第18話 再誕の大地と残された者たち

 夜が明けた。

 世界は変わっていた。


 黒霧山脈だった場所は、今や広大な湖と平原へ姿を変え、光を帯びた草木が風と共に揺れている。

 かつて毒を含んでいた大地の瘴気は消え、透明な空気に包まれていた。

 しかし、その静寂には奇妙な余韻があった。

 空のどこか、遠い深淵から囁くような声がいまだに響いてくる。


 それは、アレンという名の痕跡――理の残響。


 湖畔の丘に、三つの影があった。

 リオル、リナ、そしてガレド。

 彼らは崩れた王国の地図を広げながら、変わり果てた地形を確かめていた。


「……地脈が完全に書き換えられている。地図の意味がなくなっちまったな。」


 ガレドが苦く笑う。

 リナは湖を見つめた。

 水面の中央には淡く光る結晶のような柱が建ち、微弱な魔力の波動を放っている。


「あれが残ったんですね。《ノルド・核心柱》。アレン様が最後に置いていった……門。」


「封印の名残、か。」


 リオルが呟く。

 その声には複雑な感情が混じっていた。

 怒りも悲しみももうなかった。ただ、胸の奥に残るぽっかりとした喪失感。それが空を見上げるような静けさとして彼から溢れていた。


「アレンが、こうなることを望んだのか?」


「ええ。ノルドは本来、“人の理解”そのものを超える存在になるはずでした。

 でもアレン様は、それを“人が生きていける形”に戻したんです。」


「なら……あいつはやっぱり、最後まで人の側に立ってたんだな。」


 リオルは深く息を吐く。

 風が草原を渡り、光が彼の髪を照らした。

 以前よりもその瞳は穏やかだ。

 かつて戦いと後悔に支配されていた男の姿はそこにはない。

 ただ、友を想い続ける一人の人間がいた。


「それで今後、この地をどうする。王も教会も……この変化を黙っているわけがない。」


 ガレドの問いに、リオルは短く考え、そして答えた。


「隠す。」


「は?」


「この場所を知る者は、俺たちだけにする。ノルドの記録も、封印の核も、すべてなかったことにする。

 アレンが自分を犠牲にして“人を取り戻した”なら、俺たちも守らなきゃいけない。」


 その言葉の裏には痛みがあった。

 長い旅路の果て、勇者と呼ばれた男が辿り着いたのは、栄光ではなく沈黙。

 それでも、リナは静かに微笑んだ。


「……アレン様が亡くなった後も、あなたは少しも変わっていませんね。

 真っ直ぐで、理屈を越えた優しさで動く。」


「そりゃお前に言われたくない。あの人に似て、危なっかしいくせに。」


「危なっかしくても構いません。私にはまだ、“記す”役目があります。」


 リナは胸元のペンダントを開いた。

 中には小さな紫色の結晶が収められている。

 微かに光りながら、心臓の鼓動に合わせて震えていた。


「ノルドの分枝核……アレン様が私に残したものです。これがあれば、彼の記憶も、これから起きる変化も記録できる。」


「つまり、見届け人ってことか。」


 ガレドが煙草を取り出し、火をつける。

 紫煙が空へ昇り、風に消えた。


「俺は、もう戦いが終わるならそれでいい。

 けどリオル、お前はどうする? 勇者は、平和になったら何をすりゃいい。」


「勇者なんて、とっくにやめたさ。」


 リオルは笑いながら答えた。

 その笑みは晴れやかだった。

 だが、すぐに表情が引き締まる。


「この世界はもう均衡を失ってる。

 アレンの“再誕”が成功した以上、どこかで誰かがまた理を壊そうとするだろう。

 その時、止める人間が必要だ。……俺はそのために生きる。」


 言葉の重みを感じたリナは、ゆっくりと頷いた。


「あなたがそう言うなら、私も下でアレン様の核を管理します。

 ノルドの中にはまだ、眠っている“分解”の理が残っています。放置はできません。」


 湖面の光がわずかに揺れた。

 それはまるで、眠る賢者が彼らの会話を静かに聞いているかのようだった。


          ◇


 数日後。

 リオルとガレドは隣国の小都市まで下山していた。

 町は噂に包まれていた。「黒霧山脈が消えた」「勇者が神を討った」「賢者が天へ登った」。

 人々はその意味を好き勝手に語り、酒場は夜通しにぎわっていた。

 だが、リオルは静かに通り過ぎ、宿の陰から空を見上げた。


 雲の切れ間に、奇妙な光がある。

 それはまるで誰かが星を一本描いたかのような、細い虹の線。

 加えて、夜空には見たこともない星がひとつ輝いている。

 それは紫でも赤でもなく、淡い白銀色。


「アレン……お前、まだ見てるだろ。」


 呟きに答えるように、遠雷が鳴った。

 ガレドが階上の窓から顔を出し、軽く首を振る。


「寝ないのか。」


「寝たら、夢であいつに説教されそうでな。」


「はは、そいつはもうお前の中で生きてるじゃねえか。」


 リオルは苦笑しながら、腰の剣を叩いた。

 聖剣クラディウスは完全には元に戻っていない。

 だが、刃には淡い魔導文様が見え、そこから温かい光が滲んでいた。


「そうだ。まだ終わってない。

 俺たちが生きている限り、あいつの理は続いていく。」


「なら、次は“新しい世界”の始まりってわけだな。」


 ガレドは話を切り上げ、階下へ戻った。

 リオルは最後にもう一度だけ空を見上げる。

 その光の中に、幻のような影を見た。

 黒衣に包まれた人影が、空を渡っていく。


「やっぱり、お前はそう簡単に消えないか。」


 呟きと共に風が吹き抜け、ドアが軋んだ。

 その音がまるで笑い声のように聞こえる。


          ◇


 同じ頃、湖の底深くでは、光の柱が静かに灯り続けていた。

 リナがその中心で祈りを捧げている。

 彼女の両手に握られた結晶核が微かに震え、淡い声が耳の奥に響いた。


『……リナ。聞こえるか。』


「アレン様……!」


『長くは話せない。今の世界はまだ不安定だ。俺の理の半分が、どこかで“形”を探して彷徨っている。』


「形を……?」


『いずれ、それは“人”として現れるだろう。分解の理が人に染み込む。新しい時代が始まる。

 その時、また選ばなければならない。創るか、壊すか。お前たちが。』


 リナは唇を噛んだ。

 アレンの声には穏やかさがあったが、その内に含まれた意味は重い。

 彼は明確に警告していた。再誕の理は、次の災厄の芽にもなり得るのだ。


「必ず、見届けます。約束します。私があなたの記憶とこの世界の記録を守ります。」


『ありがとう、リナ。……それがあれば、もう十分だ。』


 最後の囁きが静寂の中で溶けていく。

 湖面が再び穏やかに波を立てた。

 その光の奥で、誰かが微笑んでいるような気がした。


 やがて夜になる。

 空にはまたひとつ、新しい星が生まれていた。

 それがいつか誰かを導く“灯”となることを、この時まだ誰も知らなかった。

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