藤倉

詣り猫(まいりねこ)

藤倉

 103号室の表札がちゃんと【中嶋】なことを確認した。


 たまに「自分が間違っているのでは?……」と勘違いするくらいに、あいつが鎮座している。 


 それで、また今日も居た。坐禅を組み、アパートの部屋の前で待ち構えているのは、藤倉というオッサンだ。


 彼のことは、初瀬さんという警察官から聞いた。藤倉は、八幡山在住。ここまで歩いてくるらしい。徒歩40分以上かかるのに。


(暇人か!)


 藤倉は、目を瞑り、変な日本語で語りかけてくる。


「汝は、何故こちらにまいられた?」


「あの……もう何回も言ってますけど、ここ俺んちなんで」


「はっはっは、汝は面白いことを言う」


「俺は面白くないっすよ。今日こそは中に入りますよ!」


 こんなやり取りが日課のように続く。彼は帰ることもあれば、1時間以上動かないこともある。そんなときは初瀬さんを呼び、帰ってもらう。


 それでも明大前駅から徒歩5分で家賃12000円は破格だ。半年経った今も引っ越す気になれない。


 藤倉はおかしな奴だが、暴力は振るわない。話に付き合えばそのうち満足して帰る。疲れて早く寝たい日以外は、許容範囲内。そう思っていたが、今日は一際長い日だった。


「バイト先では田所さんに絡まれて、帰ったらあんたかよ!」


「ほぉ〜、田所氏という人物は、我も覚えておるぞ。確か小さきクレームを言いし者であったな」


「違う違う! 会話を膨らませたいわけじゃないの! おれは家に入りたいの!」


 拉致があかないので、初瀬さんを呼ぶ。10分も経たずに駆けつけてくれた。



 「着きましたよ。ここです」


 不動産屋の本田が道の先にある建物を指さした。『各務かかむ荘』という木造アパートだった。


 松井は写真よりもボロくて、目を白黒させる。本田は笑顔で言った。


「外は古いですが、中はリノベで綺麗ですよ」


 建物に近づくと、異様な光景が飛び込んできた。


「初瀬さん、言ってやってくださいよ! この人まだ帰らないんすよ!」


「あんたの家は八幡山でしょ!」


 部屋の前の男が、誰も居ない方向に向かって首を左右に振り、大声で話している。


 ギョッと固まる松井に、本田さんが穏やかに言った。


「あの方は103号室の中嶋さん。少し変わってますが、挨拶はキチンとするいい人ですよ」


「え、あれは誰と……」


「さぁ。私たちには見えない誰かと話しているんですかね」


 背筋が凍った。


 そのとき2階の部屋の窓が、勢い良く開き、おじさんが顔を出す。


「いらっしゃいませー!」


 快活な声が響き渡る。すぐに窓を閉め、また開けて、今度は暗いトーンで言った。


「いらっしゃいませ……」


「あの! あれは!?」


「204号室の野口さん。劇団員らしいですよ」


(ここ、変人ばっかりだ!)


 松井は迷った。 駅近、渋谷まで乗り換えなし。それで家賃が12000円。だけど、どう見ても隣人ガチャは失敗……。


 本田が顔色を察知して、話しかけてきた。


「23区の駅近でこの値段はないですよ」


「ですよね……」


「それに、安い場所にはなにかあるものなんです」


「う〜ん……」と松井が熟考する。


 その間も、103号室のひとりごとと、204号室の「いらっしゃいませ」が各務荘の空気を日常からねじ曲げていた。



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藤倉 詣り猫(まいりねこ) @mairi-neko

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