二段ジャンプボーイ

城井映

二段ジャンプボーイ

 二段ジャンプ──一度跳んだ後、空中でもう一度跳躍するその技を得ようとして、兄は霙谷みぞれだにの底に落ちて死んだ。兄が十二歳を迎えた梅雨のことで、遺された弟はその年に追いつき、少年となった。来年には中学生になる。


 霙谷は少年の住まう地域にある有名な谷だった。江戸時代に起こった大地震で山が裂けてできたと、小四の社会で教わるので誰でも知っている。

 少年は霙谷に行くと、その谷底の暗さを見下ろしながら、どうして兄はこの深さを恐れなかったのだろうか、と考えた。兄と同じ年になればその心がわかると思ったが、わからないままだった。少年は肉親を殺したこの谷に本能的な恐怖を覚えた。


 兄が二段ジャンプをできたのかは定かではない。家族も友達も見たことがなかった。ただ、兄は二段ジャンプの研究ノートをつけていて、そこに霙谷を渡ることが目標として掲げられていた。

 バカなことを、と家族はやりきれない思いを抱いた。アニメやゲームに感化され、できるはずがないことに没頭し、無謀にも挑み、代えのきかない大切な命を散らしたのだ。こんなに悔しいことはない。


 しかし、兄は二段ジャンプができたのだと少年は信じていた。なぜなら霙谷の深さ・彼岸の遠さを見て、普通なら飛び越そうなんて思わない。二段ジャンプが実際にできて、飛距離に自信を持っていたからこそ、越してやろうと挑戦したのだ。兄はそういう人だ。

 少年がその後を継ごうと考えたのは自然な成り行きだった。

 少年は家族の目を盗み、ひとりこっそり兄の研究ノートを見て、二段ジャンプの練習を始めた。兄の表現は極めて大雑把で、ひどく感覚的だった。


 とんだ時にヒュイっとしたものをつま先から足の裏にすべらせる

 けってからけるんじゃない そうすると、足が抜けて終わる けってからのらせる

 足をだます感じ とんだ後、また地面があると思い込む


 始終、そんな塩梅あんばいだったので難解を極め、結局、少年の二段ジャンプ特訓は一週間しか続かなかった。


 二段ジャンプに挫折してからしばらくして、少年のクラスメイトの少女が病気で入院した。もとより持病があって、一週間に二日は欠席か遅刻・早退していた子だった。

 少年はその知らせにショックを受けた。

 兄が死んで間もない頃、少年はたびたび耐えきれなくなって、人目のつかないところで泣いていた。ある時、そこに少女がやってきて、泣き顔を見られた。

 嗤われるかと思ったが、少女は嗤わなかった。少女は驚いた顔をすると、無表情になって、それから、安堵したように言った。ずっと頭の中で繰り返していたことを告げるように。


「わたし、病気でさ、死んじゃうんだって」


 少女は言った。怖いし、泣きそうだけど、でも、なんか、今はそれでもいいやって気になった。君みたいに、泣いてくれる人がいるのかなって思えたから……。


 そのやり取り以降、少年と少女のささやかな交流が続いた。少年は空になった席を見つめながら、誰かがいなくなるのはもう、うんざりだと思った。代わりに自分が死にたい気持ちだった。


 少年は少女に会いたいと思った。しかし、一介の男子として、女子ばかりで構成されたお見舞いグループに加わる勇気は出なかった。手紙や千羽鶴を抱えた集団の後方を、偶然を装ってけていくので精一杯だった。

 その結果、少女は町立病院に入院していることがわかった。大きな病院ではない。入院棟の贈られた千羽鶴を窓辺に飾っている二階の病室だ。わかっているのにそこまで行く甲斐性はなかった。少年は自分が子どもだから、入った途端、大人たちになすすべなく追い出されてしまうだろうと思った。

 とぼとぼと帰路につきかけ、ふと、あることに気づいて振り返った。病院の建つ敷地は高低差があり、入院棟に面した駐車場は一階と二階の中間ほどの高さに位置する。

 もしかしたら、二段ジャンプができれば、二階に届くかも知れない。


 少年は家に帰ると、すぐに兄のノートを開いた。そして、改めてその難解さに震えた。何もわからない。でも、わからなければいけない。幸い兄とは血が繋がっている。頑張れば絶対にわかるはずだった。

 数回通読してわかったことは、地面を蹴って一度跳んだ後、もう一度蹴るための何かを準備しなければならないことだった。兄はこれを「ヒュイっとしたもの」と表現して、以降はこれを前提に研究を進めている。


 ヒュイっとしたもの。何なんだそれは。でも、疑っている暇はなかった。少年は兄の残した感覚を掴むために、何度もノートを読み込んで兄の言葉を頭に叩き込むと、ただひたすらに実らないジャンプを続けた。

 靴を二足もダメにした頃だった。いつものようにジャンプをしたところ、足に紐が引っかかったような感覚があった。取ろうとしたが何もついていない。怪訝に思ったのも束の間、少年は雷鳴に打たれたように悟った。


 これが「ヒュイ」だ!


 ヒュイはマジックテープ留めでなく、紐付きの靴でなければ発生しないようだった。紐によって複雑な空気の流れが生まれるのだろうか。

 ともかく、ヒュイができてからは早かった。引っかかった感覚を足裏に回す。地面を蹴ってから、紐を滑らせ、その上に乗る。綱渡りの曲芸師のように。それで、足を騙す。そこは地面ですよ。もう一度跳べますよ、と思い込む。

 空中で自分の身体を騙すのは、二段ジャンプを信じることと一緒だった。

 少年は大きく跳躍すると、ただ空だけを見上げて、自分はもう一度跳べるのだと素直な心で思った。その時、兄の声がしたような気がした。


 少年は空中で跳んだ。そうして、自分がかつてないほどの高さにいることに気がついた。塀の上面が見え、家の屋根が見え、空が大きく見える。見慣れたものの見慣れない様子に、どっと押し寄せる浮遊感・高揚感。少年は声高く快哉を叫んだ。

 が、それも束の間、みるみる身体は落ちていって、少年は地面に叩きつけられた。全身を激痛が襲う。ただ、泣かなかった。兄は二段ジャンプで死んだ。もし泣いて、やってきた家族に見られたら、せっかくできた二段ジャンプを禁止されるかも知れない。少年は痛みをこらえながら立ち上がると、恐怖を振り払い、もう一度跳んだ。何度も、何度も。もっと高く、もっと高く……少女のもとに届くまで。


 もう二足、靴をダメにするほど練習を繰り返し、やがて二段ジャンプに熟練した少年は病院に向かった。人が少なく、確実に病室にいるはずの早朝を選んだ。

 いそいそ屈伸をして、大きく息を吸い込んでから、少年は地面を蹴った。足にヒュイを絡ませ、器用に足裏に滑り込ませると、膝を折り畳み、バネで地面を弾くように一気に力を放出する。そうして、二段目のジャンプをした少年は、ついに、少女の病室の高さへと達した。


 そこで、少年が目にしたのは、千羽鶴が吊り下がっただけの空っぽの病室だった。


 呼吸が絡まったような感覚を覚え、身体に力が入らなくなった。少年は受け身も取らず、地面に叩きつけられる。痛みより、虚しさの方が大きかった。少年は泣いた。辺りを憚らずに泣いた。幸か不幸か、誰にも見咎められることはなかった。


 少女は死んでしまったのだろうか。わからなかった。少女の入院から一年半が経ち、少年は中学校に進学してしまったからだ。少女が同じ中学校に進学したのかも定かではない。誰かに訊けばいいという発想はあったが、この時期の異性は別の種族のように遠い存在になる。内気な少年が真相を確かめる術はなかった。


 思春期に少年は内向的になっていた。

 もとより、二段ジャンプのことが頭がいっぱいで友達との交遊も極力減らしていたし、それも片思い(後からそうと気付いた)の少女の部屋を覗き見るため、というキモい動機から(これも後からそうと悟った)だという事実に衝撃を受け、結果、自分は何よりも価値のないウジ虫以下の存在だと思うようになってしまった。


 少年が不登校になるのは時間の問題だった。朝起きて、何もせず、夜に眠る。少年は非常なシンプルで、緩やかな地獄のような生活を送った。

 家族は学校に馴染めないためのものと思い、カウンセラーをたびたび呼んで対話をした。少年は本当のことを何も話さなかった。いや、話すことができなかった。少年自身、本当のことが一体何なのか、わかっていなかった。ただ、漠然と、ひたすらに、気分が暗いだけだ。

 息の詰まるようなカウンセリングを終えて、少年は逃げるように自室に戻り、息を取り戻したような気分になった。せめて少女が生きているかどうか、知ることができたらもう少しマシになるのに。

 そんな考えが思考の隙間から浮かんできて、少年ははっとした。

 自分が引っかかっているのは少女の安否だった。ひとりの人が生きているかどうか、知りたいという感情にキモいもウジ虫もない。この時期特有の肥大化する自尊心とは無関係の、純粋な気持ちのように少年には思えた。


 翌日、少年は通っていた小学校に行って、少女の行方を訊いた。

 言葉にすれば、たったそれだけの行為だったが、引きこもって人との関わりを断っていた少年にとって、体力と気力を激しく消費する命がけの行動だった。それでも本当にしたいことだったので、否やはなかった。


 狭い町だから、少年の事情は知られていた。対応してくれた事務員が少女の母親と元同級生だという幸運に恵まれ、本当は教えちゃいけないんだけど、頑張って来てくれたんでしょ、とずっと知りたかったことをあっさり知ることができた。

 どうやら、少女は都会の病院に移ったらしい。進学先もそちらの中学だということだ。詳しくどこかまではわからない。こっちに戻ってくるかもわからない。


 少年は自室に戻って、白い壁を見つめた。心境は相当複雑だった。

 まず、こんな自分でも本気で思い立って行動したら、知りたいことを知れたという安堵だった。それから、少女が生きているという安心が来た。それは少年にとっての希望となった。

 ただ、都会に移ったという少女の健康状態は、予断を許さないであろうこと、そして何より、少年から遠く離れた場所に行ってしまったことが、少年の心を重くした。

 どうして、手が届く場所にいる時に、本気で会いに行こうと思わなかったのか。大きな壁だと思っていたものは、簡単に跨ぎ越せる段差でしかなかったのかも知れないのに。

 逃げてしまった自分には、もう、二段ジャンプしか残されていない。


 二段ジャンプ。


 少年はいつの間にかうなだれていた顔を上げた。

 いや、そうじゃない。自分には二段ジャンプがあるんだ。もとより、少女のもとへ行くために死に物狂いで習得したものだ。これを使わないでどうする。

 少年の心に何かがキラリと兆した。あれほど離れがたかった自分の部屋を再び飛び出すと、あの場所に向かった。霙谷だ。

 兄を食らった深淵。すでに兄の年を追い越した少年だったが、未だに純粋な恐怖を覚えた。


 兄がどうして霙谷に挑んだのかはわからない。ただ、少年にはわかる。きっと人には知られたくない、乗り越えたい何かがあったのだ。それが具体的に何だったのかは、この際、どうでもいい。肝心なことは、あの時の兄も、恐怖さえそのままに、この深い谷を飛び越そうと決意するだけの勇気を得ていたということだ。今の、少年のように。


 力を込めて、少年は跳んだ。


 足が宙に浮いた瞬間、恐れは掻き消えた。やってきたのは圧倒的な現実。この星の質量、重力の無造作な力だった。


 なんだ、そんなものか。


 少年の身体はその御し方をとっくに知っていた。足は虚空をこねて、新たな足場を生み出す。そうして流れるような動きで脚をたたむと、もう一度、空中で跳ねる。

 なぜ、こんなことができるのか、自分でも信じられない。ただ、できてしまうから、できるのだ。


 気が付くと、少年は霙谷の対岸にいた。兄の越えられなかった深さを見下ろして、少年は静かに思った。

 できる。この力で、おれは、あの子に会いに行ける。

 そう確信した時、少年は一つの大きな変化を受け入れた。

 君を見つけるために、何度だって跳ぶ。


 少年は中学を卒業すると、通信制の高校に進学した。学力や集団生活への不安など理由を挙げたが、実際のところは、行動の自由を確保するのが大きな目的だった。

 高校の本部に行くと言って親から交通費をもらうと、少年は都会へと向かった。都会は遠足や旅行で何度か来たことはあるが、ひとりで来るのは初めてだった。

 選んだのは、有名な巨大スクランブル交差点だった。無数の建物の林立し、信号の合図一つで群衆が往来する街の中、その心細さは並ではない。少年はしばらく立ち尽くしてしまった。


 しかし、やると決めた。ついに覚悟した少年は信号を待った。歩行者用のランプが音もなく青に変化する。少年は雑踏の一部となって、道の真ん中へと踏み出す。少しずつ足を速め、やがて走り、往来の先頭に立つ。


 そして、跳ぶ。

 一度、さらに、もう一度。


 少年は都会の真ん中で、二段ジャンプをした。

 それを目撃した者の多くは、ただ困惑した。二段ジャンプというものを知ってはいても、自分が実際に目にしたものが何か、その瞬間には理解できなかったのだ。結果、少しの戸惑いの波紋だけ残して、そのインパクトは雑踏に消え去ってしまった。


 少年の存在にいち早く気づいたのは海外の人々だった。スクランブル交差点の雑踏を撮影する外国人観光客たちのカメラが、空中を踏んで高く跳躍する少年の姿を収めていたのだ。

 彼ら彼女らはすぐに、その光景をインターネットに報告し、大きな話題を構築した。その隆盛はやがて、逆輸入的に少年の住まう国に伝わり「二段ニダンジャンプボーイ」というミームを生んだ。


 その間も、少年は健気に二段ジャンプを披露し続けた。オフィス街、歓楽街、大きな公園、イベント会場、地方の大型商業施設、初詣の神社。

 見つかって、カメラと「二段ジャンプボーイ!」と歓声を向けられるたびに、少年は大きく跳躍して姿を隠した。その頃、少年の二段ジャンプ力は開花の時期を迎えており、二階建ての建物なら易々と上がれるほどになっていた。そのため、誰も少年を捕まえて、話を聞くことはできなかった。


 正体を伏せたことは大きな想像の余地を生み、少年の正体について考察・妄想する向きから、その二段ジャンプの原理を物理学的に考察する現実的な向きまで、多様な語り口を許した。

 この辺りのことは、少年は狙ってやったわけではない。ただ内気シャイだっただけだ。


「おい、二段ジャンプボーイ、お前だろ」


 ある時、少年はそう告発された。画面の向こうには、実際には会ったことのないクラスメイトの顔が映っている。

 少年は曖昧に笑みながらうなずいた。


「うん。あのさ、おれ、有名になりたいんだよ」


 少年の狙いは有名になること、そうして、少女の方から少年を見つけてもらうことだった。


「お前ならできるよ。やろうぜ」


 クラスメイトはそう言ってくれた。味方を得た少年は次の段階へと進む。

 動画チャンネル「二段ジャンプボーイ」を開設し、自ら情報を発信し始めた。ただ、見せるのは二段ジャンプだけ。タイトルも「屋根越え」「天井のボールを取る」「5mチャレンジ」「二段バク宙」などの最低限の情報、尺も十数秒のものにした。自分のプロデューサーとなったクラスメイトが、情報を小出しにした方が長続きすると助言したのだ。

 動画は大きく話題になり、チャンネルも急成長した。数々のメディアに取り上げられ、インフルエンサーが言及したり、二段ジャンプを習得しようとしたり、二段ジャンプを補助すると謳う謎グッズも現れた。

 当然、収益化も見込めたが少年は申請を見送った。少年は未成年のため、保護者の許可が必要になる。兄の死因となった二段ジャンプを利用してウケているなど、どうして家族に伝えられるだろうか。

 未だ遠征費を両親に乞いながら、少年は早く大人になりたいと思った。


 ただ、チャンネル運営は躍進を経験してほどなくマンネリに陥った。二段ジャンプを生かすアイデアが減っていく中、協力者の友人は大学受験を理由に手を引いた。少年は自分が進路に全く無頓着だったことに気が付く。


 ただ、どうしようもなかった。結論は相変わらず「二段ジャンプしかない」だった。

 少年はひとりになってからも、辛抱強く二段ジャンプを続けた。「まだやってたんだ」などというコメントも目に付くようになった。まだやってるよ、と思ったが、言わなかった。まだ口を開く時ではない。少年は待ちに待った。


 そして、ついに十八歳の誕生日を迎えた。法律上、成人になったのだ。これで保護者云々を気にせず振る舞うことができる。

 少年が真っ先に取り組んだのは、溜まりに溜まった取材依頼に応えることだった。自分が何者か、自らの口から話す時が来たのだ。少年は信頼できるメディアを選定し、相当苦労して応じる旨を伝えた。何年も熟した秘密ゆえ関心はすさまじく、あっという間に段取りが組まれた。

 インタビューで、少年は自分の半生を打ち明けた。兄が死んだこと。不登校だったこと。世間はその半生を甚大な悲劇と受け取り、兄の遺物である二段ジャンプを物言わず発信し続けた少年の健気な心に感動した。


 再び「二段ジャンプボーイ」の潮流が来た。少年は高校を卒業すると、かねてから勧誘されていたタレント事務所に所属し、聴衆の期待に応えるべくすべてをなげうって奮闘した。

 恐ろしく目まぐるしい日々が始まった。次々仕事が入り、一日に何か所も現場を巡って跳びまくった。少年はあっという間にインフルエンサーとなった。

 少しでも露出を増やしたくて、トーク番組に出たり、他タレントとのコラボにも積極的に参加した。少年は内気な自分を押し隠し、外面の軽妙で捉えどころのない自分を演じた。普段は大人しいが、時折シニカルになる性格はウケた。少年は言いたくもない皮肉を日々口にして、二段ジャンプをする機会を必死に作った。


 その裏で、少年は少女を探した。最初はバズった時点で少女のことを明かして「見ていたら連絡してほしい」ということを言うつもりだった。

 ただ、影響力が増すにつれ、少女の迷惑になるのではないかと恐れた。そのため、少年はオフで出会う人々に少女の特徴を告げ、心当たりがないかを尋ねて回った。その話は業界で有名になり、どこから話が漏れるのか、たまにゴシップ誌で擦られるようになった。

 かつての少年なら傷ついていただろうそんな趨勢も、考える暇もないほど多忙の波が少年を揉んだ。十メートルの跳び箱を跳んだり、バンジージャンプの途中で二段ジャンプができるのか検証したり、高度な二段ジャンプを開発したり、アクション映画のスタント役で出演したり、その他、無数の動画の企画に参加した。一分一秒も無駄にせず、可処分時間はすべて二段ジャンプに捧げた。


 その跳躍の先には少女が常にいた。多忙な日々も、ひとつひとつ跳ぶたびに、少女に近づいていくような、そんな実感だけが少年を支えた。

 少しの暇ができるたび、連絡が来ていないかを確認する。来ていないことを見て落胆する。死んでしまったのかも知れない、と悲観し、翌日には、いやきっと生きているはずだ、と希望を取り戻す。

 そんな生活を、時の流れを忘れるほどの濃度で続けた。毎日、毎日、今日も来ていない、今日も来ていない、と思いながら眠っていく。もはや、それ以外の意識の置き方がわからなくなるほどに。


 気が付けば、少年は青年となっていた。自分がもうどうにも降りられない高みに来ていると青年が悟り始めていた頃、マネージャーがこう言った。


「もうネタも尽きてるし、そろそろ『二段ジャンプのやり方講座』やりませんか」


 胃の腑を槍で貫かれたような衝撃が襲った。少女と会うために何でもやる、と決めていたのに、それだけは嫌だと思ってしまった。二段ジャンプを拠り所にしてきたのに、それを他人に教えれば、自分の価値がなくなってしまうような感覚を覚えてしまった。

 ただ、青年の立ち位置はそこまで至っていた。世界には次々に新しく、鮮烈なものが入ってくる。二段ジャンプ一本で登り詰めるには、その秘技ですら情報として切り売りしなければ、生き残れない段階だった。


 それでも、青年は首を縦に振れなかった。マネージャーも「そうですか」と短く言って、以降、この話題を出さなかった。

 思えば、そのやり取りが分水嶺だったのだろう。その期を境に、青年の仕事は少しずつ減っていった。事務所が青年に伸びしろを感じなくなったのだ。青年は抵抗したかったが、食い下がればまた「二段ジャンプ講座」を提案される気がして、気力が削がれてしまった。

 いちかばちか、探し人を探してくれるテレビ番組に出られないか打診したが、検討する旨だけ戻り、後は沈黙だった。

 運営しているチャンネルの伸び率も横ばいになった。ある日、「まだやってるんだ」というコメントが目に付き、知らず拳を固めていた自分に気づいた青年はふと、疲れを感じた。


 俺は何をやっているんだ。昔の思い出をいつまでも引きずって。


 青年は休止宣言をすると地元に戻った。どうしても後ろめたさがあり、長らく連絡を断っていた実家に向かう。母親は青年を見ると言葉を失い、それから、何も言わずに休むように言った。家族は、兄の遺したものを頼りに奮闘する青年を、複雑な思いで見守っていた。青年は不誠実を詫びた。

 そうして地元に戻り、青年は地に着いたような心地を覚えた。ずっと、文字通りに世間の上を跳び回っていたのだ。流石に有名人なので声をかけられまくったが、馴染むと何とも言われなくなった。注目されない気楽さを久しぶりに味わいながら、多忙のうちに取りこぼしてきた時間を拾い集めるような気分で、青年は懐かしい場所を歩き回った。


 そして、町立病院の前に差し掛かった時、建物の中から出てくるその女性を見かけた。


「あ」

「えっ」


 一目でわかった。長年、探し求めていた少女だった。あまりにも自然にいるので全く現実味はないが、確かに彼女だった。記憶に残る像に比べ遥か大人になり、痩せてはいるものの元気そうだった。


 覚えてる……とかつての少年は問うた。

 うん……とかつての少女は、両手を落ち着かないように組み替えながら答えた。


 突然、悲願が叶ってしまった青年は、自分が何を願っていたのかを忘れてしまったようだった。白紙になった気分で、並んで歩き、話をする。

 少女は地元を離れた後、通院しつつ都会の学校に通った。病気は治ったけれど、病み上がりの身体では都会のスピード感についていけず、短大出てそのまま戻ってきたらしい。


 確かに俺も都会で頑張ってたけどキツいよ、と彼はこぼした。

 でも、びっくりした。すごい有名になってて、と彼女は遠くを見て言った。


 君を探していたんだ、と彼は告げる。

 どういうこと? 探すって。彼女の表情が陰る。


 有名になれば、君に見つけてもらえると思った。


 彼の言葉に、彼女は眉の端を下げた。


 何それ。探している相手に、見つけてもらおうとするなんて。


 子どもだった。他に思いつかなくて。ずっと、君からの連絡を待ってた。


 ……あのね、君は有名人で、私は一般人。連絡できるはずがないよ。


 でも、小学校の時の覚えのない同級生からだってDMが来た。一報でもくれれば。


 それを言うなら君だって、一度でもお見舞いに来てくれれば。


 ふたりの距離が静穏に満たされる。しかし、それは気まずいものではなかった。お互いがお互いの台詞の意味合いを溶かし、自分の裡に流し込むのに必要な沈黙だった。

 やがて、彼は言った。


 君のことが好きなんだ。


 応えて、彼女は言った。


 私も君のことが好きだった。


 でも、それは子どもの時のお話。今、君は時の人で、もっと素敵な人がいるはず。


 彼は重い衝撃を受けた。動揺に泳いだ目が彼女の左手薬指に痕を見つける。彼は、会った瞬間、彼女が慌てたように両手を動かしていたのを思い出す。

 そうか。指輪か。

 震えを抑えながら、彼は言った。


 越えられないものを越すための二段ジャンプだったのに。遠回りしすぎたみたいだ。


 私は逆。柄になく急ぎすぎたみたい。


 ふたりは弁解するように言い合って、やがて、まるで明日も同じ道で出会うかのように別れた。


 彼はその足でそのまま霙谷に向かった。崖際に立って、兄を捕えた暗闇へ視線を落とす。それから、思い切って地面を蹴った。大気を足に絡め、空中で再び跳ぶ。角度を着けず、垂直に。地球の重力は彼の身を谷の底に引きずりこむように働く。


 が、そこで彼は、もう一度空中を蹴った。

 落下から反転、新たな跳躍を得て、彼は向こう岸へと着地する。


 三段ジャンプ。彼女にだけ、見せるつもりだったのに。


 遥か高みにはまだ半ば。どうしたって、俺にはこれしかない。これまでも、これからも。彼は深い息を吐くと、事務所のマネージャーにメッセージを送った。


「新しいジャンプを会得しました。また跳ばせてください」

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二段ジャンプボーイ 城井映 @WeisseFly

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