに結わえた薄紫色の衣を纏った青年だった。
涙の痕を残す咲夜の頬に手を伸ばしたが、青年はその手が触れる間近の所で手を止める。その手元にはまた僅かに黒い靄が掛かっていた。
忌々しげにその靄を見ながら、もう一度青年は咲夜を見る。極力咲夜の肌に触れないように抱き上げ、祠の近くへ横たわらせてから薄紫色の羽織を掛けた。
その衣越しに咲夜を撫でて、青年は暫く穏やかな寝顔を見つめてから唇を開く。
「この恩は必ず返す」
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