第12話 地上への帰還、闇の聖堂にて
転移の光が鋭く収束し、重い空気がアレンの肌を舐めた。
視界が闇に慣れたとき、そこはかつて祈りの光に満ちていた大聖堂の地下だった。
だが今は違う。
聖堂の壁を飾っていた聖なる文様は反転し、紫と黒の魔紋に蝕まれている。
空間には血と香の混じった匂いが漂い、人の声ではない囁きが響いていた。
「……予想通り、汚染が始まっているな。」
アレンは掌を翳し、周囲の符形を解析した。
魔導式の層が複雑に絡み、中央の祭壇でひとつの“心臓”に集まっている。
その中心に横たわっているのは、白い衣をまとった女――聖女エリナ。
胸の上には黒い結晶が突き立ち、そこから血と魔力が交じり合って滴っていた。
「……エリナ。」
その名を呼んだ瞬間、渦巻く闇が反応した。
耳を裂くような悲鳴が響き、祭壇の前に立つ枢機卿バルドがゆっくりと振り向いた。
その顔には恍惚にも似た笑みがある。
「ほう……やはり来たか、賢者アレン。予言通りだ。」
「予言? 笑わせる。お前たちがやっているのは、愚かな欲望の延長だ。」
「欲望こそ神の原動力だ。神々が沈黙してから千年、我ら人が信仰の形を変えるのは当然の帰結。お前も理を追い、神を模倣したのだろう? 違うか?」
アレンの瞳が静かに光った。
短い沈黙の後、低く笑う。その音は冷たいが、どこか人間のぬくもりもある。
「確かに俺は神の構造に触れた。だが――お前たちはその“理”を理解せずに踏み込んだ。
結果すら計算できぬ術者が“創造”を語るな。」
「我らは結果を恐れぬ者だ! それこそが信仰の証!」
「ならば好きにすればいい。その代わり、結果もすべて呑み込んでもらうぞ。」
アレンが杖を掲げた瞬間、空間が震えた。
地下聖堂の石壁にびび割れが走り、低い唸り声が沸き上がる。
魔宝陣が自動反応し、闇の触手のような影がアレンへと伸びてきた。
だが彼は微動だにしない。
「低級召喚体か……分解。」
その一言で、影は光の粒と化し、消え去った。
バルドの顔が一瞬ひきつる。
彼が杖を振り上げ、祭壇の結晶に魔力を注ぎ始めた。
結晶が悲鳴のような音を立て、エリナの体が震える。
「やめろ……!」
アレンが踏み出すが、周囲の陣が光を帯びる。
重力のような圧が空間を満たし、身体が動かない。
バルドが叫ぶ。
「人も神も理も越える。これが我らが祈り! この女は“媒介”として完成するのだ!」
「それは創造ではない、“破壊の代弁”だ!」
アレンの声が空気を裂いた。
彼の足元で光が炸裂し、拘束陣が音を上げて崩壊する。
杖を突き立て、反転結界を生成する。
逆方向に流れ始めた魔力が、空間の法則そのものを引きずり出した。
「お前ごときに、私の祈りが壊せるかッ!」
バルドが怒号を上げる。だが次の瞬間、アレンの杖先が彼の胸に向けられた。
轟音とともに、見えない衝撃波が走る。
バルドの腕が吹き飛び、杖を落とした。
「しまっ――」
言葉が終わるより早く、彼の体が砂塵に変わった。
それは焼ける音もなく、ただ静かに消えていく。
「すべて、分解してやる。愚かな“偽装の信仰”ごと。」
その言葉とともに、結界の核心であった魔結晶が音を立ててひび割れた。
闇の波が弾け飛び、片膝をついていたエリナの体が解放される。
だが同時に、黒い靄が彼女の胸から溢れ、空気を焦がした。
「アレン……さま……?」
かすれた声が届く。
アレンはすぐに彼女に駆け寄り、杖を差し出した。
「動くな。お前の中に封じられた魔王の心核が暴走している。」
「そんな……私……どうすれば……」
「抑えることはできる。お前自身が、自分を“選べば”な。」
エリナの瞳が揺れる。脳裏を焦がす闇の声が再び囁く。
――選ばなくていい。痛みを感じる必要もない。お前が壊れれば、すべて終わる。
「うるさい……!」
彼女は胸を押さえ、呻き声を上げた。
アレンは片膝をつき、両手を彼女の胸の上に翳す。
そこから放たれる金と紫の光が絡み合い、内部の闇を一点に集束させた。
「このままでは持たん……!」
アレンの脳裏を《グリモア》の声が走る。
――心核を抜けば、彼女の生命も消滅する。選択を。
「黙れ。俺は“分解”し、“再構成”する。命ごと滅びにはせぬ。」
――理の介入は不完全。あなたでも“生命”は理解しきれていない。
アレンは歯を食いしばった。
だが、リナの声が遠くから届く気がした。
“あなたは誰かを救いたいのでは――”。
その瞬間、迷いが消えた。
杖を深く押し付け、光を膨張させる。
エリナの胸から黒い核が引き抜かれた。
それは心臓ほどの大きさで、なかにうずまく闇が咆哮を上げている。
「封印しろ、ノルド・リンク起動……!」
遠隔で反応した地下帝国の核心が、空から光の槍を放った。
転移陣が開かれ、心核が吸い込まれる。
そして、音を立てずに空間が閉じた。
静寂。
エリナの体が軽く震え、血が滴る。
アレンは彼女を抱き上げ、その額に手を当てた。
「……生きているな。」
「ごめんなさい……全部、私が……」
「謝るな。罪を作ったのはお前じゃない。世界だ。」
その言葉に、エリナの唇がわずかに動いた。
涙のような微笑が浮かび、やがて意識を失う。
アレンは彼女をそっと横たえ、祭壇の床に残った灰に視線を落とす。
「既に根は深い。王も教会も、闇に呑まれている。」
その時、背後の方から足音が響いた。
黄金の紋章がついた鎧、蒼く光る剣。
勇者リオルが、血の気の引いた顔で立っていた。
「アレン……お前が、エリナを……!」
アレンが振り向く。沈黙。
二人の視線が交差する。
それは幾千の言葉より重い瞬間だった。
「……早かったな。」
「ふざけるな! 何をした――」
「助けた。それだけだ。お前が“守れなかったもの”を。」
リオルの拳が震える。怒りと、恐怖と、理解できぬ感情が入り混じっている。
だが、彼の剣はすぐに抜かれることはなかった。
エリナの安らかな表情を見て、言葉を失ったからだ。
「……お前、本当に……」
「信じるな。俺はただ、自分の理に従っただけだ。」
アレンは踵を返し、転移門へと歩み始めた。
紫の光が足元を覆う。
「まて、アレン! お前はどこへ――」
「地下だ。世界をもう一度分解するために。」
「そんなことをして何になる!」
「“正義”の瓦礫の上に、新しい理を積む。それが俺の答えだ。」
光が彼を包み、声だけが響く。
「リオル。次に会うとき、お前の剣が本当に“誰を守る”のかを示せ。それがこの“世界”の審判だ。」
そして、アレンは消えた。
残されたリオルは剣を握り締め、エリナの手を取ってうつむく。
祈りにも似た震えが、静かに彼の胸から漏れた。
天井の亀裂から一条の朝光が差し込み、黒く焦げた法衣の上に淡く降り注ぐ。
闇の聖堂に、久しく忘れられた“朝”が戻ろうとしていた。
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